ひとりぼっちの初夜
「君と結婚したのは、その方が都合が良かったからだ」
私、リリアーナ・カトリーヌ・ドゥ・オールウィンがその言葉を聞いたのは結婚式を終えて、初めて共に過ごすはずの夜のベッドの上でした。
今日、紹介されたばかりの私の侍女が用意してくれた間違いなく体の線や肌が透けてしまう薄い素材の夜着を纏い、羞恥と混乱と恐怖で半泣きだった私に侍女が用意してくれたガウンをしっかりと着込んでベッドの上で待っていた私は告げられた言葉を辿るように夫になったばかりのその人を見上げました。
すらりと高い背に均整の取れた男らしい体つき、そして美しい琥珀色の髪に切れ長の二重の瞳は、鮮やかな青。男らしく整った顔は、まるで作り物のように綺麗でシェードランプの灯りだけが頼りの薄暗い部屋は彼の顔の陰影を際立たせていて、そこに冷たいものが少しでも混じると身も凍る想いがします。
私の旦那様になった人は――五年前の戦争で英雄として名高いスプリングフィールド侯爵、ウィリアム・イグネイシャス・ド・ルーサーフォード様です。
旦那様は冷たい表情をその美しい顔に浮かべて、私の前に立っておりました。
旦那様は、かっちりとした騎士の制服姿のままで胸元のネクタイすらぴくりとも緩めていません。到底、これからゆっくりと眠るとは言えない格好でした。
私は旦那様のその冷たいお顔と纏う空気が恐ろしくて出来る限り旦那様の視界から消えようと身を小さくしました。
「泣くな。泣く女は嫌いだ」
身を縮めた私が泣くと思ったのか酷くうんざりしたような声が上から降って来て、ますます私は身を小さくしました。いっそ、消えてしまいたいと願う私に旦那様は、心底苛立たし気に舌打ちをしました。
私は成人を迎えたばかりの十五歳。旦那様は二十五歳。十も年が離れている上、結婚前に結婚を約束した証である婚約書にサインするために教会で会った時以来でこうして顔を合わせたのは結婚式を行った今日が二度目でした。婚約期間はたったの一か月でそもそも私は、婚約書にサインする日まで何も知らされていませんでした。今日ですら私は、何も知らないまま馬車に押し込まれ、あらかじめ用意されていた鞄一つで生まれ育った家を後にしたのです。当然、旦那様のことも何も知りません。だからこれから少しずつでもお互いを知っていけたらと思っていました。
けれど、婚約書の時もそうでしたが今日の結婚式でも旦那様とは一度も目が合いませんでした。誓いのキスもなく、下ろされたヴェールがあげられることもなく、社交期ではない時期に行われたので参列者も殆どなく、儀礼的な結婚式はただ淡々と進んでいきました。その後、旦那様は教会の控室に戻って騎士の制服に着替えるとそのままお仕事に行ってしまわれたので、私は、一人で裏口に用意されていた馬車で嫁入り先である侯爵家に参りました。
「私は君と子どもを作る気はない。侯爵位もルーサーフォード家も私の弟に継がせる」
続いた言葉に私は、驚いて顔を上げました。
そこにはやはり氷のように冷たい表情を浮かべた旦那様が立っていました。目が合うと形の良い眉が少しだけ寄せられて私は慌てて顔を俯けました。
貴族にとって子を残すこと、血を繋げていくことは最も重要な義務の一つであることは私でも幼いころから知っておりました。それにこんな私を貰って下さった旦那様に対し口答えをして良いわけがありません。私は何の言葉も口にすることは出来ず、ただ黙って旦那様のお言葉に耳を傾けておりました。
「最初に言った通り、君と結婚したのは私にとって都合が良かったからだ。私は結婚などもとからする気はなかったが、立場上、周りが五月蠅かった。だが偶然、君の噂を耳にしたんだ。伯爵家には病弱で外に出せない娘がいると……病弱な娘なら短い婚約期間で娶っても、後々、社交会に出なくとも病弱だからと周りが勝手に納得してくれるだろうと思ったんだ。……君の父は上の娘を私に押し付けようとしていたが、エイトン伯爵も彼が賭博で作った三千万リルという借金を肩代わりしてやるとすんなり君を差し出してくれたよ」
「……さ、三千万リル?」
私は確かに全身から血の気が引く音を聞きながら顔を上げました。
旦那様は薄っすらと酷薄な笑みを浮かべて私を見下ろしていました。
「貴族院の査問委員会に言えば、爵位及び領地、私財没収になる額だ。……だが、これで私に逆らうこともないと思えば安いものだ」
すっと細められた青い瞳を見上げて、私は無意識の内に左の鳩尾に手を当てていました。青い瞳が私の手を追いかけて、ますます鋭く細められました。
この手の下には大きく悍ましい傷跡があるのです。
「妻としての責務は何一つとして果たさなくていい。夜会や茶会にも出なくていい。君は病弱でとてもではないが社交は無理だと噂を流しておく。……とはいえ、十五歳と若い君の人生を縛り付ける以上、ドレスでも宝石でも欲しいものは好きなだけ買えばいい。その代わり一切の面倒は起こすな。何かあれば君の侍女のエルサか執事のアーサーに言え」
分かったな、と最後を締めくくった旦那様は私が頷いたのを見届けるとくるりと背を向けてそれ以上に何か言葉を紡ぐことはなく、部屋を出て行かれました。バタン、とドアの閉まる音がやけに大きく部屋の中に落ちて呆気無く消えて行きました。
私は空っぽになった心をどうにかしようと膝を抱えて顔を埋め、唇を噛み締めて涙をこらえました。
拒絶されたことが悲しいのか、お父様が多額の借金を抱えていたことが悔しいのか情けないのか、もう何が何だか分かりませんでした。
婚約書に署名をした教会でお父様が旦那様にこの傷のことについて尋ねていたのを思い出しました。お父様は私ではなく溺愛する姉様をクレアシオン王国の英雄であり大貴族のスプリングフィールド候に嫁がせたかったからです。
『醜い化け物の証を持つ不器量な娘だがそれでもいいのか、上の娘の方がそれはそれは綺麗で淑やかで』と言い募るお父様の言葉に旦那様はただ一言「私はその娘が良い」と言ってくれました。
望まれて結婚するのだと私は涙が出そうになって、胸に感じたこともない温かな感情が去来しました。
私はこの結婚に僅かでも期待や希望というものを抱いていたのだと今になって気付きました。少しは愛してもらえるのではないかとそう願っていたことに気付いてしまったのです。あの時の温かな感情は、きっと「幸せ」だったのでしょう。
「……馬鹿ね、リリアーナ。私なんかが愛される訳が無いのに……」
自分で吐き出した言葉が空っぽになった心にすとんと落ちて、ぴったりと収まりました。
結婚するにあたって面倒がなく都合の良い私が良かったのです。
けれど、まさかお父様が三千万リルなんて途方もない額の借金を抱えていたとは知りませんでした。それを私という娘を一人貰うだけで肩代わりして頂けるなんて旦那様はとても優しい方です。
私はひとりぼっちの寝室で、ならばせめてその優しい旦那様が望んでくれた妻であろうと決意しました。
それが私と旦那様の結婚初夜の出来事でした。