婚約者と妹の不倫を黙って見逃した結果、とても面白いことになりました
王都に春の風が吹く頃、我が公爵邸の庭園では、見るに堪えない”愛の劇”が連日のように上演されていた。
「ああ、リーネ。君の瞳はなんて美しいんだ。ルーシェのような冷たい氷細工とは大違いだ」
「ヴィンセント様……そんな、お姉様が聞いてらしたらどうするのですか? 私、怖いですわ」
薔薇の茂みの陰で、私の婚約者であるヴィンセント侯爵令息と、私の異母妹リーネが熱烈な抱擁を交わしている。
リーネは「怖い」と言いながら、その顔には勝ち誇った笑みが浮かんでいた。
私はそれを、二階のテラスから紅茶を飲みながら眺めていた。
「……ふふ。今日も仲が良いことですわね」
侍女のベルが、複雑な表情で私に問いかける。
「お嬢様、よろしいのですか? あの二人、もう隠す気すらありませんよ。旦那様に報告すれば、すぐにでもヴィンセント様との婚約は破棄できますのに」
私はティーカップを置き、唇を指でなぞった。
「いいえ、ベル。今壊しては面白くないわ。果実は、十分に熟して腐り落ちる瞬間が一番美しいのよ」
私、ルーシェ・フォン・グラナート公爵令嬢は、この日から”何も気づかない、おめでたい姉”を演じることに決めた。
◇〜序幕:甘い罠の仕掛け方、あるいは飼い殺しの美学〜◇
グラナート公爵邸の北側に位置する、私専用の私室。
そのテラスからは、手入れの行き届いた迷宮庭園が一望できる。
春の午後の陽光は暖かく、テーブルに置かれたアッサムティーからは、芳醇な香りが立ち上っていた。
「……あら。あちらのベンチ、先週新調したばかりですのに。もう『シミ』がついてしまったかしら」
私の視線の先では、白亜のベンチに腰掛けた婚約者ヴィンセントが、私の妹リーネの腰を引き寄せ、熱い口づけを交わしていた。
リーネの細い指がヴィンセントの金髪に絡み、彼女の瞳が、テラスに座る私を正確に捉える。
彼女は接吻の最中だというのに、私に向けて挑発的な、勝ち誇った笑みを浮かべてみせた。
「お嬢様……。双眼鏡をお下げください。毒でございますわ」
背後に控える侍女のベルが、苦々しく吐き捨てた。
私は手にしたオペラグラスを置き、優雅にカップを傾ける。
「いいえ、ベル。これは最高の喜劇よ。あんなに必死に『お姉様のものを奪っている私』に酔いしれているリーネを見てごらんなさい。頬が紅潮して、まるで恋に落ちた乙女のよう。……実際は、私が使い古して飽きた男の、そのまた『残り香』を必死に啜っているだけだというのに」
ヴィンセント・フォン侯爵令息。
彼は私の婚約者となってから三年、一度も私の”真の顔”を見たことがない。
彼が知っているのは、いつも伏し目がちで、彼の自慢話に「まあ、素敵ですわ」と相槌を打つだけの、操りやすい人形のようなルーシェだ。
「ヴィンセント様、これをお持ちになって」
翌日、私はわざとらしく彼を自室に呼び出し、一束の鍵と重厚な革表紙の帳簿を差し出した。
「これは……グラナート家が極秘に運営している、港湾ギルドの裏帳簿か?」
「ええ。父が私に任せると言ったのですが、私のような女の細腕では、数字の荒波に酔ってしまいそうで……。ヴィンセント様、未来の夫となるあなたに、この利権を管理していただきたいのです」
ヴィンセントの喉が、ごくりと鳴った。
この帳簿には、港を通る香料や絹の取引から生じる、莫大な”浮き金”が記されている。
もちろん、それは私が仕組んだ”架空の利益”だ。
「ルーシェ……! 君はなんて理解のある女性なんだ。ああ、君を妻に迎える私は世界一の幸せ者だよ」
