第十話 孤児院へ向かう馬車の中
これは一体、どういうことなのでしょう。
ガラガラと車輪の回る音、二頭の馬の蹄の音が交差する孤児院に向かう馬車の中、どういう訳か私は旦那様のお膝の上に横抱きにされる形で座っているのです。
向かいの席には、エルサとフレデリックさんが座っているというのに、どういう訳か私は旦那様のお膝の上にいるのです。
「あ、あの、旦那様、降ろして下さいませ」
「駄目だ。さっき座席から落ちかけたじゃないか。もし君が怪我でもしたら私は寝込んでしまうよ? それに妻はこうして夫の膝に乗るのが普通だ」
旦那様は当たり前のことを言っているというような顔をしていらっしゃいますが、エルサはフレデリックさんの膝の上には乗っていません。
確かに旦那様の言う通り、車輪が石にでも跳ねたのか大きく揺れた車内で私は座席から落ちそうになりましたが、隣に座っていたエルサがすぐに押さえてくれましたし、私自身も踏みとどまることが出来ましたので、落ちかけただけで落ちてはいないのです。だというのに腕を掴まれたかと思うとあれよあれよと言う間に私は旦那様の膝の上に収まり、旦那様の隣にいたフレデリックさんがエルサの隣に移動したのです。
「それにしてもやっぱり、そのドレスは君に良く似合っている。本当はオーダーにしたかったんだが、このドレスを見せて貰った時、君にぴったりだと思ってサイズを直して、袖も変えてもらったんだ」
旦那様は膝の上の私を見ながら、満足そうに目を細めました。その目がとても優しくて、でもそれ以外の何かも宿しているような気がして、私は恥ずかしくなって顔を俯けました。でも、馬車という限られた空間で、更に旦那様の膝の上という時点で逃げ場がどこにもないのです。
「だ、旦那様のジャケットの刺繍もとても素敵です」
私は話題を変えようと試みました。
旦那様は、夏らしい深緑のジャケットとベスト、ワイシャツにスカーフタイというお姿なのですが、旦那様のジャケットの身頃にはくすんだ金の糸で見事な刺繍が施されているのです。
「リリアーナは、刺繍が好きだからな。興味を持って欲しくてこれにしたんだ」
蕩けてしまいそうな甘い笑顔に私は、話題の選択ミスに気づきました。きっと今の私は、トマトよりも赤い顔をしているに違いありません。
「お、お気遣い、ありがとうございます」
ふわふわとした心と騒がしい胸に私は、確実に寿命が縮まっているような気がいたしました。
気の利いた会話も出来ない私に配慮して下さった旦那様の優しさは、とっても有難いのですが綺麗なお顔が甘い笑顔を浮かべるとそれだけで心臓に悪いのです。
ああ、どうしましょうと私が火照る頬をどうにか冷まそうと試みていると、神様は私に味方して下さったのか漸く馬車が停まりました。
「旦那様、孤児院に着きましたので、奥様を降ろして差し上げて下さい。抱っこで降りたら奥様が気絶なさいますよ」
馬車が完全に止まり、御者さんがドアを開けると私を抱えたまま立ち上がろうとした旦那様にフレデリックさんが言ってくれました。私はその通りだとこくこくと頷くと旦那様は何故か残念そうな顔で私をそっと座席に座らせてくださいました。
「ありし日のウィルのお父上とお母上を見ている気分だよ」
知った声が聞こえて顔を向ければ、開けられたドアの向こうにあきれ顔のアルフォンス様が立っていました。
今日のアルフォンス様は騎士服では無く、旦那様と同じ外出着で腰に剣を差しています。水色の涼し気なジャケットが良くお似合いです。
「……なんでお前が居るんだ。もっと遅い筈だろ?」
旦那様が途端に顔を顰めました。
「面白いことは見逃さない主義なんだよ。リリィちゃん、少しこいつを借りるよ」
「勝手に決めるな。あとリリィと呼ぶな」
「いいから、早く来いよ」
