第八.五話 乳兄弟執事の呟き
「いやぁ、それにしても本当にびっくりするくらいに美人だねえ」
旦那様の書斎で僕が用意しておいたいつもの椅子に座って旦那様を待っていたアルフォンス様は、旦那様が来ると同時に口を開きました。
記憶喪失となってもアルフォンス様が気の置けない友人であることは認識している旦那様は「だから嫌だったんだ」と呻くようにもらしながら、デスクの向こうの椅子へと腰を落ち着けました。
僕は、あらかじめ用意されていたティーポットの茶葉の蒸らし具合を確認し、ふわりと鼻先を撫でて行く豊かな香りに合格を出しそれをティーカップに注ぎ、お二人にお出しします。
「リリアーナは俺の妻だからな。気安く声をかけるなよ」
旦那様は、紅茶を受け取りながらアルフォンス様に釘を刺します。
僕の妻のエルサがここにいたら鼻で笑うだろう独占欲に、アルフォンス様はケラケラと愉快そうに笑っておられます。
「リリィちゃんの心を掴んでから嫉妬はしなよ」
アルフォンス様の痛烈な一言に敢え無く撃沈した旦那様がデスクに突っ伏しました。僕は基本的には旦那様の味方だけれど、奥様の件に関しては旦那様に味方できることは少ないので今回もアルフォンス様の言葉に同意なのでフォローはしません。
旦那様をデスクに沈めたアルフォンス様は優雅に紅茶を嗜みながら、更に言葉を続けます。
「僕があれこれウィルのことを話したけど、リリィちゃんからウィルについて聞いて来ることはなかったよ」
空色の瞳が、意地悪い猫のようににんまりと細められました。
逞しい肩がびくりと反応しましたが、旦那様は顔を上げようとはしません。どうやらご自分でも気づいていらっしゃったようです。
「知らない方が傷は浅くて済むもんねぇ」
ううっと呻く声が聞こえて、アルフォンス様は、ふふっと可笑しそうに肩を揺らしました。
リリアーナ様は、旦那様のことを自ら知ろうとは致しません。それは嫁いできた当時からのことです。僕はエルサの夫なので、休みの日には屋敷に帰って来ていましたから様子見も兼ねて、奥様とは何度かお話をしていますしエルサと三人でお茶を頂くことも間々ありました。
奥様は、おっとりと微笑んでおられるばかりで旦那様の情報を数多く握る僕に旦那様について聞いてきたことは殆どありません。奥様が旦那様について尋ねてきたことは「お体は大丈夫ですか?」くらいもので、帰り際には必ず「恙なく暮らせていることと、感謝の気持ちをお伝えください」と言われるだけでした。
それは、旦那様が記憶喪失になって一緒に過ごすようになってからも変わりありません。
記憶がないことも一因なのでしょうが、それでも周りにいる僕やエルサに聞けば旦那様の趣味嗜好は大抵把握しておりますのでお応えできるというのに、奥様が尋ねてきたことは一度だってありません。
「……ベッドから起き上がる許可が出たその日に会いに行った時、私は……謝る権利すら与えてもらえなかった」
ゆっくりと体を起した旦那様にアルフォンス様は先を促すように小首を傾げました。
「リリアーナの中に私という人間は、記憶喪失になりようもないくらいに存在が欠片もない」
「それが記憶喪失になる以前のお前が、今のお前に残した咎だ」
アルフォンス様は静かに旦那様を見据えます。
空色の瞳は、まるで明け方の静謐な空のように厳かな空気を纏って、人を飲み込む迫力があります。微笑みを湛えたままの唇が不釣り合いに恐ろしく思えました。
けれど、旦那様は鮮やかな青い瞳を微塵も逸らさず、平然とアルフォンス様と向き合っておりました。
「傍から見れば、私ほど身勝手な男はいないだろう。それまで疎んでいた妻を記憶喪失になったことで愛し始めた男だ。使用人たちからの風当たりが厳しいのも私が受け止めなければならないことだ」
「……リリィちゃんの心に彼女が無意識の内に蓋をするほど大きな傷を残したのは、君なのに?」