彼は私の手を握り、愛を囁いた。
その舌の根も乾かぬうちに、彼はその足でリーネの元へ向かい、私から”奪った”権力の鍵を見せびらかすだろう。
それが私の狙いだった。
一方、リーネに対しては、彼女の”収集癖”を徹底的に甘やかした。
ある日のティータイム、私はわざと宝石箱をテーブルに広げて彼女を待った。
「あら、リーネ。ちょうど良かったわ。このサファイアの首飾り、今の私には少し『重すぎる』気がするの。……ねえ、あなたに差し上げようかしら?」
リーネの瞳に、剥き出しの強欲が宿る。
「えっ!? でも、これ……お亡くなりになったお母様の形見では……」
「いいのよ。私は地味な服を好みますし、あなたが身につけた方が、お母様も喜ぶわ」
リーネは「ありがとうございます、お姉様!」と殊勝な顔で受け取ったが、その瞳には『また勝った』という卑俗な歓喜が溢れていた。
彼女は知らない。
そのサファイアは、かつて大陸を滅ぼした亡国の王妃が処刑されるまで身につけていた「不吉の象徴」であり、身につける者の判断力を少しずつ奪い、虚栄心を肥大させる呪いじみた曰く付きの品であることを。
「ベル。あの子に渡した宝石のリストを、すべて『紛失届』の予備リストに移しておいて。……ただし、彼女がそれを質屋に持っていくまでは、泳がせておくのよ」
「畏まりました。……本当にお嬢様は、性格が悪くていらっしゃる」
ベルの言葉に、私は最高の賛辞を受け取ったかのように微笑んだ。
私は、二人が私の背後で手を組み、私を『公爵家から追い出す計画』を立てていることも知っている。
ヴィンセントが横領した金でリーネと駆け落ちする準備をしていることも、リーネが私の父に「お姉様は実は乱行に耽っている」という偽の噂を流そうとしていることも──。
すべては、私の掌の上だ。
「ヴィンセント様は、自分が泥棒だという自覚もないまま、私の金でリーネに愛を買い。リーネは、自分が道化師だとも気づかずに、私の古着で着飾っている」
私はテラスから、夕闇に沈む庭園を見下ろした。
二人の影が重なり、睦み合う声が微かに聞こえてくる。
「ああ、面白い。本当に面白いわ。……ねえ、ベル。破滅という名の花火は、夜が深ければ深いほど、美しく咲くと思わない?」
私の指先は、すでに次なる一手──ヴィンセントが投資にのめり込み、取り返しのつかない借用書にサインする瞬間を、じっと待ち構えていた。
◇〜借金の迷宮、あるいは紙の城の崩壊〜◇
「ルーシェ、君は本当に無欲だな。この港湾ギルドの利権……これほどの金を、女が管理するのは確かに酷だ。安心したまえ、これからは僕が君の代わりに『正しく』運用してあげよう」
ヴィンセントは、私が手渡した裏帳簿を抱きしめ、鼻の穴を膨らませて笑った。
その瞳には、私への愛情など欠片もなく、ただ数字の羅列がもたらす”黄金の輝き”だけが映っていた。
私は、彼の肩にそっと手を置き、頼りなげな婚約者を演じて囁いた。
「まあ、ヴィンセント様……なんて頼もしい。父には内緒ですわよ? 私、あなたを誰よりも信じておりますもの」
「ああ、もちろんだ。これは僕たち二人の、輝かしい未来のための『軍資金』だからね」
彼はその足でリーネの元へ向かい、私から奪った鍵を見せびらかして、高級なシャンパンを開けたことだろう。
だが、彼が手にしたのは黄金への鍵ではなく、地獄の門を開ける鍵だった。
ヴィンセントが管理し始めた帳簿には、巧妙な仕掛けが施されていた。
一見すると、莫大な利益が出ているように見える。
