第2話 巻き込まれた彩斗
「う、ここは……?」
眼が覚めて最初に彩斗の口から飛び出たのは、呆けた声だった。
硬い感触があった。大理石でできた床がある。すぐ近くに屹立しているのはいくつもの石像だ。見上げれば、豪奢なシャンデリアが視界一杯に飛び込んでくる。
階段状で構成された足場。同じ光景が円状になって、ずっと続いていることがわかる。
さらに彩斗のいる場所から下方、仕切りの低い壁から向こうは、無数の岩が林立する広場が存在していた。
階段状の足場といい、それにぐるっと覆われている広場といい、まるで何かの闘技場みたいだ――。
彩斗はそう思った。けれどそんなことは問題外になるほどの光景が、目の前に広がっていた。
甲冑を着込んだ騎士がいた。
翼を生やした人間もいる。
お伽話でしか見ないような帽子や、マントを着た女性が、目の前を通り過ぎていった。
唸りながら辺りを闊歩しているのは、俊敏そうな狼だ。
「なに、ここ?」
おかしな光景に、彩斗は目を何度もぱちぱちと瞬かせた。
どこを見ても、変な格好をした人々だ。いや、人ですらない者まで多くいた。先ほど見た狼の他は、獅子の頭を持つ怪物や、金属の棍棒を抱える巨人までもがいる。
――なんてファンタジーな光景……。
思わず彩斗がそう思った直後。
ドンッ。
「うわ……っ」
「おっと、痛てて。なんだ、そんなとこに突っ立ってんじゃねーよ。危ねーじゃねえか」
振り返ると、彩斗よりやや年上の青年がいた。
「え?」
思わず、唖然とした声が出てしまう。
「なにぼーとしてるんだ。影が薄すぎだろ。全然気付かなかったじゃねーか」
学校ではいつも言われてることだったが、うまく彩斗は返事ができなかった。
ぼけーと、目の前の青年を見つめることしかできない。
ぶつかってきたのは、色素が薄い青年だった。ダメージジーンズに、腰元へ鎖をじゃらじゃらとつけている。髪はドレッドヘア、体の線は細く、華奢な印象を最初は抱いた。
けれど、何かスポーツをやっているとすぐに彩斗は思う。半袖の安っぽいシャツから覗く腕は、引き締まった筋肉で覆われていた。
「――おいお前、ちゃんと聞いてるか?」
ずっと立ち尽くしていると、青年は問いかけてきた。
「俺の声、届いてるか? おーい。返事をしねーと、ぶった切るぞ?」
「え、え、あ……うん。――え、ぶった、切る?」
そこで、初めて彩斗は、青年が右手にコンバットナイフを握り、ぎらつく刃を晒していることに気づいた。
「な、な、ナイフ……!?」
「ん? これのことか? カッコいいだろう。人を殺すためにわざわざ取り寄せた、お気に入りだ。痺れるか? 痺れるだろ? ヒャッハーっ!」
「ひ、人を……殺す……?」
衝撃的な単語が飛び出たことに、彩斗は後ずさる。だが青年は鋼の刃を誇らしそうにかざしながら、満面の笑みで語るだけだ。
「俺の名は夜津木啓太。職業は殺人鬼。毎晩コンバットナイフで人を殺すのが日課だ。よろしくー」
がくがくと、震える彩斗の前で夜津木は語る。彼がお手玉のように何度もナイフを投げると、そのたびに刃渡り二十センチにも及ぶ凶器が、天井の明かりを受け、冴え冴えと光っていく。
殺人鬼。
非日常のはずの存在が、彩斗の前で笑っている。
「あれ? お前こんなのでビビってんの? それはダメだぜー。この程度で震えてるようじゃ。周りを見てみ。俺が可愛く見えるくらい、やばそうなのがたくさんいるんだから」
言われて、彩斗は周辺を見回した。
そして息を呑む。
甲冑を着込んだ騎士の腰には長剣が、帽子やマントを着た女性の手には杖が、岩のように大きな男性の手には大剣が握られている。
そして獅子の頭を持つ怪物や、狼の姿をした怪物には、明らかな殺傷能力のある爪や牙がある。
「気付いたか? なんか知らないが、ここには色んな人間が集められている。いや、人だけじゃねーな。化け物もわんさかといるぜ。なんて言うの? そう、モンスター。色んな『魔物』と『人間』が、うじゃうじゃいるんだな」
現実感のない言葉に彩斗は背筋が凍り付く。歯が小さく鳴り、息も荒くなった。その様子に、夜津木はおやっと言う表情をして、
「おいおい、どうした。すごく辛そうじゃねーか。……楽にしてやろうか?」
「う、うん。ごめん。少し気分が悪くて――」
その瞬間――ゾンッ、と彩斗の前髪が何本か切り取られて彼は呆気にとられる。
直前に彩斗の腰が偶然に砕け、無意識のうちに床にへたりこまなければ、大怪我をしていた斬撃だった。
「え、え……?」
「なんだよー、楽にしてやるって言ってんのによー、自分からこけてんじゃねーよ」
残念そうに語り、夜津木はにやりと笑みを浮かべてみせる。
「なんか知らないけど、やばそうな奴がうじゃうじゃいる。『狩りたい』。みんな『狩りたい』。――でもさ、けっこう強そうな連中もいるんだよなー。だからウォーミングアップに、お前ちょうど良さそうじゃね?」