長い足を組み替えて、アルフォンス様は問いを重ねました。
「傷をつけたのが、私だというのなら、私以外に癒せる人間はいない。私はリリアーナを幸せにしたいし、一緒に幸せになりたい。彼女とならそうなれる気がするんだ」
旦那様は、一瞬たりとも目を逸らさず真っ直ぐに背筋を伸ばしたまま、そう、言い切りました。アルフォンス様は、旦那様の瞳をじっと見据えてその腹を探るように僅かに目を細めましたが、ふっと表情緩めるとカップを手に紅茶を口に含みました。
「そう。まあ、君とリリアーナちゃんの関係はゼロだからね。ゼロに何を掛けてもゼロなんだけどね」
「だったら足せばいいだろうが」
旦那様は大まじめに言い切りました。
「お言葉ですが以前の旦那様は存在が引き算でしたので、出発点はマイナスかと……」
思わず口を挟んだ僕の言葉にアルフォンス様は、ぷっと吹き出すと声を上げて笑い出しました。そして、びしっと旦那様を指差します。
「あははは! その通りだね! 僕としたことが甘かったみたい! ウィル、君はマイナスだ!」
「それならそれで良い! マイナスにマイナスを掛ければ、プラスだからな! つまり、俺はプラスの存在だ!」
旦那様がむきになって答えるとアルフォンス様はますます可笑しそうに笑いました。僕もうっかりこらえきれなかった笑いが零れてしまい急いで隠しましたがギロリと睨まれました。まあ旦那様に睨まれたところで痛くも痒くもございませんが。
「お前たちは少しは俺の味方をしたらどうだ!」
「やだよ。僕、可愛い女の子の味方でいたいもーん」
「私はエルサに嫌われたくないので、奥様の味方です」
「お前は、この間、私とリリアーナが崖からぶら下がっていたら誰に憎まれようと私を救うと言っただろうが!」
「多分、その場合、エルサが真っ先に奥様をお助けするので、私は残りものをと……」
「主を残りもの呼ばわりするな!」
「それは失礼いたしませんでした」
「そこは失礼しろよ!」
旦那様が拳をデスクに叩きつけて項垂れます。アルフォンス様は背中を丸めて、ひーひー言いながら笑っておられます。アルフォンス様は、笑い上戸なので一度笑い出すと長いのです。
なんなんだ、こいつらはと旦那様がぶつくさ文句を言いながら、アルフォンス様を睨みますが、コンコンとノックの音が聞こえてきました。
「旦那様、奥様のドレスが届きましたので確認をして欲しいとのことでございます」
聞こえて来たのは、アーサー様の声でした。
「分かった! 今行く!」
ぱっと顔を輝かせた旦那様は、折れ曲がっていた機嫌をすぐに直していそいそと部屋を出て行きます。もう僕のこともアルフォンス様のことも眼中にはございません。
僕は、その背を見送って開けっ放しのままのドアを閉めました。
「あー、笑った、笑った」
漸く、アルフォンス様が笑いの縁から帰って来て下さいました。
アルフォンス様は目じりにたまった涙を指で拭い、椅子に座り直します。紅茶のお代わりを勧めて、カップに紅茶を注ぎます。
「記憶があってもなくても、人の本質ってのはあまり変わらないもんだねぇ」
アルフォンス様がしみじみとおっしゃられました。僕は、その通りでございますね、と同意して旦那様が残して行ったティーカップを片付けました。
旦那様とアルフォンス様は幼馴染であり親友でございます。僕は、基本的に旦那様のお傍にいましたので、恐れ多くもアルフォンス様は僕のことも友と認識して下さっています。僕も公には口に出来ませんが、旦那様を揶揄うにはアルフォンス様と組むのが一番楽しいです。
「……ウィルは、優しすぎるんだろうねぇ。僕とかフレディみたいにさっぱりと切り捨てられるタイプじゃないから」
ふっと苦笑を零して呟かれた言葉に顔を上げます。
