第十二話 旦那様のおまじない
結論から申し上げますと、子どもの体力を舐めていました。
代わる代わるたくさんの子どもたちが旦那様と私に会いに来てくれて、色々なお店に案内してくれました。またその先々で子どもたちは自分の友だちを紹介してくれました。
布で作ったお花のお店、ポプリやドライフラワーのお店、ガラス細工のお店、ソーセージとベーコンのお店、パンケーキのお店と様々なお店がありました。行く先々で旦那様が私に何かを買ってくれようとするのを辞退するのも大変でしたが、それ以上に子どもたちの無限の体力に付き合うのはとても大変でした。普段、お庭を少し散策するくらいしか運動をしない私は、足が痛くなってしまい、今は孤児院の談話室で休ませてもらっているのです。
談話室は、こぢんまりとしていますが子どもたちが描いた絵が壁に飾ってあり、少しボロっとした色々な柄や種類のソファが置かれている優しくてあたたかい雰囲気のお部屋でした。あれだけ元気な子どもたちを受け止めているのですから、ソファに繕った跡が多くなるのは不思議ではありません。
私はその中でアリスちゃんが「一番、人気があるの」と教えてくれたソファに腰掛けています。足元にしゃがみ込んだエルサが私のかかとに濡らした布を当てて、滲んでいる血を拭ってくれていました。
「申し訳ありません、もっと柔らかい素材で踵の低い靴にするべきでした」
靴擦れを起してしまった私にエルサが心の底から申し訳なさそうに言いました。
「大丈夫ですよ。まさか子どもたちがあんなに懐いてくれるとは思いませんでしたからね。ふふっ、どの子も良い子ばっかりです」
私は子どもたちの笑顔を思い出して自然と笑みを零してしまいました。
エルサも少しだけですが、そうですね、と表情を緩めてくれました。
するとフレデリックさんが救急箱を手に談話室へと戻ってきました。馬車まで取りに行ってくれたのです。
「奥様、大丈夫ですか?」
「はい。それよりもわざわざありがとうございます」
「いえ、当然のことですから。エルサ、これを」
フレデリックさんは控えめに首を横に振って、救急箱をエルサに渡しました。エルサはそれを受け取り、中から消毒液と傷薬、ガーゼと包帯を取り出して私の靴擦れを丁寧に治療してくれました。包帯は大袈裟です、と言ったのですがエルサは聞こえなかったふりをしてくるくると私の足に包帯を巻いてしまいました。こういう時のエルサはとても頑固です。
「ありがとうございます、エルサ。……フレデリックさん、旦那様とアルフ様はまだ戻りませんか?」
「もうそろそろ戻る頃だとは思います」
私が靴擦れを起したのに真っ先に気付いてくれたのは旦那様でした。旦那様は、いきなり私を抱え上げると子どもたちに私を休ませたいとお願してここまで案内してもらったのです。そして、エルサが抱え上げられた私の靴下の踵が血で汚れていることに気付き、慌ててここへ運ばれてしまいました。
子どもたちが泣きそうな顔で「リリアーナ様、痛い?」「ごめんなさい」と私の靴擦れを心配してくれました。私は、大丈夫ですよ、と笑いかけたのですがなかなか子どもたちは笑ってくれず、見かねたアルフ様が子どもたちを連れ出してくれました。旦那様は、先ほどまで心配でたまらないと私に張り付いてエルサと仲良く口喧嘩をしていたのですが、子どもたちが「侯爵様にお客様だよ」と教えに来てくれて「絶対に歩いちゃだめだ! 旦那様命令だからな! 絶対だぞ!」と念を押して、子どもたちと共に出て行きました。
「……この足では、セドリックには会いに行けないでしょうか?」
私は自分の足を見下ろして、ぽつりと呟きました。
旦那様が私の実家であるオールウィン家に朝一番にお手紙を出して訪問のお伺いを立ててくれていますので、お返事が来次第、孤児院の帰りにオールウィン家に寄る予定だったのですが、この足では無理かも知れません。
