第七話 庭の木陰と膝枕とお客様
初めてランチをご一緒したその日から、旦那様は宣言なさっていた通り、昼と夜は私の部屋で食事をなさるようになりました。
それだけではなく、広い屋敷の案内はすぐには終わりませんので、お昼までの時間は旦那様に屋敷の案内をするのが最近の私の習慣になりました。ルーサーフォード家はとても広いので、私も行った事のない部屋が多々あって、そちらはエルサやフレデリックさんが案内してくれました。美術の間と呼ばれるお部屋には、美しい絵画や彫刻、焼き物と様々な美術品が並んでいて、目の保養になりました。
さらに旦那様は、私がおすすめした「ハーブ園で口づけを」という恋愛小説を一晩で一気に読んでしまわれました。とても面白かった。感動して泣いてしまったと旦那様は翌朝、寝不足も加わって赤い目をしながら少し気恥ずかしそうにしながらも私に教えてくれました。他にもと乞われたので、何冊か私のお気に入りの本を選ばせて頂きました。代わりにフレデリックさんが、旦那様が少年時代に読んでいたという冒険小説を教えてくれたので、私はそちらを読んでいます。
まさか旦那様と本の感想(それも恋愛小説ですよ)を言い合う日が来るとは夢にも思っていませんでしたが、旦那様はとても楽しそうにしていらっしゃいますし、お仕事の合間の息抜きになっているようなので良かったなと思っています。
六日目の今日は、昼は外で食べようと私を誘って下さったので庭の大きな木の下でちょっとしたピクニック気分です。エルサとフレデリックさんは、少し離れたところに控えてくれているはずです。私からは姿が見えないのですが、旦那様はどこに二人がいるかお分かりのようです。
蝉が元気よく鳴くお庭で一番大きな木の木陰に布を敷き、クッションの上に座って料理長さんが作ってくれたサンドウィッチが今日のランチです。私はタマゴのサンドウィッチとトマトとレタスのサンドウィッチを頂きました。旦那様はボリュームのあるお肉系のサンドウィッチを次から次へとお腹に納めていきます。見ているのが楽しくなってきてしまうほどです。
旦那様はその大きく立派な体に恥じない食欲をお持ちで、初めてご一緒した時もあまりの食べっぷりに驚いてしまいましたが、旦那様は毎日、昼も夜もたくさん食べます。
「リリアーナは、もういいのか?」
「はい。もうお腹がいっぱいです」
「そうか……本当にもういいのか?」
最後のサンドウィッチを片手に旦那様が念を押してきます。私は、その優しさが嬉しくて、はい、と笑って頷きました。旦那様はそれで漸く信じて下さったのか、ほんの三口でサンドウィッチを食べてしまいました。
「私は一応、侯爵家の跡取りとして厳しく育てられたんだろう。食事のマナーは体が覚えているんだ」
私の隣に座り直しながら旦那様が言いました。
「記憶は無いが私は堅苦しいのがあまり好きではないな。リリアーナとこうして食べられる方が楽しい」
「でも、私は食べるのがあまり上手では無いので、旦那様の所作はお手本のようで憧れます」
旦那様は、ばくばくとたくさん食べますが、その所作はとても綺麗でがっついているという印象さえ与えません。気付くと大量にあった料理が魔法で消したみたいに綺麗さっぱりなくなっているのです。
「そんなことはない。リリアーナのマナーは完璧だし、とても丁寧で綺麗だ」
真っ直ぐに褒められて私は言葉に詰まってしまいます。
継母と姉のことで私が食事を苦手だということを知っている旦那様は初めてのランチから、食事の度にこうして褒めて下さるのです。ですので、最近は旦那様とお食事を共にすることにあまり緊張しなくなりました。
「あ、ありがとうございます」
私は勝手に緩みそうになる頬を手で押さえて、どうにかお礼を言うことに成功しました。
衣擦れの音が聞こえて顔を向けると旦那様が何故か両手で顔を覆って悶えていらっしゃいました。わりと頻繁に旦那様はよくこういった状態に陥るのですが、具合が悪くなったのかと心配になってしまいます。
「だ、旦那様、どうかしましたか?」
「……大丈夫、ちょっと、自分の理性と本能が戦っているだけだから」
よく分かりませんが、何かと戦っていらっしゃるようです。
理性と本能の戦い、もしや、旦那様は眠いのでしょうか。眠いと訴える本能とこんなところでは寝てはいけないという理性と戦っていらっしゃるのかもしれません。
「旦那様、ここはお庭ですしエルサとフレデリックさんしか見ておりませんから、少しならお昼寝をしても大丈夫だと思いますよ」
「え?」
旦那様がきょとんとしてこちらを振り返りました。
「お仕事でお疲れなのでしょう? 誰かが呼びに来たら起こしますので……でも、枕がないですね。あ、旦那様がよろしければ私の膝をお使いください」
私はぽんぽんと自分の膝を叩きました。
旦那様は、青い瞳でじっと私を見つめています。
「セドリックは寝心地が良いと言ってくれていたのですけど……」
