第八話 黙されていた過去
ふっと視線が外されて、空色の瞳は旦那様に向けられました。
「でもさ、女嫌いのウィルがこんな風に奥さんの膝の上で寝るようになったんだから、リリィちゃんは凄いよ」
いつの間にか侯爵夫人からリリィちゃんになっていますが、嫌な気持ちはありません。アルフォンス様の人徳のなせる業だと思います。人の懐に入り込むのがとてもお上手な方のようです。
私はアルフォンス様の先ほどのお言葉の真意を尋ねることも出来ずにアルフォンス様の視線を追うように旦那様に目を向けました。
「記憶を失くされて自分が誰かも分からなくて、心細かったのだと思います。旦那様のご家族は近くにはおりませんし……形ばかりでも妻という肩書をもった私に興味を持たれたのだと思います。記憶が戻ったらきっと……また」
膝の上の旦那様は安らかな寝顔を浮かべていますが、記憶が戻ったらこんな寝顔を私に見せて下さることはないでしょう。
「……リリィちゃんは、ウィルの記憶が戻ったらまた前みたいに戻っちゃうって思っているの?」
意気地のない私は、アルフォンス様の顔を見ることが出来ずにただ黙って頷きました。
旦那様は「信じてくれ」とあの夜、私に言いました。けれど、私はその言葉を信じることがどうしても出来ないのです。
初夜のベッドの上で、私は旦那様に子どもを作る気はないと言われました。貴族にとって血を繋ぐことほど大事なことはありません。家を守るため、領地を守るため、領民を守るために血を繋いでいくことはとてもとても大事なことなのです。
旦那様は、それを拒否するほど私のことを嫌っていたのです。
だから、どうしても信じきることが出来ないのです。旦那様は決して、無責任な方ではありません。エルサだってフレデリックさんだってアーサーさんだって旦那様は、この国を誰よりも想う誇り高い騎士で領民を何よりも大切に想う侯爵様なのだと。
この二週間で、私もその言葉が本当であると肌で実感しました。記憶は失われてしまっていても、その身に、心に染みついた貴族としての誇りも騎士としての矜持も何一つ損なわれてはいないのです。
その旦那様が貴族としての義務を放棄するほど、私は嫌われていたのですから、何をどうやって信じれば良いのかなんて分かりませんでした。
「……私は、怖いのです」
琥珀色の髪をそっと指先に絡めます。蝉の声がさきほどより大きくなったような気がして、取り繕うように隠した私の弱さが見つかってしまうような気がしました。
「今の旦那様を信じて……優しくされることに慣れ切ってしまうのが……怖いのです。記憶が戻ったら、きっとまた私を嫌ってしまうのに……」
二度しか会ったことのない旦那様だったからこそ嫌われていたことを知っても、傷は浅く済んだのです。
でも、今の旦那様に嫌われてしまったらと思うだけで私の胸は張り裂けそうに痛むのです。
「まあ間違いなくウィルが悪いんだろうけど……話を戻すけど、ウィルがどうして女嫌いになったか、そのほんとの理由は知ってる?」
前半は良く聞こえませんでしたが、後半の問いかけははっきりと聞こえました。どくり、と心臓が不安そうな音を立てました。
それでも私は顔を上げて、ゆっくりと首を横に降りました。アルフォンス様は、どこか寂し気な表情をその顔に浮かべていました。
「旦那様はとても人気のある方なので、女性が奪い合いを始めてそれに嫌気が差して女嫌いになったと聞きましたが……」
「そっか……」
ぽつりと呟くような返事のあとアルフォンス様は顎に手を当てて上を見上げて、木漏れ日の向こうの太陽に目を細めました。そよそよと風が吹いてアルフォンス様の蜂蜜色の髪が揺れます。
「まあ、本人は忘れちゃってるし、使用人の皆からは言い辛いよねぇ。よし、ここは友の為だ、僕が教えてあげよう」
アルフォンス様は再び私に顔を向けるとご自分の中で何らかの整理をしたのか、そう前置きして口を開きました。私は言葉の意味が分からずに首を傾げてその先を待ちます。
「ウィルが七年前の隣国との戦争で武勲を上げたのは知ってる?」