「ウィルを最低の形で裏切ったご令嬢をさ、僕は殺しちゃえばいいと本気で思ったのに、ウィルはそうしなかった。あの時、僕は、僕が王になる時、この国の護りの要はウィリアム・ルーサーフォードがいいと、そう思ったんだよ」
なんでもないことのように告げて、アルフォンス様はカップに口を付けます。
僕は、その時のことを思い出して目を伏せました。
だって会えなかったから、だって寂しかったから、だって何も買ってくれなかったから。
自分勝手に言い訳を広げる見知らぬ男の子どもを身籠ったご令嬢を旦那様は、一度たりとも責めませんでした。いっそ、あそこで罵倒すれば後々、これほどまでに引きずることもなかったろうと思います。
彼女のご両親である侯爵夫妻は血の気を喪った顔で床に正座しておりました。旦那様のご両親は、ソファに並んで座っていましたが隠し切れぬ怒りが空気を鋭いものに変えていました。
ですが、あの時、旦那様以上に怒り狂っていたのは他ならないアルフォンス様でした。
『我が友を愚弄し、我が王の顔に泥を塗った以上、一族郎党の命をもって償う覚悟はあろうな?』
アルフォンス様は、底冷えするような冷たい声で言い放ちました。
旦那様の婚約はアルフォンス様のお父上、つまり、現国王が旦那様のお父上である当時の侯爵様にご令嬢を紹介したのがきっかけでしたので、ご令嬢は他ならないクレアシオンの王の顔に泥を塗ったのです。貴族同士の結婚は、家と家の大事な結びつきで、政治的な意味合いを強くもつ場合も少なくありません。ご令嬢は、クレアシオン王にもスプリングフィールド候にもご自分の親の顔にさえ、こびりついて離れぬ泥を塗ったのです。
けれど旦那様は、漸くことの重大さに気が付いたご令嬢の手を取り、その細い手に彼女が旦那様に贈ったお守りを握らせました。
血で汚れたあとのある小さな小袋にご令嬢は、ただただ顔を青ざめさせていました。
『貴女がしたことは、王の想いを踏みにじった行為であることは間違いない。だが……』
旦那様の青い瞳が、彼女のふっくらとし始めたお腹に向けられました。
『生まれ来る赤子には、何の罪もない』
静かに零された言葉に否を唱えられる者はいませんでした。
『私は戦争で、嫌というほど人の命が呆気無く奪われるのをみた。それと同様に私も国の為に、王の為に命を奪った。我が国は、勝利こそしたが多くの命を失ったのもまた事実。勝利に歓喜する人々の影で、家族や友や恋人を喪った者たちが慟哭を上げ泣いている。貴女の罪は、貴女が償う他ないが……この腹の子には何の罪もない。私は罪のない命を奪うことはしたくはない』
そこで言葉を切って、旦那様はアルフォンス様を振り返りました。
『殿下。彼女の心をつなぎ留められなかった私にも非はあります。罰するなら私と彼女に留め、どうか……数十年先の未来で我が国を担うことになる愛しき国民に、どうか、温情を』
深々と頭を下げて赦しを請うた旦那様の隣にご令嬢が崩れ落ちました。
アルフォンス様は、空色の瞳に悔しさと辛さを滲ませ、ただ静かに頷かれました。
結局、ご令嬢側は、爵位及び領地の返上をもって平民になり、ご両親は陛下の恩情をもってご令嬢を遠縁の商家へと嫁がせました。そして、旦那様は英雄に相応しい働きを収めたために与えられる予定だった公爵位を辞退し、スプリングフィールド候は爵位を息子に譲り、奥様と共に領地に下がることを罰としました。
表向きには、ご令嬢は病死とされ、ご令嬢の両親の爵位返上も一人娘であったご令嬢が亡くなり後継を立てることができなかったのが表向きの理由となりました。
「僕はあの時、初めて赦すという言葉の本当の意味を知った気がしたんだ」
きっと同じ場面を想像していたのでしょう。僕は、そのお言葉の意味がなんとなく分かる気がしました。
「……けれど、ならば尚のこと、奥様を大事にするべきだったと思っております」
