第3話 スライムの少女
「――静粛に」
頭上から、冷たい声が降ってきた。
彩斗や少女、夜津木や他の面々が仰いで見れば、そこに新たな人物が立っている。
彩斗たちのいる階段状の足場、それより上からの声だった。まるでバルコニーのように突き出ている箇所で、黒いドレスを着た女性が全員を見下ろしている。
橙色の髪をした、女性だ。
紫に染められた唇がきつく結ばれている。肉感的なシルエットの体を覆う衣装は、まるでウェディングドレスのように優美で、華麗だった。
ドレスは黒い。どこまでも黒い。何者をも呑み込んでしまうような奈落の底の色が、不吉な予感を抱かせる。
首元には茜色のペンダントがあった。女性の瞳は金色。氷の冷たさを持つ瞳。命を何とも思わない、冷酷な光がその奥に宿っている。
綺麗な顔立ちの女性ではあったが、彩斗はその女性を見た瞬間――ぞくり、と体が震えた。関わってはならないのでは、と思った。見ることもしてはいけない、危険度だけで言えば、まだ夜津木と一緒の方がマシと思えるほど、女性は怖気を呼び起こす気配をまとっていた。
数多の視線が集中する中、スッ――と、優雅な仕草で女性は両腕を広げる。
「ようこそ。『天空宮殿』に」
戸惑いの感情が全ての人々の間で広がる。突如現れた女性の言葉に、不信の目を向けていく。
「私の名はアルシエル。様々な世界から、お前たちを召喚した魔神である。集まってもらったことに対する謝辞は行わない。お前たちにやってもらうことはただ一つ。これから毎日、武技でもって、互いに戦うことだけだ」
……はあ? という声がまず聞こえた。威圧的な女性の言葉に、最初は呆けていた皆だったが、全ての元凶は黒いドレスの女性とわかって、険悪な雰囲気になる。
「なんだそれ、ふざけんな!」
「どういうつもり?」
「元いた場所へ帰して!」
険しい声がいくつかあがる。訝しむ声、怒気の気配が急激に膨れ上がっていく。
だが女性は――アルシエルは厳かに、何者をも平服させるような威圧感でもって、冷たく宣言した。
「ルールは至極簡単だ。お前たち『人間』と『魔物』でペアを組み、毎日一組ずつが戦う。どんな武器を使っても構わない。連携を行おうが、片方に任せようが、各ペアの自由。毎日ランダムに選ばれた二人組のペア同士が、死力を尽くし、戦い、勝利を重ねていく。そうして最後まで勝ち残ったペアに、最高の褒美を取らせよう」
波紋の広がる面々の間に、氷のような冷たさでアルシエルは宣言していく。睨みつける視線など関係ない。たぎる憤りの声など歯牙にもかけない。冷酷に、ただ一方的に、彼女は語っていく。
「それでは、今からペアを定めよう」
言って、アルシエルはしなやかな動作で高く腕を振り上げた。
すると全ての人間と魔物の腕に、光る粒子が現れた。手首の部分に出現し、眩く明かりを放つと、その粒子は腕輪へと変化。銀に輝き氷のような光沢を持つ、装身具となった。
「な、なんだこれは!」
叫びを上げる面々の中で、彩斗も困惑していた。彼の右手首にも腕輪が現れた。とっさに外そうとするが、どんなに力を込めても外れない。
そして次の瞬間、全ての腕輪から、光の柱が立ち上がる。遥か遠い天井にすら届く光だ。その直後、それぞれの光の柱が、様々な色に染まっていく。
「な、なんだ?」
「腕輪の光が――」
「赤色に」「私は黄土色に……」「鈍色の光? これがいったい、なんだっていうんだ」
アルシエルが端的に説明する。
「その腕輪はお前たちが『アルシエル・ゲーム』に参加している何よりの証。そして、ペアを決める光を発する魔法具だ。周りの光の色を見てみるがいい。自分の腕輪と同じ光の色――それが、これから苦楽を共にするパートナーとなる」