「はい。エルサ……侍女が教えてくれました」
「じゃあ、その時、ウィルに婚約者がいたことは?」
予想外の言葉でした。
私の表情で察して下さったのでしょう、アルフォンス様は苦笑を一つ零すとすっかり冷めてしまった紅茶で喉を潤しました。
「ウィルは学園時代も優秀だったけど卒業後、入団した騎士団でもとても優秀な騎士になった。剣術だけならこの国でも五本の指に入るほど強い。それに機転も利くし、人徳もあるし、スプリングフィールド侯爵家は王家とも縁のある大貴族だ。それを妬んだ馬鹿がいてね。あわよくば戦死すればいいと思ったんだろうね、十九歳という若すぎる騎士に大隊長という肩書を押し付けて最前線に送り込んだ。……でもまあ、リリィちゃんの膝の上にいるという結果からも分かる通りウィルはその馬鹿の思惑に反して、見事な戦術と戦法を用いて敵将の首を討ち取って向こうの陣形を崩し敵軍を壊滅に追い込み、我が国を勝利へと導く切っ掛けを作ってくれた」
アルフォンス様は誇らしげな光をその瞳に宿して旦那様に視線を向けました。
「それで今は、王都を守る第一師団の師団長として我が国に貢献してくれている。僕は王太子だけど、だからこそいずれは騎士団を去る身だからね副師団長なんだ。だから僕が玉座に座る頃にはウィルは団長になっている筈だよ」
「旦那様は凄い方なのですね」
旦那様は本当に素晴らしい方なのだと、改めて実感しました。
アルフォンス様は、くすくすと笑いながら頷きました。
「まあね。んで、話は戻るけど、ウィルには十七歳の時、お父上が決めた婚約者がいたんだ。ありがちな政略結婚なんだけど、とある侯爵家のご令嬢と縁を結んだんだよ。僕たちより一つ年下のご令嬢だった。リリィちゃんとは正反対の雰囲気のご令嬢だったよ。リリィちゃんを静かな夜に降る月光に例えるなら、彼女は、この眩しすぎる真夏の日差しみたいな人だった」
上を見上げると幾重にも重なる枝葉の向こうに眩い太陽がありました。全てを照らし出すような眩い日差しが眩しくて、私は視線を外して目を伏せます。
「……ウィルのご両親はとても仲睦まじいご夫婦でね、それを見て育ったウィルもまた婚約者のご令嬢を大事にしていたんだよ。決して悪い子ではなかったよ。快活ではきはきと喋る子だった。ウィルと彼女はそれなりに上手くやっていたよ。でも……ウィルは三か月後に結婚式を控えていたけど、命令で戦地へ行くことになった。結婚式は延期になったけどウィルは必ず生きて戻ると婚約者のご令嬢に約束して、戦地に行ったんだ。ご令嬢もウィルに生きて帰って来るようにとお守りまで作ってくれて送り出した、んだ、けどねぇ……」
途切れて消えてしまった言葉に伏せていた目を上げると、そこには嘲りを口端に浮かべて悲しそうに微笑むアルフォンス様がいました。
「……一年と少し後、帰ってきたらそのご令嬢が妊娠してたんだよね」
一瞬、世界から音が消えました。蝉も声も風の音も全部、その言葉の衝撃に吹き飛ばされてしまったかのようでした。
「……だ、旦那様には御子が?」
呆然としながら私は尋ねました。
アルフォンス様はゆっくりと首を横に振ります。
「そうだったらまだ良かったんだけどねぇ。……ウィルは一年以上、この王都から遠く離れた隣国との国境沿いにいて一度だって戻ることは出来なかった。なのに帰って来たら、ご令嬢は妊娠六か月だったんだよ。ウィルの子だったとしたら産まれていなきゃおかしいでしょ? 僕の人生の中で三本指に入る驚愕の出来事だよ」
アルフォンス様は、やれやれと言わんばかりに肩を竦めて体の後ろに手をついて上を見上げて、長々とため息を一つ零しました。
「ウィルは、婚約者からのお守りを大事にして、戦地で死ぬ思いで戦ったんだよ。あわやってことも何度もあった。それでもウィルは戦った。剣を握り、屍が山と転がる戦場で生きることを諦めず、馬鹿の嫌がらせにもめげず、騎士としてこれ以上ないってくらいに立派に勤めを果たして帰ったんだ。道中、早く会いたいって何度言われたか……でもさ、帰ってびっくり。ご令嬢のお腹は明らかに肥満以外の理由でふっくらしてたんだもん」