まあね、とアルフォンス様は肩を竦めて苦笑を零されました。
「あんなご令嬢のこといつまでもぐだぐだぐちぐちと引きずって、情けないことこの上ありません。ヘタレにもほどがあります。ですからエルサに必要以上に警戒されているのですよ。エルサは、私以上に旦那様に憧れと尊敬を抱いておりましたから、悔しいのでしょう」
私の妻は、口では毒を吐きますが旦那様のことを尊敬しております。だからこそ、奥様をほったらかしにしていた情けない旦那様が許容できないのです。
「エルサは、素直じゃないからね。……ところでウィルのお父上とお母上は、まだ頑なにここには帰って来ないの?」
アルフォンス様の問いに僕は、口を開きます。
「陛下のお気持ちを踏みにじってしまった以上、王都には来られない、と……」
「真面目だなぁ。悪いのはどう考えてもぜーんぶあっちだって言って良いのに」
苦笑交じりにアルフォンス様がぼやきました。
「じゃあ、リリィちゃんのことも知らないの?」
「アーサーが手紙を出しましたので、結婚したことはご存知ですが詳細は報せておりません。仔細を報せれば、折角、お元気になられた大奥様の体調を再度損ねることになりかねませんでしたので。それに奥様も……嫁いで来られて半年は体調を崩されて寝込むことも多かったので」
旦那様のお母上は、あまりに衝撃的ことに体調を崩されて、長いこと床に臥せっていたのです。
「リリィちゃん、繊細そうだもんねえ」
「私のリリアーナをリリィちゃん呼ばわりするなと言っているだろうが」
聞こえてきた声に振り返れば、旦那様が戻って来られました。アーサー様が一礼する姿が閉まるドアの向こうに消えました。
「ドレスはどうだったの?」
「素晴らしいものだった。オーダーではないのが悔しいが、それでもかなり融通を利かせてくれたから素晴らしい出来だった。間違いなくリリアーナの可憐さを引き出してくれるだろうな!」
はしゃぐ子どものように言いながら、旦那様が再びデスクに着席しました。
「今夜は、彼女の部屋でディナーをと誘ったんだ。つまり、仕事はさっさと片付けて私はシャワーを浴びて身支度を整えなければならないんだ。だからさっさと片付けるぞ、アル」
「はいはい。分かりましたよ、師団長様」
けらけらと笑いながら、アルフォンス様が立ち上がり、懐から丸められてリボンの掛けられた書状と封筒を一通、取り出して、旦那様に渡しました。旦那様は、書状の中身を確認して眉を顰め、封筒の中を見て更に険しいお顔になりました。
「……やはり、こっちの餌には食いついたか」
「みたいだね」
デスクに広げられた書状は、書状では無く地図、いえ、何らかの建物と思しき見取り図のようなものでした。封筒のほうはお手紙だったのか旦那様は最後まで目を通すと引き出しへとしまいました。
「まあいい、想定していた通りだからな。しかし、よくこの見取り図を手に入れられたな」
「敬愛する師団長様のためだもん、頑張っちゃった。だからご褒美に、明日は僕も孤児院ついて行くからね」
旦那様が嫌そうに顔を顰めれば、顰めるだけアルフォンス様は楽しそうです。僕も楽しいです。
「……絶対に邪魔するなよ」
「絶対に約束は出来ないけど、善処はする」
キラーンと輝くアルフォンス様の笑顔に旦那様は盛大に顔を顰めました。本当に愉快ですね。
文句を言おうと口を開いた旦那様の言葉を遮り、僕は優しいので口を挟みます。
「旦那様、本当にさっさとお仕事を片付けませんと、奥様とのディナーに間に合いませんよ」
僕の言葉に旦那様は、悔しそうに顔を顰めるとアルフォンス様に声を掛け、真面目に仕事を始めました。アルフォンス様もお仕事のことになれば、非常に真面目な方ですので、私はお二人が滞りなく仕事を片付けて行くのをそっとサポートさせて頂きながら以前と変わらない二人の姿になんだか安堵を覚えるのでした。