彩斗は、自分の腕輪が、闇色の光を発していることに気付いた。
そして同じ光が、さっき助けてくれた少女から溢れていた。
「き、キミが、ボクのパートナー……?」
「あなたが、わたしのペアなの~?」
少女の方も戸惑い気味に見返す中、アルシエルの冷淡な声が響いていく。
「その腕輪はどんな魔法を使おうと破壊することは叶わない。外すことも不可能。お前たちは私を楽しませる道具だ。生きた戦闘人形。力尽きるまで戦って、戦って、戦って、私のために、最高の武闘を披露しろ」
動揺する皆の様子を見て、アルシエルは薄く笑みを浮かべる。
「なお、戦いに敗れたペアは、石化するということを、予め伝えておこう。敗者の石化は何をやっても防ぐことはできない。解呪の魔法具、回復の薬草、魔を祓う輝石、いかなる手段を用いても回避は不可能だ。お前たちは無様な石像になりたくなければ、必死に戦うしかない。定められた人間や魔物のパートナーと、最後の一人になるまで勝ち続ける。それが、お前たちの運命だ」
「ふざけるな!」
激情に駆られて前に出た者たちが、四人いた。
正確には、二人の人間と二匹の魔物たちだ。大剣を背負う大男、杖を携える女性、鋭利な牙と爪を持った狼と、獅子の顔をした魔物が、あまりに一方的に告げるアルシエルを睨みつける。
「貴様、何様のつもりだ? 俺たちをこんなところに呼び寄せておいて戦えだと? ふざけるのも大概にしろっ」
だが、アルシエルは彼らに視線もくれない。橙色の長い髪を優雅に掻き上げ、大きくなびかせると、
「ペアを組み、『闘技』を行うに当たって、いくつかの補足がある。お前たちは毎日、闘技の時間以外は、牢屋の中で過ごしてもらう。もしも出ようとすれば、ガーゴイルがお前たちに制裁を与えるだろう。お前たちは闘技を勝ち続けることだけを考えているがいい。ふふ……ふふはは!」
突風が起こった。
大剣の戦士が、たった一瞬の間に跳躍し、アルシエルのいるバルコニーへと突貫したのだ。
尋常ではない速度に衝撃波が巻き起こる。彩斗の眼には動いたとすら認識できない早業だ。音を切り、空を穿ち、まさしく旋風となって彼は突進する。
杖を持つ女性がそれに呼応するように、杖を高く掲げた。一瞬で唱えられた呪文の後に出現したのは、無数の氷柱だった。虚空から現れたそれは、風切り音と共にでアルシエルへ放たれた。
アルシエルが片手を突き出して反応する。
その手より生み出されたのは熱気振り撒く真紅の炎だ。大気を焦がし、空間を染め上げると、火炎は巨大な牙のごとく大剣の男に襲いかかる。
「うお!?」
とっさに大剣を構えて凌ごうとした男だが、防ぎきれない。
大剣が融解する。
業火の牙が大剣に触れた瞬間、どろりと刃が呑み込まれていった。
その火炎はまるで地獄の炎だった。溢れ出た熱気が男を薙ぎ払い、小石のように吹き飛ばした。
「う、嘘でしょ……?」
思わず動きを止めてしまった魔法使いの女性の前で、アルシエルは第二の火炎を発生させる。
女性は、何か強力な術を使おうと試みたらしかった。杖に光が集まる。螺旋を描いて猛烈な力がみなぎる。おそらくは膨大な量の水を放出し、火炎を防ごうとしようとしたのだろうが、その防御すらアルシエルの業火は貫通した。
猛獣の牙を思わせる業火が、放たれた水を押しのけて、膨大な熱と光と火の粉共に女性へ直撃。女性は呻き声を走らせ、倒れてしまう。
灼熱に染まった大気の中、なおもアルシエルの猛威は止まらない。
「っ!」
獅子の怪物が、狼の魔獣が、人間など遥かに上回る速度でアルシエルへと殺到したが、彼女が行った動作は、軽く両腕を振っただけだ。
それだけで業火の牙がいくつも生まれる。膨れ上がった膨大な火の粉の渦が、魔物たちを巻き込み、吹き飛ばす。