「大丈夫ですよ、奥様、旦那様が奥様を抱えて運ぶ気満々ですから」
フレデリックさんがふっと笑って言った言葉に私はぱちりと目を瞬かせました。旦那様にお姫様のように抱えられて、実家に帰るなんて考えただけで顔から火が出そうです。私は両手で頬を押さえて、顔を俯けました。
「そ、それは困ります……恥ずかしいですもの、それにセドリックがびっくりしちゃいます」
紫色の瞳を真ん丸にして驚くセドリックの姿が容易に想像出来ました。そんな姿ももちろん可愛いのですが、その顔を見るにはまずお返事を頂かなければなりません。
「……でも、オールウィン家からお返事は来たのでしょうか?」
「残念ながら返事は、まだです」
フレデリックさんが困ったように言いました。
そもそもお返事が来て、了承が得られなければ訪ねることがそもそも出来ないのです。お父様とお継母様のことですから、私の要望など却下されてしまってもおかしなことではありません。
「……セドリック」
私は祈るように愛しいその名を呼びました。
「セドリック様は、奥様に似ておられるのですか?」
フレデリックさんの問いに、いいえ、と首を横に振りました。
「……私自身は亡くなったお母様に似ているそうです。セドリックと私が同じなのは父方の祖母譲りのこの髪の色だけです。その顔立ちもお父様やお継母様というより、私が産まれる前に亡くなった父方のおじい様の若い頃に良く似ていて優しく整った顔立ちをしていて、綺麗な紫色の瞳もおじい様譲りなのです。社交期になると父も母も姉も殆ど家におりませんでしたから、セドリックは私の部屋によく遊びに来てくれました。心優しく、穏やかな性格のセドリックは、とても寂しがり屋で甘えん坊の可愛い弟です」
あの家で唯一、私を慕ってくれたセドリックの無邪気な笑顔が向けられる度、私は心の中にあった寂しさが消えていくのを感じていました。
セドリックが初めて私の下に来たのは、あの子がまだ四歳の頃でした。屋敷の中を探検していたセドリックが偶然、私の部屋に入って来てしまったのです。私は父と継母と姉と使用人以外の初めての来客に驚きましたが、セドリックを追いかけていたナースメイドさんが慌てて連れて行ってしまいましたが、私を姉だと知ったセドリックはそれからちょくちょく私の下へ来るようになりました。
ここの子どもたちと同じようにセドリックも純粋な好意を私へ向けてくれました。はじめはそれに戸惑いましたが、にっこりと無邪気に笑って渡しに抱き着いて来るあの子はとても可愛らしくて、私とセドリックはすぐに仲良くなりました。
「あの子が居なかったら、私は笑顔なんてものは知らなかったに違いありません」
賢いあの子は、決して両親やもう一人の姉に私の部屋に来ていることは漏らしませんでした。メイドさんがセドリックに累が及ぶのを恐れて何か言ったかもしれませんが、それ以上に自分に全く興味を示さない家族に違和感を抱いていたのかもしれません。私の部屋に来るセドリックは、必ず抱っこや子守唄をねだって、私に甘えては愛情に飢えた心を満たそうとしていたのです。
「あの子は伯爵家の大事な跡取りです。ですから……きっと、大丈夫だと信じているのですが、とてもとても心配なのです」
両手を祈るように組んで、目を閉じました。
セドリックの無邪気な笑顔が浮かび上がって、胸が締め付けられます。あの笑顔が失われているかもしれないと考えるだけで、心が恐怖で凍り付いてしまいそうでした。
不意に温かいものが手に触れて、目を開ければ心配そうに覗き込む紺色の瞳を見つけました。
「必ず今日、お会いすることが出来ますわ」
私は、エルサの言葉に力なく頷いて窓の外へと顔を向けました。
開け放たれた窓からは、賑やかな人々の声が聞こえてきます。そこには笑い声も混じっていて、私の胸中とは裏腹にとても平和で穏やかです。