アルフォンス様は私に向かってウィンクをすると渋る旦那様を連れ出して下さいました。旦那様は、座席に立てかけてあった剣を手に馬車から降りて行きます。旦那様は騎士様なのでお外に出かける時はいつも必ず帯剣しているそうです。
それにどうやらアルフォンス様は私の腰が抜けてしまっているのに気付いて下さったようです。それにこの赤い顔を冷ましてから行きたいという気持ちも察して下さったのでしょう、流石は王太子殿下です。
フレデリックさんが「ドアの前でお待ちしていますので準備が整ったらお声かけ下さい」と言って馬車から降り、ドアを閉めてくれました。私は思わず座席に突っ伏しました。
「だ、旦那様は、どうしたのでしょうか? 笑って下さるのは嬉しいのですけれど……」
「今の旦那様は、私たちが最もよく知る旦那様の性格に近いのですよ」
エルサが苦笑を零しながら扇子で私を仰いでくれます。その心地よさにお礼を言って、私は座席に座り直しました。空いた隣にエルサが腰掛けます。そよそよと扇子が生み出す柔らかな風が火照った頬に心地よいです。
馬車の外がどうなっているのかは分かりませんが、なんだか賑やかな声が聞こえて、人の気配がたくさんあるような気がします。
「……昨日、アルフォンス様にお聞きになったのでしょう? 旦那様が女嫌いになった訳を」
その言葉に私は思わずエルサを見上げました。エルサは苦笑をその顔に浮かべたままでした。
「正直、社交界では有名なことですし知っているものと思っていたのです。旦那様が奥様に素っ気ない理由を知っているから、奥様は旦那様のことについて尋ねてこないのだと……」
「私、デビュー前にお嫁に来てしまいましたし、茶会にも出席したことがなかったので……」
私は恥ずかしくなって目を伏せました。
本来なら成人となる十五歳で貴族の子女は社交界へとデビューします。家で開催される茶会などは、その家のご令嬢が参加したり、仲間内のものであればデビュー前でも参加できますが、夜会へは成人しないと参加は出来ません。私は、時折、伯爵家の庭で継母が開く茶会をカーテンの隙間から眺めることしか許されていませんでしたし、それも継母や姉に見つかると怒られるのですが色とりどりのドレスが遠目からでもとても綺麗だったので、毎回、少しだけ気付かれないように気を付けてこっそりと眺めていたのです。
「それに旦那様が私に興味がないのは……仕方のないことでしたから」
私は左の鳩尾に右手を当てました。お父様は私の目の前でも旦那様に傷の話をしていたので、当時の旦那様はここにあるもののことも知っていました。もしかしたら私の知らないところでお父様がもっと詳しくお話したかもしれません。
「……そこに、何が……いえ、出過ぎたことを申しました」
エルサが躊躇いがちに口に出したあと、すぐに首を横に振って頭を下げました。
私はエルサとそこを交互に見た後、顔を上げて彼女の瞳を見据えました。
見せることは出来ないけれど、この一年の間、ずっと私に寄り添い、私を支えてくれたエルサになら話してもいいと思えました。私が辛い時、哀しい時、苦しい時、いつも傍にいて支えてくれて、あの時、セドリック以外で私を抱き締めてくれた初めての人がエルサなのです。
「七歳の時……お父様とこうして馬車でどこかに向かう途中で暴漢に襲われたのです」
私が喋り出したことにエルサが息を飲みました。
見開かれた紺色の瞳に私は、困ったように笑い掛けました。
「その時に乗り込んで来た暴漢に鳩尾から腰にかけて斬られて、そこに何らかの液体をかけられてしまったのです。斬られた傷はそれほど深いものではありませんでしたが、その液体は皮膚を溶かし、火傷のようなものを負わせるものでした。私のここには斬られた傷痕と焼け爛れた醜く悍ましい傷痕が……醜い化け物の証がここにはあるのです」
鳩尾に視線を向けて、私はそこをそっと撫でました。自分でも見るのが嫌になるそれは、他の正常な白い肌が余計に気味悪さを際立たせて、私の身の内に潜む醜い部分が顔を出しているような気さえするのです。