大きな放物線を描き、魔物たちが転がって落ちる。
炎が猛々しくそびえ立ち、紅蓮で染まる空間で、アルシエルは冷ややかに語る。
「手加減した。命を失うほどではない。だが数日は身動きできないな。もしも闘技に選ばれれば、彼らは脱落するだろう。まったくもって、愚かな者たちだ」
見れば、膨れ上がった業火の勢いに反して、二人の人間と二匹の魔物から、嘘のように火炎が消えていく。
手加減というのは本当なのだろう。アルシエルは命をどうこうする気はないようだった。
しかしその凄まじい攻撃に、皆が動けなかった。
彩斗の膝はがくがくと笑ってしまった。業火とその残り香を前に、硬直する。
「さあ! それでは今からアルシエル・ゲームを行おう。栄えある、最初の闘技のペアは、いったい誰になるのか」
アルシエルが黒いドレスの内から、白銀のオーブを取り出した。
オーブを高く掲げると、天井が眩く輝き始めた。続いて、何か歯車の音。乱舞する明かりと無骨な音にやや遅れて、オーブから一条の光の柱が立ち上っていった。
「ヒャッハ――――――っ!」
奇声じみた声を上げたのは、夜津木だった。その腕輪が紅く発光している。血のごとき光を発する腕輪を振り、夜津木は興奮して止まらない。
「何がなんだかわからねーけど、最高の祭りの始まりじゃんかー!? これは――っ!」
興奮する彼へ同調するように、腕輪が強く発光している。
次の瞬間、彼の足元に複雑な紋様が現れると、夜津木は細かい粒子となって消え失せた。
「あれは……っ」
学校帰りに、自分の足元へ現れたのと同じ紋様に、彩斗の背筋が凍る。
夜津木はすぐに現れた。彼が出現したのは、階段状の足場の下にあるフィールドだ。ごつごつとした石と岩ばかりの場所に、彼は何らかの手段で移動させられたのだ。
同時に、その反対側にも、一人の少年が現れる。
こちらは夜津木の高揚し切った表情と比べると、哀れなほどに怯えた様子だった。がくがくと肩を震わせ、しきりに辺りを見回して状況を把握しようとするが、混乱の極みにある彼は、滝のような汗を流すだけだ。
夜津木が叫ぶ。
「敵はなんだか弱そーだな。でもいいや。早く、早く、始めろアルシエルっ!」
そんな殺人鬼の隣へ、巨大な人影が現れる。
夜津木のパートナーの魔物だ。
身の丈八メートルは軽く超えた、深緑色の巨人だった。眼は一つしかない。大木のような腕に、手には巨大な金属の棒。鋭利な牙が腔内から見え、醜く唸りを上げる。
その単眼の巨人を見た瞬間、彩斗は何か、ゲームや漫画などで見たとある存在を思い起こす。
「あ、あれは……ゲームとかに出てくる、サイクロプス?」
ほぼ同時に、対面にいる怯えた少年の傍らへ、ふさふさの毛を持つ小動物が現れた。
その額には赤い宝石が埋まっていた。愛らしい顔立ちの小動物だった。
「こ、今度は、カーバンクル? まさか……本当に色んな世界から、魔物を召喚したっていうのか……」
サイクロプスとカーバンクルが、前者は大きな金属棒を振り回し、後者は小さく跳びはねて、人ではない存在――魔物であることを示すかのように動きまわる。
彩斗は思う。先ほどこの場所が闘技場だと思ったが、まさにそれが証明されている。たくさんの観衆に、円形に作られた戦いの場。これはまるで――古代のコロシアムではないか。
「では、闘技を始めよう」
アルシエルが高く厳かに宣言する。
「戦うのは人間と魔物、どちらでもいい。両者が共に戦うのも許可する。だがもし魔物が倒れた場合、そちらを敗北と見なす。魔物を守って戦うか? それとも魔物が強大な力を使って戦うか? あるいは力を合わせ共闘するか。――闘技の制限時間は三時間。引き分けの場合、双方のペアを石化とする。さあ戦え。存分に戦え。魂を燃やし尽くし、私に至高の武闘を見せつけろ」