不意に軽やかな子どもの足音が幾つか聞こえて来て、リリアーナ様、と私を呼ぶ子どもたちの声もします。フレデリックさんがドアを開けるのと同時にビルくんとアリスちゃんが顔を出しました。
「侯爵様が来るよ!」
「お客様、帰ったから!」
そう言って部屋に入って来ると私のもとに駆け寄って来ます。
「リリアーナ様、足、まだ痛い?」
悲しそうに眉を下げたアリスちゃんとビルくんに、いいえ、と首を横に振って二人の小さな頭を撫でます。
「エルサが傷口を綺麗にして、お薬も塗ってくれたので大丈夫ですよ」
心優しい子どもたちに安心して欲しくて出来る限り優しく微笑むと、二人は私とエルサを交互に見てエルサも「大丈夫ですよ」と頷くのを見届けるとにぱっと太陽のように眩しい笑顔を浮かべてくれました。
「良かった!」
「ねえ、リリアーナ様、また遊びに来てくれる? 今度はバザーじゃない日に来て! お家の中を案内してあげる!」
アリスちゃんが私を見上げてねだるように言いました。ビルくんも「ね、お願い」と私の手を握りしめておねだりをしてきます。
勿論です、とすぐにでも堪えたいのですが、私の外出には旦那様の許可が必要ですから何と答えれば良いのか言葉に詰まってしまいました。来られないと言ったら、二人は落ち込んでしまうに違いありません。ですが、ここで安易に「はい」と答えて期待をさせて裏切ってしまうのは心が痛みます。
「なら、秋のバザーをする前にまたリリアーナと一緒に来よう」
ぱっと振り返ると旦那様が背後に立っていました。いつ部屋に入って来たのか、全く気付きませんでした。旦那様は、驚く私に微笑むと子どもたちにも笑顔を向けます。
「本当?」
「リリアーナ様と侯爵様、また遊びに来てくれるの?」
「もちろん。次に来る時は何かお土産をリリアーナと選んで持って来る」
「やったぁ! 侯爵様、絶対だよ? 忘れないでね!」
「リリアーナ様もだよ!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねて喜ぶ二人は、満面の笑みです。
「皆にも知らせて来るー! 行こう、アリス! 相談しなきゃ!」
「うん! 絶対の絶対だからね! 何のお土産にするか話し合ってくるからまだ帰らないでね!」
言うが早いか二人は、「みんなー」と大きな声ではしゃぎながら部屋を飛び出していきました。
途端に部屋の中が嘘みたいに静まり返ります。私はおそるおそる後ろを振り返り、旦那様を見上げます。
「あ、あの、旦那様……本当によろしいのですか?」
「もちろん。子どもたちに折角誘って貰ったんだから」
旦那様がこちらへ回って来て、私の目の前に跪きました。
「それともここへ来るのは嫌か?」
「まさか。また子どもたちに会えるなんて、とても嬉しいです。ありがとうございます、旦那様」
旦那様は、どういたしましてと微笑むといつかと同じように膝の上にあった私の手を大きな両手で包み込みました。鮮やかな青い瞳が真っ直ぐに私を見上げます。
「……オールウィン家から訪問を了承する旨の返事が来た」
ひゅっと息を飲んだ音がまるで他人事のように聞こえました。
「これからオールウィン家に行けることになった」
「セドリックには会えるのでしょうか?」
行けることも重要なのですが、それ以上にセドリックに会えるか否かが最も重要なことなのです。
「何故か伯爵は、私たちとセドリックを会わせたくないようで訪問は許しを得られたが、セドリックのことに関しては有耶無耶のままだ。だが、セドリックは間違いなく屋敷内にいる」
旦那様がいつの間にか震えていた私の手をさらに強く握りしめて下さいました。