ヒュッ、ヒュッ、と風切り音を響かせて、夜津木はナイフを何度か上に放り投げる。
「利害の一致ってやつだよ。お前は楽になりたくて、俺は準備運動がしたい。大丈夫だ。俺はベテランだからさ。どこをどうやって斬れば、痛みもなくやれるか、知ってるんだよ。安心しな」
ぎらぎらと、ナイフの刃と夜津木の眼が、凶悪に染まっている。
その瞳は狂気の塊だ。人の命を何とも思わず、摘み取る欲望が爛々と映っている。
「た、助けて! 誰か!」
「無理無理ー、俺からは逃げられない」
反射的に彩斗は駆け出そうとた。けれど速度が出ない。恐れや混乱で縛られた手足は普段よりずっと緩慢で、まるで亀のような動きしかできなかった。
「ヒャッハーっ! 血しぶきを見るの、俺ぁ大好きっ!」
夜津木が、高揚して嬉々と叫ぶ。
鋼の刃が虚空を躍る。振り上げられた凶器の銀線が、真っ直ぐ彩斗へ下ろされようとして――。
「危ないっ!」
寸前で、彩斗は駆け寄ってきた影に突き飛ばされた。
「うわっ」
もんどり打って彩斗は転がる。夜津木の刃はぎりぎりのところで狙いを外れ、硬い床にぶち当たる。ガキン、と弾ける金属音。
「んん、なんだぁ?」
銀の刃を振り上げて、夜津木が訝しげに声を出す。ほぼ同時、彩斗も倒れたままの格好で、駆け込んできた影を見上げた。
まるで、妖精のような少女だった。
涼やかな色の衣装に身を包み、白く細い手足が可憐さを演出している。目鼻立ちは可愛らしく、髪の色は水色だ。ほとんどの髪は肩より少し伸びた程度の長さだが、もみあげの部分だけが長い。そしてその長い部分に、彩斗は目を引き寄せられた。
半透明に、透き通っていたのだ。
風もないのに、ゆらゆらと揺れる半透明の房。どこか幻想的かつ、神秘的な美しさの房の様子に、彩斗は思わず息を呑んだ。殺人欲をみなぎらせた夜津木でさえ、一瞬呆けて動きを止めている。
硬直する二人を前に、少女の薄桃色の唇が、再度開かれる。
「危ないよ~。そんな刃物、引っ込めて。何にも悪いことをしてない人を、襲っちゃダメ~」
少しばかり間延びした語尾に、彩斗はわずかだけ安堵を抱いた。
声質もあるだろう、人を安心させる響きがそこには含まれていた。夜津木に襲われた恐怖が、ほんのわずかだけ、霧を払うように薄れかけて――。
「ああ、いいっ! 斬り刻みたい女だぁ!」
殺人鬼たる夜津木は、爛々と目を輝かせて叫びだした。
「いいね、その肌、その瞳、その体! 血色に染め上げたい。肉を割く感触を味わいたい。可愛い顔が苦悶に歪む瞬間――それが、楽しみすぎる! なんていい日なんだ、今日は! 殺戮バンザイ!」
獣のように駆け出す夜津木に、彩斗の目は追いつかない。一瞬だった。彩斗が夜津木の言葉に再び恐怖を募らせた直後、殺人鬼は鋼の刃を振りかぶり、少女へと突進していた。
だが次の瞬間、驚くべきことが少女の方で起こった。
少女の髪、半透明の長い房が、いきなり鞭のように動くと、夜津木の刃に対し、盾のように阻んだのだ。
銀光を閃かせる刃と、半透明の房が真正面からぶつかる。
「えあ!?」
と夜津木が叫ぶのと、
「うそ……」
彩斗が呆けた声を出すのは、ほぼ同時だった。
少女の房は、完全に刃を受け止めている。切れ味鋭そうな凶器に断ち切られることもなく、しっかりと刃を受け止めていた。
「何だ何だぁ? これいったい、どうなってんの?」
異常を感じ取り、夜津木がとっさに下がる。
「……あ、わかった。もしかしてお前、普通の女の子じゃねえな? 魔物だな? そうだろう、そうだろう。だってさ、こんだけ周りに変な奴らがいっぱいいるんだぜ。俺みたいなまともな人間の方が、少ないよな!」
頬を紅潮させ刃物を振り上げる夜津木が、まともな人間とは思えなかったが、彩斗はその言葉にハッとする。
魔物。
つい先ほど、夜津木が言っていたではないか。ここは色んな人間と、多くの化け物で溢れている。
一連の騒動に気が付いて集まってきたのだろう、いつの間にか彩斗たちの周囲に集まっていていた。その影のうちおよそ半数が、人ではない姿をしていた。
狼や獅子の顔を持つ怪物。身の丈五メートルを超える巨人。獣人。
ファンタジー世界でしかお目にかかれない魔物たちが、数多くいる。
「な、何なんだ、ここ……?」
彩斗は困惑する。
この殺人鬼も、少女も、周りにいる人々や魔物たちも、まるでわけがわからなかった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。そもそもここはどこで、何のためにこんな大勢集まっているのか、さっぱりわからない。
夜津木が、じりじりと彩斗の方へ近づく。
半透明の房を持つ少女が、彩斗を守るように身構える。
彩斗の混乱が、限界まで膨れ上がったとき――。