それが開始の合図であるかのように、天井より黄金の矢が飛来してきた。闘技フィールドと観衆場を隔てる魔法の障壁が現れる。。中空で黄金の銛が弾けて空気に溶けた瞬間、
「ヒャッハ――っ!」
夜津木が、鋼の刃を閃かせ、突進した。
† †
コンバットナイフが空を切る。
サイクロプスの金属棒が、地面を割る。
最初の闘技は、夜津木が開幕から突進して、少年へと跳びかかっていった。
少年は怖さのあまり、すぐに気を失ってしまった。とどめを刺そうとする夜津木に対し、カーバンクルは必死に少年を守り、抵抗した。
赤の宝石がほのかに輝きを帯びる。空気がかすかに震える。
直後――カーバンクルの額の宝石から、拳大の炎が飛び出した。
「うおっ!?」
身を翻して夜津木は華麗に回避する。その後方、かわされた炎はフィールド上の岩に直撃し、火花を散らせて消えていく。
「ま……」
一瞬の空白。
「魔法だ――っ!」
夜津木がフィールドで跳びはねて興奮する。
「魔法だ! 今の、ひょっとしなくとも魔法じゃね? マジで? マジで!? おおっしゃーっ! 本物の魔法が、俺の目の前に、あるっ!」
コンバットナイフを翻し、けらけらと笑いながら夜津木は疾走する。
凶刃が空を裂く。一閃、一閃、また一閃。
歯を剥き出しにして斬りかかる夜津木に対し、カーバンクルは奮戦したと言えるだろう。ふさふさの毛を揺らし、小さな体躯で健気に駆けながら、必死に夜津木の斬撃を避けようと駆け回っていた。
だが、二対一の状況に追い込まれた時点で、カーバンクルの運命は決まっていたのだ。
轟然と叩き下ろされたサイクロプスの金属棒が、カーバンクルを打ち据える。一撃で地面にめり込んだ カーバンクルに、逆転の手段はなかった。
戦いは三分にも満たなかった。
敗北する前、カーバンクルは必死に手足を振り回した。サイクロプスに掴まれ、巨大な手の中でもがく様子は、見るものに哀れさを感じさせた。
そんなとき、鑑賞していたアルシエルは、言ったのだ。
「なお、闘技中、ペアのうち人間には、切り札として『ゲヘナ』を放つことが許される。これはいかなる魔物をも一撃で倒せる、地獄の業火だ。敵側の魔物に当てれば、ほぼ勝利が確定する。人間よ、腕輪がはまった腕を突き出して、念じるといい。ただし撃てるのは三度だけだ。使いどきを考え、勝利への鍵とするがいい」
見ている誰もが、それは皮肉であるとわかっていた。もう結末など見えている。そんな物騒な炎なんて使わなくとも、夜津木の勝ちだ。闘技の相手である少年は気絶していて、その相方のカーバンクルは一つ目の巨人の手の中にある。
彩斗は、止めさせようと身を乗り出した。けれど、怖くて口から声が出ない。
夜津木の腕が、カーバンクルの方へ向けられる。サイクロプスが、握っていた手を開いた。ゆっくりと、落ちていくふさふさの毛の魔物。
夜津木の腕輪から、湧き上がったのは黒い炎。
それは巨大な大蛇のようにうねり、大気を焦がしながら猛進する。
小さな魔物へと直撃した。漆黒の業火が燃え上がり、とさりと地面に落ちるカーバンクル。彩斗は、最後まで見ていられなかった。
「すげえ、何だこれ、俺も魔法が使えた! 腕輪から、黒い炎が! やべえ、すごいぜアルシエル! とんでもねー祭りの、開催じゃねえかっ! ヒャッハーっ!」
両腕を広げ、跳びはねて興奮する夜津木に向けて、アルシエルは厳かに宣言した。
「闘技の終了を確認する。――それなりには見れる武闘だった。次の闘技は、今以上の攻撃を期待する」
「なあ、なあ、マジでこんな戦いが続くのか!? 好きなだけ斬り刻んでいいの? 燃やしていいの? あはっ、すげえ、やべえよこのゲーム! 俺ぁ、気に入った!」