乾いた笑いがいつの間にか聞こえるようになっていた蝉の声に混じります。
「しかもさぁ、こともあろうに仮面舞踏会で出逢った素性も知れない男の子を身籠っていたんだ。あまりの衝撃に固まるウィルにした言い訳がなんだったと思う? 寂しかったからだって言うんだよ。戦地に行ったきり戻ってこないし、ドレスや宝石も買ってくれない。会いにも来てくれなくて、寂しかったって……馬鹿じゃねえのって心の底から思ったよ。僕らは遊びに行ってたわけじゃないんだ。生まれて初めて女性に対して声を荒げて、侮蔑の眼差しをむけちゃった」
そう告げる口調は、なんでもない話をするかのように飄々としていましたが、私の方に向けられたアルフォンス様のそのお顔にはやりきれない思いが隠し切れずに浮かんでいました。後悔や悲しみや怒りがまだ彼の中に残っているのか、空色の瞳は複雑な色を宿して細められます。
「……勿論、婚約はなかったことになったよ。そのご令嬢は、勘当されたけど……赤ん坊に罪は無いからね、ある商家に嫁いだよ。ウィルの父親、前侯爵様も自分が見つけて来たご令嬢だったから負い目を感じて家督を譲って隠居しちゃった。だけど、ウィルは女性不信になっちゃってね……まあ無理はないよね。僕だって、結構、辛かったもん。当事者のウィルの気持ちなんて想像するしかないけど、本当に悲しくて、辛くて、苦しかったと思う」
アルフォンス様は目を伏せて苦笑を零しました。再びカップを手に取って口へと運び喉を潤しています。
「さらに間の悪いことに国の英雄とも呼べるほどの功績を残したウィルには大勢の女性が群がった。その中にウィリアムという一人の男としての彼を見てくれる子が居れば良かったんだけど……みーんな、ウィリアムの肩書きにばかり愛を囁いた。しまいにはウィルを巡って醜い争いを勝手に起こしたりね。それで遂には女嫌いになっちゃったわけ」
カチャ、とカップがソーサーに戻される微かな音がやけに耳に残りました。
「……でもね、リリィちゃん」
懇願するような眼差しが私を捉えます。
「今、君を大事にしてくれているウィルがこいつの本当の姿なんだ。ウィルはちゃんと愛を知っていて、人を愛せる優しい男なんだよ。僕はね、さっきはああ言ったけど本当は……この際いっそ記憶なんて戻らなければいいと思うんだ。失くしてしまったものは確かにこれまでのウィリアム・ルーサーフォードを築き上げた大事なものだけど……忘れているこいつはこんな穏やかな顔をして眠っているんだもの」
私は、膝の上の旦那様に顔を向けました。旦那様は、すよすよと穏やかに眠っておられます。
記憶の中に有る私を見下ろす怖い顔の旦那様の面影は微塵もない、安穏とした寝顔は平和そのものでした。
「今のウィルから君に向けられる言葉や想いは、本物なんだ。少しで良いから信じてやってほしい……十も年上の分別があるはずの大人の男が一年も君をほったらかしにしておいたのはそう簡単に許せないと思うし、信じられない気持ちだって分かるんだけど……僕は大事な親友に幸せになって欲しいからこれはちょっとしたお節介」
アルフォンス様のお顔には、とても優しい微笑みが浮かんでいます。心からそう願っているというのが私にでも分かるほど、アルフォンス様のお言葉には大事な親友を心配し、想う気持ちが込められていました。
私はそれに、はい、と答えられるほどの自信がありませんでした。
「ん……」
逃げるように顔を俯けると膝の上で旦那様が身じろぎました。瞼がぴくぴくと震えたかと思うと旦那様の鮮やかな青い瞳が現れました。
「……リリア―ナ? どうした?」
旦那様の瞳に映る私はどんな顔をしていたのでしょう。心配そうに目を細めた旦那様に私は、慌てて笑みを浮かべます。
「はい。あの、旦那様……その、アルフォンス王太子殿下がいらっしゃっていますが……」
私の言葉に旦那様は一気に覚醒し、がばりと勢いよく旦那様が起き上がりました。そして、アルフォンス様を見つけると盛大に顔を顰めました。