何故かエルサが泣きそうな顔をしています。
「……痛むのですか?」
いつもの彼女らしくない震える声が言葉を紡ぎました。温かい手が鳩尾に触れる私の手に重ねられました。私を気遣ってくれるその優しさが嬉しくて、私は微笑みとともに首を横に振って答えます。
「いいえ。痕が残るだけで痛くはありません」
「本当ですか?」
「本当です。皮膚の感覚もあまりないのですよ、叩かれたり殴られたりすれば、中は痛いと感じるのですがこの部分の皮膚は感覚がないのです」
エルサはじっと私の鳩尾を見つめていましたが、少しして顔を上げました。
「旦那様は、ご存知なのですか? 初夜には、その、御覧になられたのですか?」
「……以前の旦那様はここにあるもののことは父から聞いてご存知でしたが、見せたことはありません。……でもきっと、今の優しい旦那様もこれを見てしまったら、私を愛することなど出来ないでしょう。ああやって、私に触れるのだって……嫌になってしまうに違いありません」
言葉にしたら胸が軋むように痛みました。
一体、何の液体だったのか変色した紫色や赤の斑点が浮かぶ肌は自分で見ても気分が悪くなるのです。
この傷痕を見たことがあるのは、父と母と姉とメイドが二人、それと当時の私の治療をして下さったお医者さんと侯爵家になってお世話になったモーガン先生も私の傷をしっています。
そのメイドさんは、初めてこれを見た時、引き攣った悲鳴を上げて私から逃げて行きましたが、それでも彼女たちは仕事をこなそうと、傷の所為で起き上がれない私のために精一杯のお仕事をしてくれました。けれどその顔はいつも引き攣っていて、彼女たちは悲鳴を漏らすまいと唇は常に固く引き結ばれたままでした。
その後も、あの二人のメイドさんは継母に鞭で打たれて寝込む私の世話を時折して下さいましたし、結婚式の日はウェディングドレスを着せてくれたのはあの二人でした。決して、私と口を利くことはありませんでしたが、誰もいないエントランスホールから私が馬車に乗る時に「お元気で」と送り出してくれたのです。
「……結婚できるとは思っていなかったのです。よくてどこかの後妻か、多分、修道院に入るのだろうとだからあんなに綺麗なウェディングドレスを着られたの、とても嬉しかったんです。旦那様は私をお嫌いでしたがそれでも私に自由な生活をさせて下さいましたし、何より、エルサが私にはいました。……エルサ、本当に大丈夫なんですよ。だから、貴女が泣く必要はないのです」
私はハンカチを取り出して、ぽろぽろと涙を零すエルサの頬に当てました。すると伸びて来た細い腕にぎゅうと抱き締められました。
「もし、あの大馬鹿ヘタレ野郎の記憶が戻って奥様を拒絶するようなことをしでかしやがっても、私は……私は、ずっとリリアーナ様の味方ですからねっ」
その言葉が胸にじんわりと沁み込んで、私は熱くなった目頭を誤魔化すようにエルサを抱き締め返して細い肩に額を預けました。
侯爵家に嫁いできて、エルサに出会うことができたことは私の人生に言葉にし難いほどの幸福を与えてくれました。
「ありがとうございます、エルサ」
ふふっと笑った私はエルサをぎゅうと抱き締めて、今度は彼女の涙が止まるのを待つことにしました。
フレデリックさんに頼んで用意して貰った濡れたハンカチを目元に当てて私がエルサを扇子で仰いで、どうにかエルサの真っ赤だった目元をちょっと赤いかな?くらいに落ち着かせることに成功しました。多分、馬車の中の会話はフレデリックさんにも聞こえていたのでしょうけれど、エルサの目が赤い理由を問うことはなく、何事も無かったかのように振る舞ってくれました。
旦那様が迎えに来て下さったので、私はその手をお借りして馬車から降りました。エルサもフレデリックさんの手を借りて、馬車から降ります。