げらげらと笑う夜津木に対し、冷ややかにアルシエルは見下ろすだけだ。
戦いの終了と共に、フィールドと観衆場を隔てていた魔法の障壁が消失する。
そして次の瞬間、ゲームの敗北者に与えられる、残酷な時間が訪れる。
「あ、そんな……カーバンクルが……っ」
額に宝石を持つ魔物の体が、徐々に石化していった。気絶したままの相方の少年も同様だ。
初めはつま先から。そこから徐々へ上へと。まるで侵食するように、灰色に染まっていく少年とカーバンクル。
やがて、彼らは頭頂部まで完全に石に覆われる。アルシエルが喉の奥から笑いをこぼし、妖艶な笑みを浮かべてみせる。
「闘技の敗者は石化する。これで、アルシエル・ゲームの概要は、わかったと思う。無様な石の彫像になりたいか? ふふ、なりたくはないはずだな。ゆえに、お前たちは勝ち続けるしかない。いかなる理由があろうとも、負ければ石化。引き分けでも石化。――勝利だ、お前たちはひたすら勝利せよ。そして、私に大いなる悦楽を与え続け、見事、最後まで残ったペアには――」
バルコニーの上で、優雅にアルシエルは両手を振って見せる。
小さな光の粒子が、頭上よりきらきらと現れ、集束していった。
光の中から現れたのは、赤と銀と蒼色の装飾具で彩られた、一冊の書物だった。宙に浮き、ゆっくりと回転するその本を指さしながら、
「この本の名は、『想示録』と言う。持ち主のあらゆる願いを叶え、現実のものとする至高の魔法具だ。アルシエル・ゲームの優勝者には、この想示録を授けよう。お前たちには、どんな願いがある? 金か、名誉か、それとも絶対的な地位か。いかなる願望をも、想示録は叶えるだろう」
ざわり、ざわりと観衆場の人間や、魔物たちがざわめきだす。互いにパートナーの顔を眺め、アルシエルの提示した最高の褒美に興奮する。
「なるほど……良い賞品だわ」
「石化するのはまあ勘弁だけど、勝てばいいっスよねー」
「……殺す。あたしの願い邪魔する奴……殺す……フフ……」
「毒をいくつか調合しないといけないですね。丸腰ではきついです。んんー、楽しみです」
興奮する者たちがいる一方で、彩斗を始めとしたおよそ三割の者たちは、顔色を失って立ち尽くしていた。
鳥肌が立ち、膝を笑わせて、途方に暮れた顔を晒していく。
「な、なんてゲームだ……」
かすれた声が彩斗の口から洩れ出る。汗が流れて足元に溜まっていった。
負ければ石化。優勝すれば願いの叶う、アルシエル・ゲーム。
夜津木がフィールドの中で高らかに笑っていた。パートナーのサイクロプスが、想示録を見つめて下卑た笑みを洩らしていく。
上方、バルコニーの上から、アルシエルは白銀のオーブを高く掲げる。
石化したカーバンクルと少年がふわりと浮く。宙を漂っていく。
二つの石像は、観衆場の片隅に置かれ、コロシアムの風景の一部となった。
そのあまりの光景に、彩斗は気が遠くなって、意識を闇に沈ませた。
† †
アルシエル・ゲーム。その基本ルール。
人間と魔物がペアを組み、毎日二組が選ばれ、闘技を行う。
闘技の勝利条件は、相手の魔物を倒すこと。
人間や魔物を殺すことはできない。腕輪が致死に値する攻撃を感知、攻撃を緩和させる魔法膜を発する。
勝利の判定はアルシエルが行う。
敗北したペアは腕輪から魔法が放たれ、石化する。
引き分けも石化。
一回の闘技中、ペアのうち人間は『ゲヘナ』と呼ばれる黒い業火を、三回まで放つことができる。
闘技が行われる時間はランダム。ペアは普段、牢屋の中で過ごすこととなる。
闘技の始まる合図は腕輪が光ること。赤ならば闘技場で戦う。黄色ならば観衆場で闘技の様子を見守る。
優勝者には想示録という願いを叶える本が贈呈される。また、元の世界へ帰すことも約束される。