「……今日、夫人は茶会に出かけて居るそうだが、君に酷いことをした伯爵と姉はいる。それでも行くか? 私だけが行って、セドリックを無理矢理我が家に連れてくることも、おそらく可能だ」
「行きます。行かせてください」
私は鮮やかな青い瞳を見つめ返して、きっぱりと言いました。
旦那様は少々の驚きをその端正な顔に浮かべました。
「一分でも一秒でも早く、あの子に会いたいのです。……正直に申し上げますと父や姉に会うのは怖いのです。あまり良い思い出がありませんので、でも、そんなことよりもセドリックの無事をこの目で確かめたいのです」
旦那様の手の下でドレスをきつく握りしめます。思い出すだけで、不安に胸が押しつぶされそうになって恐怖に目を瞑ってしまいたくなります。けれど、もしセドリックが私と同じ目に遭っていたらと考えると私の恐怖や不安などどうでもよいものになってしまうのです。
「……分かった」
ふっと表情を緩めた旦那様が私の両手を握りしめて持ち上げました。
「私は何があろうとも誰に何を言われようとも、リリアーナの味方だ。そして、君はウィリアム・ルーサーフォードの妻でありスプリングフィールド侯爵夫人だ」
指先に旦那様の唇がそっと触れて、そこから熱が全身に広がっていきます。咄嗟に逃げ出そうとした私の手を強く握りしめた旦那様は、柔らかな笑みを浮かべて私を見つめます。
「何かあったら、私の言葉を思い出して。これはそのまじないだ」
「おまじない……?」
自分で思っていたよりもずっとか細い声が出ました。私の両手を片手で包み込んだまま、もう片方の手で私の頬に触れました。大きな手の平は少し硬くて指の付け根には剣を握ってできた胼胝もあります。少しかさついた親指が私の頬をゆっくりと撫でていきます。
「リリアーナ、君は美しくて、聡明で、慈愛に満ち溢れた素晴らしい女性だ。君を虐げていた家族の言葉など信じないでくれ。ここの子どもたちの言葉を信じたように、私やエルサやフレデリックやアルやアーサーや他の、君を大切に想う人々の言葉を信じて欲しい」
青い瞳が乞うようにじっと私を見つめています。
「……そうすれば、きっと、怖いものなどなくなるよ」
旦那様の言葉も声も体温でさえも、深い深い優しさが込められているような気がして、私は溢れそうになるものをぐっとこらえて頷きました。すると相好を崩した旦那様が私の頬と手から手を離したかと思ったら、またひょいとその腕に抱えられてしまいました。
「だ、旦那様っ」
「さあ、子どもたちにお土産のリクエストを聞いてからセドリックに会いに行こう。フレディ、馬車を裏に回してくれ。アルは仕事に戻った」
「かしこまりました」
フレデリックさんが頷いて先に談話室を出て行きます。
「あ、あの、旦那様、私、歩けますので……っ」
「駄目ですよ、奥様。血が出ていたのですから、大人しく旦那様のお世話になって下さいませ」
今日のエルサは本当に頑固です。私はふるふると真っ赤な顔で首を横に振りましたが、エルサはにっこりと笑って「ダメです」と言い切りました。
「でも、私重いですし、王国を護る旦那の腕になにかあってはっ」
「リリアーナなら、五人くらい抱えてもなんら問題ないぞ。あまりに軽すぎて、翼でも生えて空に帰ってしまうのではと心配になる」
困惑に私が眉を下げますと旦那様は、甘く微笑んで先を続けました。
「だからこうやって捕まえておかないとな、私のリリアーナ」
ふわりと旦那様のコロンの香りが強くなったかと思えば、額にキスが落とされました。ぐわんと真っ赤になる私に旦那様は、ますます甘く蕩けそうな笑みを深くします。
心臓は爆発しそうですし、既にもう何が何だか私の頭と心では整理しきれませんでした。その結果、私は旦那様の腕の中で意識を失うという失態をおかしてしまったのでした。
次に気が付いた時は、やっぱり旦那様の膝の上でオールウィン家に向かう馬車に揺られていたのでした。