何も言わない旦那様に私は、だんだんと自分がとんでもなく馬鹿なことを言ってしまったような気がしてきました。
セドリックは九歳の子どもですが、旦那様は二十六歳の立派な大人の男性です。一緒にされたら嫌に決まっています。
「申し訳ありません、旦那様、失礼を……」
「いや、全く! 全く失礼じゃない!」
旦那様が急に動き出して、ぶんぶんと首を横に振ります。旦那様はいつも急に動き出します。最初のころはびっくりしていましたが最近は慣れました。
「でも旦那様、固まっておいででしたし……」
「流石は私の妻だと感心していたんだ。隠しているつもりだったのに私が眠気と戦っているのに気付くなんて、流石は私の妻だな、と」
「そ、そんな、買いかぶり過ぎです」
旦那様は、本当にお優しい方です。嬉しさについつい口元が綻んでしまいます。するとまた旦那様が両手で顔を覆って悶え始めてしまいました。何やらぶつぶつ言っていますが、小さすぎて聞こえません。
私がもう一度、声を掛けようとしたところで旦那様が顔を上げました。
「リリアーナ、君の優しさに甘えて膝を借りてもいいかい?」
「はい、もちろんです」
私がこくりと頷くと旦那様は、一度、私を立ち上がらせました。そして木の幹に近いところにクッションを置くとそこに座るように言われて腰を下ろしました。ご自分が使っていたクッションを私の背中と木の間に入れて下さいます。そして、私の準備が整うと旦那様はごろりと仰向けに寝転がって私の膝に頭を載せました。勿論ですがセドリックの小さな頭よりもずっと重たいです。
「辛かったり、痛かったりしないか?」
「はい。旦那様も大丈夫ですか?」
「ああ。とても寝心地が良い」
「それは良かったです。ゆっくりと休んで下さいませ」
旦那様は、ありがとう、と告げて小さく笑うと目を閉じました。疲れていらっしゃったのでしょう、そう待たずして規則正しい寝息が聞こえてくるようになりました。
旦那様の端正なお顔が自分の膝の上にあるのはとても不思議な気持ちになります。まるで夢を見ているかのように心がふわふわします。零れた琥珀色の前髪が旦那様の目にかかっているのを見つけて、そっと指で払いました。
記憶も戻っていないのに旦那様は、数日前から書斎でお仕事をしています。
旦那様は滅多に屋敷に戻られなかったので侯爵家の領地に関する報告書が溜まりに溜まっていたそうで、アーサーさんやフレデリックさんの手を借りながら片付けているのです。旦那様は、領地に関してはまだ積極的に関与はしていません。騎士団のお仕事が忙しいので、息子に家督を譲ったお義父様が管理して下さっているのだとエルサが教えてくれました。
私はお飾りというのも怪しい妻ですので、旦那様のご家族にはお会いしたことはございません。ですので、邸に飾られている姿絵でしか義理の両親のことは存じません。
旦那様は、瞳の色と顔立ちはお義父様譲りですが、琥珀色の髪はお義母様譲りです。お義母様は十六歳で旦那様を産んだのでとても若々しくなんと旦那様には、十六歳の妹さんと九歳の弟さんがいます。
現在はお義父様とお義母様、弟さんは自然豊かで空気の澄んだ領地に、妹さんは貴族の子女が通う全寮制の王立学院にいるので旦那様もここ数年は会ったことがないとこれもまたエルサが教えてくれました。
時折吹くからりとした爽やかな風がざわざわと木の葉を揺らし、夏の午後ですがこの風のお蔭で木漏れ日の下は心地が良いです。
そうしてぼんやりと風の音に混じる蝉の声を聞きながら私も夏の日差しに照らされるお庭を眺めていたのですが、話し声と足音がどこからともなく聞こえて来てきょろきょろと辺りを見回しました。
「うわっ、あの女嫌いのウィルが女の子の膝枕で寝てる」
驚きと笑いの混じった声が見ていたほうとは逆から聞こえて振り返ると夏の日差しにきらきらと輝く蜂蜜色の髪に澄んだ空色の瞳の甘い顔立ちの男の人がこちらにやってきました。後ろにはアーサーさんがいます。
その人はすらりと背が高く騎士団の制服を着ていて、年は旦那様と同じくらいに見えます。ぱっと顔を向けたその人を目が合って、私はびくりと固まってしまいました。
「奥様、驚かせてしまいまして申し訳ありません。こちらは……」
「僕は君の旦那さんの友人だ。アルフォンスだから、アルフと呼んでくれ」
旦那様を気遣ってくださっているのか、小さな声でその方はおっしゃいました。
けれど、私はその名前に引っ掛かりを覚えて首を傾げました。忘れてはいけない、とても大事な方の名前だった気がするのです。そして思い当たった名前に私は血の気が引いていく音を聞きました。
「……アルフォンス王太子殿下……っ、あ、あの、わた、私……っ」
そうです、この方は我がクレアシオン王国の王太子殿下です。
立ち上がってご挨拶をしようにも膝の上には旦那様が居ます。旦那様の頭を放り出す訳にはいきませんが、王太子殿下に挨拶をしないという失礼も出来ません。