† †
冷ややかに湿った空気が肌を撫でた。
すえた匂いが鼻に取り込まれる。
硬い、石のような感触が、体の節々を痛めさせ、それで彩斗は目が覚める。
「あっ、起きた~」
弾んだ声が響き、彩斗は何度か瞬きをした。
あのとき、助けてくれた少女だった。くりくりとした瞳が彩斗の顔を覗いている。肩より少し長めの髪は清い水色で、もみあげの部分だけが長く、半透明になっている。
衣装は、どこかの民族衣装だろうか。涼しげな色のケープが目立つその服装は、昔テレビで見た素朴な集落で暮らす人々を思い起こす。
彼女は、少し安心した表情をしていた。白い手をぽんっと優しく叩いて、頬を緩ませる。
「良かったよ~。あの後、倒れちゃったから、どうしようかと思ってたんだ。大丈夫? どこか痛いところとかない? 何かあったら言ってほしい~」
「い、いや。どこも怪我してない。大丈夫」
「そう。それなら良かった~」
ひまわりのような笑顔だった。
そのあまりに自然な笑みに、少しだけ彩斗はほっとした。靄がかかったように記憶は曖昧だったが、徐々に、これまでのことが思い起こされていく。
学校帰りの魔法陣。
殺人鬼の刃。
黒い炎の大蛇。
カーバンクルの石化。
「――そ、そうだ! ボクは気絶して……ここは、どこ?」
「牢屋だよ~」
少しのんびりとした口調で、少女は言った。
「牢……屋?」
「うん。あのね、あの後、アルシエルがゲームの開催を宣言した後、羽が生えた石像――ガーゴイルが、わたしたちを先導していったの。そしたらこの牢屋に連れて来られて、中に押し込まれちゃった」
眉根を寄せて、少女は困った顔をした。
「そんな……じゃあ全部、夢じゃなかったんだ……」
「そうみたい~」
せめて悪い夢であってほしい――心の中でそう思っていた彩斗は、無残に砕かれた希望に意気消沈する。
学校の帰りの魔法陣も、殺人鬼である夜津木も、数多の人間や魔物たちも、アルシエル・ゲームも全てが現実。
青い顔のまま、冷や汗が流れて止まらない。
「こ、ここからは出られないの?」
「無理みたい~、壁も格子も、すごく頑丈なの。さっき叩いてみたけど、こっちが痛くなっちゃった」
彩斗と少女がいるのは薄暗い空間だった。灰色に包まれたその場所は無機質であって温かい色はなく、むしろ寒々しい印象を抱かせる。
光源は、頼りなげに灯る小さな篝火。床は灰色の石で、天井、壁、それらを含め、全てが無骨な灰色の石でできた部屋だった。出入口には黒い格子が立ち並んでいたが、どう見ても抜け出せるような雰囲気ではなかった。
「そ、そんな……じゃあボクは、ゲームに……アルシエル・ゲームに、巻き込まれたままなの?」
少女は少しだけ顔を伏せた。
「……うん。そうみたい。わたしとあなた、二人で、何とか勝ち抜いていかないと」
「む、無理だ、そんなの……」
自然と、自分を抱きしめる形になって彩斗は震える。
魔法だった。アルシエルが操ったのは紛れもない魔法だった。火炎を生み出し、手首に腕輪を出現させ、瞬間移動すら可能としていた。
他の件などの武器を持つ人々や魔物もそう。凄まじい速さで跳び、激しい攻撃を放ち、戦いのための技を繰り出していた。
誰もが彩斗より、遥かに強い俊英。
「あんなのと、どうやって……」
高校になるまで平凡に生きてきて、取り柄と言えるものなんて何もない。成績は中の下、スポーツだってしていないし、身を守る手段だって何一つない。
ふとした瞬間に、忘れられるくらい影の薄い学生なのだ。大剣や地獄の業火や巨人たちがひしめく中、勝ち抜いていく自信などこれっぽっちもなかった。
それに――。
「うん?」
水色の髪の少女の方を見て、彩斗は唇を噛みしめる。
