一話
肉体は疲れない。本当の意味で“疲れた”という決断を下すのは精神だ。
肉体的な苦痛の蓄積が疲労のトリガーとなることはあるとしても、それだけで“疲れ”を生じさせることはあり得ない。
朝8時からわずかな休憩をはさみ働き続け夜10時まで残業して、へとへとになりながら帰路につくその時、「もう駄目だ」と弱音を吐くのは心だ。
月に6日しかない休日を返上し、息子の運動会で親子参加リレーを走るとき、足が引きつりそうになりながら「三十半ば、俺もそろそろ年かな……」と体力のなさを嘆くのは肉体ではない。
後藤弘文はまさにそう意味において“疲れて”いた。
机の上には借金返済を旨とする督促状が散乱し、その中にはガス・電気代の請求書も紛れている。
先々月には電気が、そして、先月はガスが止まった。最後のライフラインである水が止まるのもそう遠くはないだろう。
いくらお金を切り詰めても、借金は減らない。
それどころか、別れた妻に息子の養育費を送金するため、借金はかさむ一方だ。
俺のこんなみじめな生活を誰かが見たら、何故ライフラインを止めてまで養育費を捻出し続けるのか、と訝るに違いない。
養育費は俺と息子をつなぐ最後の砦なのだ。養育費を送金しなければ、たちどころに息子への面会権は剥奪されてしまう。
五年もの間、元妻の指定した金額で養育費を払い続けて、最近ではようやく息子の運動会にまで参加できるようになった。
今さら、送金をやめることなどできない。
息子は俺の生きがいなのだ。
それを奪われることは、死ぬことより辛い。
いや、お金を用意できなくなったとなれば、俺は自ら死を選ぶだろう。
しかし実際、後藤にとって差し迫った問題というのは借金の督促状でも息子への養育費でもなかった。
本日、深夜、いつも利用している銭湯から帰ってきた際、玄関のドアにアパートの大家を差出人とする手紙が挟まっていた。
そこには、達筆な文字でこう書かれていた。
「家賃は三カ月前から未納のまま。
加えて、近頃では深夜になるとあなたの部屋から轟音が鳴り響いてきます。
アパートの住民からも少なからず苦情の声が届いています。
申し訳ありませんが、こちらとしましては、あなたにはアパートを出て行ってもらおうと考えています。あなたの出来うる範囲で、しかし出来る限り早急にこの部屋から立ち退いて下さい。
立ち退かない場合は法的措置も辞しません」
高校を卒業してから今まで、それこそ古女房のように共に付き添い一緒に人生を歩んできたこの部屋。
ここから立ち退かなければならないという厳然とした事実は、後藤から残り少ない心の余裕をはぎ取り絶望させるには、十分すぎるほどの効力を持ちあわせていた。
事実、後藤は手紙を掴んだまま何時間も茫然と立ち尽くしている。
俺に“力”があったら……、後藤は思う。
妻を魅了して離さない美貌があったなら、俺は離婚などしなくて済んだに違いない。
俺に絶えることのない資金があったなら、生活にこと欠くことなどなかった。
……それに、息子の養育費だって。
先の見えない未来という壁に風穴を開けて、閉塞した今を変える“力”。
――もし僕がスーパーマンだったら。
後藤はまだ小さい時分、布団に入り眠りに着くまでのわずかな時間を使い、夢のような世界を想像し自らをあてはめた。
――学校なんて遅刻するわけない。だって、小学校まで得意の瞬間移動でひとっとび。
――運動神経は抜群。幼馴染のミナちゃんも、タカシのことなんてほっといて僕にメロメロになるに違いない。もちろん、ミナちゃんだけじゃない。学校中の女の子全員が僕に惚れる。
――透明人間になったり、透視能力を使えばエッチなことだってできる。僕の前じゃ、ヨウコ先生も素っ裸だ。
――今みたいに、いじめられることだってなくなる。アキラもジロウもミチコもタカシも許さない。絶対に許さない。僕の苦しみを十倍にしてお返ししてやる。
大人になった今、後藤はその子供じみた遊びについて忘れてしまっている。
昔のように、布団に入って気づいたら寝てしまっているということもなくなった。
いや、むしろ、寝なくたっていいとさえ最近では思っている。
寝るのが怖い。そして、明日が来るのが怖い。
後藤は銭湯の自動販売機で買っておいた缶コーヒーを、一口で煽るように飲み干した。
空腹の腹になみなみと液体だけ溜まっているのが分かる。
そういえば、今日は昼飯、抜いたんだっけ……。
口の中にこびりついたミルクが、今日はやけに甘く感じられた。
布団にもぐりこんでも、しばらく目が冴えた。このまま時間など止まってしまえばいいのに。後藤は思う。