出くわし、出くわし。
歩いてくる人をよけようとすると相手も同じ方向に体をよける。なので慌てて反対方向によけようとするとこれまた同じように相手も反対方向に体をよける。それでお互いが気まずい思いをして通せんぼするカタチになってしまうのを「出くわし、出くわし」と呼んでいた時代があった。
これはそんなのどかな時代のお話である。
高校二年生の木田裕也は教師や学校に少し反発心がある、どこにでもいる青年だ。彼はその奔放な気質から教師たちに目をつけられていた。
彼が得意なのは『遊ぶ』ことで、不得意なのは学校勉強だった。彼は今日もテストの赤点を担任の小川に注意されていた。小川は生活指導も請け負う男で手厳しい男でもあった。彼は言う。
「理系も文系もダメ。出来るのは運動がそこそこ。木田。そんなんでどうする?学生時代に生涯賃金も決まる時代に。お前を欲しがる企業なんてどこにもないぞ」
この手の意見を軽やかに交わすのが木田は得意だった。だから彼は極力優等生ぶって答えた。
「農村と漁村の過疎化が進む時代に、需要を求めてそちら方面に出向きましょうかと思いまして。ええ」
木田は作り笑いを浮かべて小川の話の腰を折るつもりでいた。それでも彼は辛辣な言葉を投げ掛けてくる。
「学生時代に生徒達はふるいに掛けられる。お前は差し詰めザルから真っ先に落とされた砂利みたいなもんだな」
木田は笑みを崩さず答える。
「砂利には砂利の生き方がありますから」
小川はなおも続ける。
「砂利の生き方はあっても、誰にも見向きもされずに踏みつけられるだけの人生だ。砂利なら砂利らしく生きるんだな。追試をしっかりと受けた上でな!」
そう最後に痛烈に皮肉って彼の話は終わった。
職員室から出てきた木田は気持ちよさそうに背伸びをすると自由を満喫した。吸い込む空気が彼の胸に染みわたってく。嬉しそうな顔をして彼は帰宅を急いだ。
彼が廊下を歩いていると、前方から彼のクラスメート手島裕子が歩いてくる。彼女はクラス一の優等生だ。
彼女は資料を胸一杯に抱えている。どうやら職員室に用があるらしい。木田は彼女に特に思い入れはないので、道を譲ろうとした。だがその時、例の「出くわし、出くわし」が二人に起こったのである。
彼が右に道を譲ろうとすると、彼女も同じ方向に道を譲ろうとし、彼が左に道を譲ろうとすると彼女も同じ方向に道を譲ろうとする。
結果なんと往復3回もの間二人は道を譲り合い、「出くわし、出くわし」を体験したのである。
彼女は天真爛漫に笑った。
「アハッ。『出くわし出くわしだ』」
彼は憎まれ口を叩く。
「『アハッ』じゃねぇよ。何度も同じ方向によけやがって。天然か?」
彼女は言い返す。
「私が天然なら木田君も天然だ。『出くわし出くわし』三回もやっちゃったんだからね」
「……」
彼は髪の毛をくしゃくしゃに掻きむしり、彼女との間の抜けた会話を終わらせようとした。
「とにかくどけよ。俺は小川の手厳しいご意見でただでさえ疲れてるんだから」
「うん。わかった。疲れてるんだね。お疲れ様。ゆっくり休んでね」
「……」
(調子が狂う……)
そう彼が思っていると、彼女が溌剌とした声で彼に話し掛けた。
「ねぇねぇ。木田君。この『出くわし出くわし』を体験する人って『人間の欲望』を瞬時に把握する能力があるんだって」
「誰が決めたんだよ。そんなもん」
彼は煩わし気に訊いた。彼女は答える。
「科学誌に載ってた。この手のタイプは数学に才能ある人が多いらしいよ。うん。だから……」
「だからなんだ?長々と話しやがって」
彼は苛立つ。だが彼女は動じることなく笑顔で言う。
「だからさ。木田君、頭悪くないかも。数学方面で才能を開花させるかも」
「……ほう」
彼は希望溢れる未来をそこに見た。彼女の話だけで少しその気になってしまったのだ。