目の前のパートナーである少女は、どう見てもか弱い女の子にしか見えなかった。白い肌も、細い手足も、争い事には向かないような印象だ。とてもではないが、あの戦うために生まれてきたような人々に混じって、勝ち抜くなど不可能だ。
しかし――。
「大丈夫だよ~」
少女は、にこりと頬を緩ませる。
「アルシエル・ゲームはね、一人だけの戦いじゃないよ。二人で協力して戦うゲームだよ~。あなたが怖くなっても、わたしが頑張るから。そんな、落ち込まないで」
少女は優しく語りかけてくる。それでも彩斗の脳裏には、どうしても諦めの念が湧き出てしまうのだ。
夜津木の凶器の笑みが浮かぶ。
巨人の豪腕と、荒々しい金属棒。
アルシエルに撃退はされた大剣の男や杖の女性たちだって、尋常ではない動きだった。それと比べて、自分はなんて非力なのだろう――彩斗は自分を抱き締める。
声すらも出せなくなってしまった彩斗に対して、少女は、
「――それじゃあ、コインで決めようよ~」
「こ、コイン……?」
「うん。今から、わたしが一枚のコインを投げるの~。それで、表が出たら、わたしとあなたで、ゲームを『戦う』、裏が出たら、『戦わない』ことにする」
彩斗の目の前で、少女はスカートから一枚の硬貨を取り出した。彩斗は困惑のまま、
「た、戦わない? じゃあ、何もしないで、ただ負けるの?」
「うん。そうだよ~」
彩斗の問いかけに、何の迷いもなく少女は言ってくる。
「で、でも……それじゃ、キミは」
「いくよ~」
「ま、待って。それはいくらなんでも、」
ぽーん、と、緩やかな動作でコインが放り投げられる。彩斗が止める間もなかった。ゆるやかに回転しながらコインは宙を登っていった。やがて、天井近くにまで投げられたそれは、篝火のわずかな光を受け、落ちてくる。
彩斗は、見ていることしかできない。
石のように強張った体で、ただ自分の運命を眺めるしかない。
けれど、少女は――。
次の瞬間、床に落ちかけたコインを、手でバチンッと払っていた。
「え……?」
音を立ててコインが転がっていく。格子を越え、くるくると回転しながら進む硬貨は、もう手を伸ばしても届かないところまで行ってしまった。何がなんだかわからない様子の彩斗に――少女は、にこっと笑ってみせる。
「理不尽なことが起きても、自分たちの手で振り払っていこうよ。――きっと大丈夫だよ~。強い人や、賢い人ばかりがいるわけじゃないよ。わたしだって半人前だけど、色んなことができると思うから。一緒に、がんばろう」
「君は……」
――少し、思い違いをしていたのかもしれない。
そんな風に、彩斗は思う。
彩斗は自分に自信がなく、飛び抜けた成果が出せるとはまだ思っていない。しかし目の前の彼女は、か弱そうなだけの少女ではないのかもしれない。
不安はある。どうしようもないほどに胸に巣食っている。
けれど。
このとき、確かに彩斗は少女の言葉に、ほんの少しだが希望を抱かされたのだ。
コインは暗闇の中を転がっていく。是か非かしかなかった選択肢が、遠くどこかへ消え去っていく。
それは、暗示だ。可能性なんて転がっている。嫌なものは弾ける。そして、それは自分たちで成し遂げられる。
「あ、そういえば、名前をまだ聞いてなかったよ~」
明るい声で、少女は朗らかに言う。
「ぼ、ボクは……」
掴めるだろうか。絶望ではない未来を。届くだろうか、明るい世界に向かって。
「ボクは……及川彩斗って言うんだ。その、よろしく」
「わたしの名前は、スララだよ~。これからよろしくね、彩斗~」
半透明の房が、はしゃぐように振るわれる。
弾ける笑顔の少女――スララを前に、彩斗はせめて、この娘だけは石化させたくないと、そう思っていた。