「エルサ、目が赤いぞ? 花粉症か?」
旦那様は少々、鈍いのかもしれません。そこはフレデリックさんのように受け流すところであって声を掛ける所ではないと思うのです。それに今は春ではなく真夏です。
エルサは盛大に顔を顰めたあと、にこりと笑いました。
「どこかの不甲斐ない男のことを考えたら奥様に申し訳がなくなって涙が出て来ただけですわ」
「……お前は私に失礼だな」
「あら、私、旦那様のこととは申し上げてはおりませんのに自覚がお有りなのでございますね」
エルサはふふふっと笑って首を傾げました。とても可愛らしいですが目は笑っていません。旦那様の頬が引きつっています。
「ウィルがエルサに口で勝てたことなんてこれまで一度だってなかったんだから、諦めなよ」
ひょっこりと現れたアルフォンス様は呆れ顔です。
私は慌てて居住まいを正します。
「アルフォンス様、先ほどはご挨拶も出来ずに申し訳ありません」
「そうだね、失礼ったらないよ」
顔を顰めたアルフォンス様に私はどうしましょうと慌てます。
「だから、アルフって呼んでくれたら許してあげる」
にこにこと無邪気に笑うアルフォンス様に私は毒気を抜かれてしまいました。思わず、ふふっと笑ってしまうと「笑ったなぁ?」とアルフォンス様は形ばかり眉を寄せました。空色の瞳が優しいままなので、全く怖くありません。
「では、精一杯のお詫びの印としてアルフ様と呼ばせて頂きます」
「よしよし、僕は寛大だからね、許してやろう」
鷹揚に言ってのけるアルフ様に私はくすくすとどうしても笑ってしまいます。アルフォンス様は本当に人の気持ちを察して、余計な力や緊張を取り払うのがお上手です。こんな私ですら王太子殿下という肩書があると分かっていてもこうしてお話が出来るのですから。
「旦那様……男の醜い嫉妬ほど見苦しいものはございませんよ。あとご自分で蒔き散らかした種でございますので、自業自得ですからね」
フレデリックさんの淡々とした言葉に旦那様を振り返ると不機嫌な顔をなさっていました。私は旦那様の腕に添えていた自分の手を慌てて引っ込めて、一歩下がりました。
「も、申し訳ありません……っ、旦那様の大事なご友人と勝手にお話を……っ」
頭を下げようとしたのですが、旦那様の大きな手が私の肩を押さえてしまいそれは叶いませんでした。
「違う! これはあれだ、あの、そう、日差しが眩しかったからしかめっ面になっていただけだっ、リリアーナが謝ることなど必要ない、眩しかっただけだから!」
「そ、そうですの?」
「そうだ。それに私は、自分の妻が友人と話したからと怒るような狭量な男じゃないぞ?」
旦那様が必死に頷きますので、私はほっと胸を撫で下ろしました。確かに今日は良く晴れていて夏の日差しは目に痛いくらいに眩しいです。勘違いしてしまって恥ずかしいです。
「エルサ、私の日傘を旦那様に差し掛けて……」
「必要ないぞ、大丈夫! もう慣れたからな!」
旦那様が慌ててエルサを振り返ります。
「あら、貴婦人のように日傘を差されるのも一興でしたのに」
優秀な私の侍女は既に日傘を構えていましたので残念そうに頬に手を当ててため息を零しました。
フレデリックさんが片手で口元を覆いそっぽを向き、アルフォンス様はフレデリックさんの肩に顔を埋める形で二人とも肩を震わせています。
「……もう嫌だ。行こう、リリアーナ。あんなやつらは捨てて行く」
差し出された腕に迷うことなく手を置いて、私は旦那様を見上げました。反対側の手でエルサが渡してくれた日傘を差します。エルサも今日は外出着ですので、自分の分の日傘を取り出して広げました。フレデリックさんがエルサの腰を抱くようにして歩き出します。やっぱり仲良しですね、とてもお似合いです。
さあ、行こうという旦那様が一歩を踏み出し、私も足を踏み出しました。