「アル、約束は三時だっただろう?」
「だってさー、一昨日来た時はリリィちゃんに会えなかったんだもーん」
アルフォンス様は悪びれた様子もなく言い切りました。どうやら私が知らなかっただけでアルフォンス様は一昨日も屋敷に来ていたようです。午後は部屋で過ごしておりますし、私がお客様を迎えることはありませんので知りませんでした。
「ウィルが呆気無く落ちたのが分かるくらいに美人でびっくりしたよ。結婚式の時は顔がよく見えなかったもんね」
「言っておくがリリアーナは私の妻だからな」
「書類上のでしょ?」
アルフォンス様の飄々とした返しに一瞬、旦那様は眉間に皺を寄せました。悔しそうに唸るとひらひらとあっちへ行けと言わんばかりに手を振りました。
「もういい先に書斎に行ってろ……というか俺が寝ている間に余計なことは言っていないだろうな?」
旦那様はアルフォンス様の前だといつもと雰囲気が違います。三歳からお互いを知っている気の置けない大事な友人なのですから、記憶がなくなってもそれは変わりないのかも知れません。
「楽しくおしゃべりしてただけだよ、ねー、リリィちゃん」
「は、はい」
「人の妻を気安くリリィちゃんと呼ぶな!」
「やだねぇ。心の狭い男は嫌われるよ? 僕は記憶喪失の夫に心を痛めるリリィちゃんに君は忘れてしまっただろうけど、副団長に怒られて廊下に立たされた話や嫌いなピーマンをこっそり部下に押しつけて食堂のおばちゃんに怒られた話をして心をほぐしてあげただけだよ?」
その二つのお話は今、初めて聞きました。旦那様の野菜嫌いは筋金入りのようです。
「そんな話はしなくていいだろ!? 何かこうもっと別の話が有っただろう!?」
心なしか旦那様の頬が赤くなっています。アルフォンス様はなんだかとっても楽しそうです。私は旦那様の妻なのですから旦那様の味方をしなくては、と意を決して声を掛けます。
「だ、大丈夫ですよ、旦那様。セドリックもピーマンは苦手でしたからっ」
旦那様は何故か黙ってしまい、ぼすんと倒れて私の膝に帰って来てしまいました。そしてぴくりとも動かなくなってしまった旦那様に私はオロオロしてしまいます。
「あははは! セドリックって九歳じゃん、あはははは!」
アルフォンス様はお腹を抱えて笑いだしてしまいました。
「あのっ、旦那様とセドリックを一緒にしたわけではなくてですねっ、ピ、ピーマンが苦手でも大丈夫ですよ。私、誰にも言いませんから!」
私は自分の失言に気付いて慌てて弁解しますが、旦那様は私の腰に腕を回してますます動かなくなってしまいました。ふと前にもこんなことがあったのを思い出しました。私の部屋に初めて来て下さった旦那様が今と同じように私の膝に顔を埋めて動かなくなってしまったのです。その時、エルサが頭を撫でればどうにかなりますと教えてくれたのも幸いなことに思い出せました。
あの時と同じようにそっと琥珀色の髪を撫でます。さらさらと指の間をすり抜けていく髪を撫でながらアルフォンス様に助けを求めたのですが、アルフォンス様はお腹を抱えたままその場に突っ伏し、まだ肩を震わせておいででした。
それから暫く、そのままの状態でしたがアルフォンス様の肩の震えが止まる頃、旦那様も顔を上げて下さいました。
「リリアーナ、すまないが私はこの馬鹿と少し仕事を片付けて来る。また夕食の時に君の部屋を訪ねるよ」
「あーあ、そういうこと言っちゃう? 折角、この僕が手を貸してあげようって言うのにさー」
アルフォンス様がどこからともなく取り出した丸めらてリボンの掛けられた書状をちらつかせて言いました。旦那様は、むっと押し黙ってアルフォンス様を睨んでいます。私でしたら怖くて竦み上がてしまいそうな旦那様の睨みもアルフォンス様はとっても楽しそうに受け止めています。
というか幾ら親しい間柄であっても一国の王太子殿下をこの馬鹿呼ばわりして大丈夫なのでしょうか。
「まあ、可愛いリリィちゃんに免じて許してあげるけどね」
「リリィちゃんと呼ぶな!」
