大雨降りの日
閄(ものかげからきゅうにとびだしてひとをおどろかせるときにはっするこえ)と読むそうです。
眠いので、あした推敲します。
「うわー、本降りになってきたねー。月見里くん、傘もってる?」
放課後。
一尺八寸はシャワーのように降り注ぐ雨をみて、声をあげた。
「いや、持ってない」
月見里はじつに淡白に、乾いた口調でいった。
彼らは生徒玄関で靴をはきかえているところだった。
ホームルーム後なので、往来がとても激しい。
「じゃあ傘、貸してあげよう?」
一尺八寸の申し出を、
「いや、いいよ。デブは風邪ひかないっていうし、走って帰れば……」
「帰るなんて選択はダメだよ! きのうは服選びを手伝ってもらったんだから、きょうは私が服選びを手伝うの!」
はあ……。
いつからそんなに親しくなったんだよ。
月見里はため息をこらえながら、
「わかった。なにも買うつもりはないけど、買い物を手伝ってもらってあげるよ」
と、降参した。
一尺八寸は調子にのって、
「でも、雨が強いよねー。傘がいっぽんしかないから、相合い傘でいい?」
「相合い傘だと、ふたりともずぶ濡れになるだろ!」
月見里は拒絶し、「濡れ衣を着ることには慣れてるから、おれは濡れても平気だよ」
と。
あしらうように、からかうようにいったのだった。
「一二先生。先生はミステリー小説がお好きだと聞いたのですが、それはほんとうですか?」
七五三担任は二社会科教諭に、嫉妬こそしているが、まだ一二英語教諭のことをあきめたわけではなかった。
「ええ、好きよ。とくに日本語訳されていない海外ミステリがね」
「そ……そうなんですね。な、なるほどー」
一二英語教諭と楽しく会話するために、七五三担任はシャーロックホームズのシリーズをなんとか読破し、映画版もDVDをレンタルして、全ストーリーを頭に叩き込んだ。
が。
その努力も、あっけなく瓦解してしまった。
いくら筋書きを知っていても、英語表記版を読んでいないのでは話にならないし、話ができない。
一二英語教諭が重視するのは、ストーリーよりも文章なのだから。
「ノーヴェル文学賞受賞作品を読んで、ほんとうにノーヴェル文学賞を受賞した作品を読んだと思いこんでいるひとたちがいるけれど、それは大きなまちがいよね」
「…………」
いきなり世間話が始まった。
七五三担任は支離滅裂なことをいい出す一二英語教諭に、
「なにをいっているんですか? 意味がわかりませんが……」
と、苦言を呈した。
「いい質問ね」
一二英語教諭は刹那的ではあったが、とてもうれしそうな表情をしてみせ、
「川端康成と大江健三郎はのぞくけど、たとえばマリオ・バルガス・リョサ先生の小説を読んだとしましょうか」
「はい。ちなみになんという題名の本ですか? 人形の家ですか?」
「それはヘンリック・イプセンの戯曲よ。修正するなら緑の家かしら」
「さすがは一二先生ですね。すばらしいです! 模範解答の通りですよ」
七五三担任は大仰におどろいてみせた。
しかし、
「文芸同好会の顧問をつとめさせていただいているわけだし、それくらいの知識はあって当然よ」
一二英語教諭は下にみられたと感じたらしい。卑下というよりは、反論めいた口調でいった。「で、そのマリオ・バルガス・リョサ先生の話にもどしますけれど――」
「はい」
「いっくらリョサ先生の文章を日本語訳したものを読んでも、意味がないとは思わないかしら?」
「意味がない……ですか」
反芻しながら考えている七五三国語教諭に、
「だって、ノーヴェル文学賞を獲得したのは、あくまでもリョサ先生よね――。じゃあ、リョサ先生以外のひとによって日本語に翻訳された、彼の小説にはいったいどれほどの文章価値があると思えるかしら? 句読点の数、文章の長さ、言葉の使い方、気づかいと息づかい、文体のもつテンポ……。これらは全部、翻訳者の技量に合わせてつくられているはずだし、つまるところプラシーボ効果しか得られないのよ」
「もうちょっと、わかりやすい説明をしていただかないと……」
「極論、私が川端康成の『雪国』を書くようなもので、つまりそんなことをすれば、せっかくの名作も商業的価値がほとんどなくなるんじゃないかっていうことよ。――それじゃあ私は部活動に顔を出してくるわ」
翻訳することによって――商品価値が下がる。
七五三担任はなんとなく納得して、雨音がさらに強まってくるのを聞いていた。
そろそろお話をまとめていこうと思います。