「クラス一の優等生」の言葉。「科学誌に載っている」という二つの後ろ盾。これだけで彼は本気で数学を学んでみようと思ったのだ。
「人間、暗示にはかかり易い」「いい暗示にかかった時には出来るだけ早く行動した方がよい」。それが彼のモットーでもあった。
彼はそれ以来、数学書を片っ端から読み漁り、数学の問題集に取り組んだ。生まれて初めてテスト勉強を必死に解いていった。
それから一週間後、彼は追試の日を迎えることとなった。彼はとても自信に満ちていた。
「それじゃあ、追試を始める」
小川の言葉で追試が始まる。
世界史、現国、物理、化学とテストは終わり、木田はいよいよ数学のテストに臨む。
白紙の解答用紙に向かい合った彼は……解ける解ける。見る見るうちに問題を繙いていったのである。
そうしてこれまで感じたことのない達成感を得て彼の追試は終わった。
「やることはやった」
彼はそう呟いて席を後にした。
そして追試の結果が知らされる日がやってきた。だが結果は彼の期待を裏切るものだった。数学の得点は30点未満。
その日、職員室で今日も小川の辛辣な言葉が木田には浴びせられていた。
「劣等生なりに頑張ったらしいが、劣等生は劣等生の枠から逃れられないらしいな。ダメならダメらしく大人しく教師の言うことだけは聴くんだな!」
いつもなら聞き流せる彼の悪口。だが今回だけは木田は落ち込んでしまった。
(あれだけ勉強したのに……。あれだけ自信をつけたのに……)
彼は思う。それなのにまたも赤点とは。
少し落ち込んで木田は職員室から出てきた。廊下をあの日と同じように歩いていると、前方からまた裕子がやってきていた。
その時、職員室では木田の答案を見つめる小川の姿があった。彼は頭を抱えている。同僚の教師、五十嵐が尋ねる。
「どうしました? 小川先生?」
彼は答える。
「いや、おかしいんですよ。例の木田という生徒の数学の答案」
「それが?」
五十嵐は訊いた。彼は言う。
「一つ一つの解答は不正解なんですが、『トポロジー』いう高度な論法を使って解答しているんですよ」
「『トポロジー』」
馴染みがなさそうに五十嵐は呟いた。なおも小川は続ける。
「おまけにその手順も間違っていない。短期間でこの手法を身につけたのなら、相当な数学の才能の持ち主だ」
五十嵐は彼に促す
「ならそう仰って励ましてやればいいじゃないですか」
小川は腕を組んで考え込んだ。
「うーん。ただの偶然ということもありますしね。だが……」
そううなったあと、彼は言った。
「よし、私もそれほど悪党じゃない。今度こんな解答が出来たならば私の叔父に彼を紹介してみましょう。素晴らしい才能を見せるかもしれないから」
五十嵐はお茶をすすって言う。
「小川先生の叔父様は確か高名な数学者でしたねぇ」
小川は応える。
「ええ。ただ、私はその後光のお零れにも預かれませんでしたがね」
そう言って彼は学生時代を懐かしむように両頬を撫でた。外では鳥の鳴き声が聴こえる。うららかな春の午後だった。
そして廊下では木田と裕子がまたも同じことを繰り返していた。「出くわし出くわし」を再びやっていたのだ。
まるでデジャブだった。彼女はあどけなく笑う。
「アハッ。また『出くわし出くわし』だ」
「『アハッ』じゃねぇよ。全く。天然か?」
「じゃあ、木田君も天然だ」
困ったように頭を掻いて彼は裕子に言った。
「荷物、重そうだな。職員室まで持って行ってやろうか?」
「アハッ。ありがとう。木田君、優しいんだね」
「ちょっとは今度の件で恩に感じてたりするからなぁ」
「『今度の件』って?」
「んにゃ」
そう言うと木田は裕子の持っていた資料を受け取り、職員室へと向かっていく。
二人の未来にはどこか明るい兆しが仄かに射しているようだった。外は穏やかな陽気で、空は青く澄みきっていた。