「大丈夫だよ、侯爵夫人、折角、これが寝ているんだから楽にしていて。王太子として来たわけでもないし、そうなれば僕は君の旦那さんの部下だもん」
そう言ってアルフォンス様は、布の上に上がると腰から剣を抜き、アーサーさんが置いたクッションの上にどかりと腰を下ろしました。どこからともなく現れたフレデリックさんとエルサが、すぐに紅茶を出してお茶菓子も用意してくれました。
「驚かせてごめんね? まさかあの女嫌いのウィルが奥さんの膝の上で寝てるとは思わなくてさ。でも納得だよ、君はこれの好みど真ん中だもんねぇ」
アルフォンス様はまじまじと旦那様を見ながら言いました。
旦那様は、よほど深く眠っていらっしゃるのか、起きる気配がありません。起こすべきかと悩んでいると「寝かせてあげて」とアルフォンス様に言われてしまいました。そして私が悩んでいる間にかアーサーさんもエルサもフレデリックさんも姿を消しています。一人にしないで下さい、と泣きたい気持ちになりました。
「取って食ったりしないから、大丈夫だよ。侯爵夫人、そんなに泣きそうな顔をして怯えないで」
アルフォンス様の声はとても穏やかで優しさに溢れていました。包容力というのでしょうか、そういう安心感があります。少し垂れ目の空色の瞳は、夏の空と同じくらいに青く澄んでいます。
「あの、私は、リリアーナ・カトリーヌ・ドゥ・オールウィン=ルーサーフォードと申します」
今の私が出来る精一杯の礼を尽くして挨拶をしました。
「リリアーナか、麗しい君にぴったりの可憐な名前だね」
アルフォンス様の無邪気で人懐こい笑みは不思議と私の緊張をゆっくりと溶かしていきます。
「今日は、ウィルの顔を見に来たんだけど、元気そうで良かったよ。起き抜けに「誰だ?」って聞かれたのには、本当に驚いちゃったけどね」
アルフォンス様は、軽やかに笑いながら言いました。
そういえば旦那様が記憶喪失になった現場には、フレデリックさんと団長さん、そして、アルフォンス様が居たはずです。
「確かにウィルがいないと騎士団としては困るんだけどさ、こいつ働き過ぎだったから丁度良いと思ってるんだよ。まあ、記憶喪失まで良かったとは言わないけどね。幼馴染の僕のことまで忘れるなんて酷くない? 僕、傷心だよ」
言葉通りに胸に手を当てて悲しい顔をするアルフォンス様ですが、それは演技がかっていて思わず笑ってしまいました。するとアルフォンス様は悲しい顔からすぐに笑顔になります。
「うん、僕は女性は笑っているほうが好きだよ」
その言葉に私は目を瞬かせました。どうやらこれはアルフォンス様の策略だったようです。
「アルフォンス様はとてもお優しい方ですね」
「でしょー? よく言われるんだ」
おどけたようにおっしゃるアルフォンス様に私は、またも笑ってしまいます。王太子殿下という肩書をお持ちですので、もっと怖い人だと思っていましたが、とても優しく人懐こい方のようです。
「ウィルと僕は同い年でね。ウィルの家は忠臣と名高い家で王家からの信頼も厚かったから、僕の遊び相手として父が選んだんだ。だから彼のことは三歳から知っているよ」
「というと二十三年のお付き合いになるのですね」
「そうそう。まあ、乳兄弟のフレデリックには負けるけどね」
アルフォンス様は優雅に紅茶を飲みながら肩を竦めました。
「あ、そうだ。ウィルが寝ている間に騎士団でのウィルの話をしてあげるよ!」
何だかアルフォンス様は悪戯を思いついた子どものような顔です。
それからアルフォンス様は、騎士団での旦那様の様子を面白おかしく話して下さいました。アルフォンス様はとてもお話し上手で私は笑ったり、驚いたりと大忙しです。
正直、記憶を失くされるまでの旦那様は「怖い」というイメージしかありませんでしたが、部下の方と食堂のAランチを賭けて腕相撲をしたり、会議で居眠りをして副団長様に怒られたり、じっとしている書類仕事は苦手だったりと何だか子供のような一面もあるようでした。ですが、騎士としては本当に有能で、剣術の腕は国内でも指折りなのだともアルフォンス様は教えてくださいました。
アルフォンス様が話して下さる旦那様は、私の知らない旦那様ばかりで、私は妻だというのに本当に何も知らないのだなと実感したした。その傍ら何故かほんの少しだけ寂しさを感じてしまったことは、心の内にそっと秘めて、私はアルフォンス様のお話に耳を傾けました。
「転んで記憶喪失になったからもう分かってると思うけど、ウィルって変なところで抜けてるんだよねぇ」
少し呆れたようにアルフォンス様が笑いながら言いました。
私はなんともお返事し辛いことでしたので、旦那様の額に掛かる髪を払って誤魔化しました。
「ねえ……ウィルが女嫌いになった本当の理由は知ってる?」
「え……?」
アルフォンス様の空色の瞳に真っ直ぐに抜かれます。
蝉の声が少しだけ大きくなったような気がしました。