「はいはい、じゃあ、またねリリィちゃん。今度は、僕んちのパティシエが作ったケーキをお土産に来るからまたお茶しようね」
そう言ってアルフォンス様は立ち上がると旦那様から逃げるように屋敷の方へと行ってしまいました。
私は、慌てて「はい」とお返事はしました。アルフォンス様はそんな私に優しい笑顔を下さり、手を振るとどこからともなく現れたアーサーさんと一緒に去っていきます。
「リリアーナ、あいつに他に何を言われた? 変なことを言われていないか? 大丈夫か?」
アルフォンス様の背中を睨み付けていた旦那様がくるりと私を振り返りました。
「旦那様の普段のご様子を話して下さったのです。旦那様はとても優秀で素晴らしい騎士様だと教えて頂きました」
本当のことを言ったらまた私の膝の上で固まってしまいそうでしたし、婚約者さんのことに関してはそれを口にする勇気が私にはありませんでした。
「本当か?」
「はい。私の無作法も許して下さる優しい方ですね」
「……私も記憶はさっぱりと無いのだが、何故か彼のことは信頼できるんだ。同時にどういう訳か腹も立つのだが」
多分、アルフォンス様のご様子からしていつも旦那様を揶揄って遊んでいらっしゃったのだと思いますが旦那様も気付いていることだと思うので口にはしませんでした。
「君も部屋に戻るか?」
「いいえ、風が気持ち良いのでもう少しだけ、ここにいます」
「そうか。でも少しだけにしておくように。木陰は涼しいが熱中症になったら大変だからな」
「はい、お気遣い、ありがとうございます」
私は素直にお礼を述べました。旦那様は私の体調も気にかけて下さる優しい方です。
「では、また夕食の時に」
旦那様は、立ち上がって伸びをしてからいつの間にかやって来たフレデリックさんと共に屋敷に戻って行きました。途中、何度か振り返って私を見ていたので、その度に手を振り返しました。すると旦那様も手を振って下さり、満足そうに屋敷に戻られました。
「奥様、大丈夫ですか?」
エルサが入れ替わるようにやって来て心配そうに私に訪ねます。
「少し、足がしびれているだけです。ちょっと我慢すれば、すぐに治ります」
実はずっと座っていた上に旦那様の頭を乗せていたので足が痺れてしまったのです。旦那様は気付かなかったようですがエルサには見破られてしまいました。一番大きな痺れの波が通り過ぎるとぴりぴりとくすぐったいような痺れだけが残りました。それが徐々に消えていくのを待ちます。
「エルサ」
「はい」
片づけをしていたエルサが手を止めて顔を上げます。
「あの……その、」
旦那様の婚約者さんとのことについて聞きたいのですが、どうにもこうにも意気地のない私はそれを言葉に出来ません。
「ええと……セドリックから手紙は来ましたか?」
大事な弟を逃げ道にしてしまったことを神様に懺悔しながら私は首を傾げました。エルサは申し訳なさそうに首を横に振ります。
「手紙が来たら一番に知らせるようにと皆にお願いしてあるのですが、今のところはまだ……今月は遅いですね」
気遣うような眼差しに私は、ええ、と小さく頷きました。
旦那様の婚約者さんとのことも気になるのですが、セドリックのことが心配なのも本当なのです。いつもは第二週の頭には届くのですが、今は第三週の終わりです。
「……明日は旦那様とバザーに行く予定ですし、オールウィン家は当家からそう遠くはありません。帰りにでも様子を窺ってみますか? 旦那様はきっと良いとおっしゃってくれます、というか言わせますので」
エルサの心強い言葉に私は沈んでしまった気持ちをどうにか持ちあげて、そうですね、と返しました。
「夕食の時にでも頼んでみましょう。……奥様、足の方はいかがですか? まだ午後は暑いですしそろそろお部屋に戻りましょう。後の片づけは他の者に頼みますので」
「もう大丈夫ですよ。ほら」
私は痺れの取れた足ですっと立ち上がりました。エルサは、良かったです、と表情を緩めると日傘を取り出して私に差し掛けてくれました。私はそれにお礼を言って、エルサと共に屋敷へと戻りました。