だが、その利益を受け取るためには、一定の”保証金”を積み立てなければならないというルールが、小さな注釈で記されているのだ。
「……なんだ、この程度の金額。すぐに回収できる利益に比べれば、端金だ」
彼はリーネに贈る宝石の代金や、自分の賭博の借金を清算するため、私から預かった公爵家の運用資金に手をつけた。
いわゆる”横領”である。
だが、彼が資金を投入すればするほど、帳簿上の未回収利益だけが膨れ上がり、手元の現金は枯渇していった。
そんな折、私は彼に”救いの手”を差し伸べた。
「ヴィンセント様、お顔色が優れませんわ。……もしや、資金繰りでお困り? ちょうど、私の知人が経営する『カスパール商会』が、無担保で融資を行っているそうですわよ。公爵家の婚約者であるあなたなら、審査も通るはずです」
「カスパール商会……? ああ、聞いたことがある。優良な貸付業者だな。……助かるよ、ルーシェ。君は本当に私の女神だ」
ヴィンセントは、その商会の実質的なオーナーが私であることも知らず、二つ返事で契約書にサインした。
一ヶ月後。
カスパール商会からの督促状が、ヴィンセントの元に届き始める。
利息は雪だるま式に膨れ上がり、彼はついに、自分の手に負えない金額にまで追い詰められた。
「ルーシェ……その、貸し主が急に厳しいことを言い出してね。追加の融資を受けるには、もっと確実な『担保』が必要だと言われたんだ」
冷や汗を流しながら、私の私室にやってきたヴィンセント。
私は、わざとらしく困った顔をして見せた。
「まあ、困りましたわね。……でも、ヴィンセント様の実家である侯爵家の『北部の森』や『鉱山』を一時的に担保に入れれば、貸し主も納得するのではないでしょうか? あなたの有能さをもってすれば、来月には完済できるのでしょう?」
「そ、それは……親父にバレたら殺される……。だが、今返さないと、公爵家の金を横領したことが明るみに出る……」
「大丈夫ですわ、ヴィンセント様。私がついておりますもの」
私は彼の震える手を取り、そっと耳元で囁いた。
「それとも……私との婚約を白紙にして、横領の罪を被って牢獄へ行かれますか?」
その言葉は、慈悲深い提案のふりをした、逃げ場を塞ぐ『死刑宣告』だった。
恐怖に支配されたヴィンセントは、ついに侯爵家の印章を盗み出し、実家の重要資産をすべて担保に差し出す書類にサインした。
ヴィンセントがサインした瞬間、私は背後のベルに目配せをした。
これで、彼の家である侯爵家の主要な資産は、すべて私の傘下にある商会の手に渡ることが確定した。
「……ふふ。ヴィンセント様、本当にありがとうございます。これであなたの『誠意』は十分に伝わりましたわ」
「ああ……。これで、これでなんとかなるんだな、ルーシェ?」
這いつくばるようにして私を見上げるヴィンセント。
彼の目には、もうかつての傲慢な光はない。
あるのは、破滅を先送りしただけの、浅ましい安堵だけだ。
一方、リーネはそんな彼の窮状など露知らず、「もっと高いドレスが欲しい」「あの別荘を買い取って」とヴィンセントに強請り続けている。
ヴィンセントは彼女の機嫌を取るために、さらなる借金を重ねる。
「ベル。侯爵家の借用書の束に、さらに『不履行時の即時差押え』の特約を付け加えておいて。……ああ、彼がリーネに贈ったあのネックレスの代金も、しっかり利息を乗せて請求するのよ?」
「畏まりました、お嬢様。……ヴィンセント様、来月の今頃には、お屋敷のカーテン一枚すら残っていないかもしれませんね」
私は、窓の外で何も知らずに笑い合う二人を見下ろした。
ヴィンセントが必死に守ろうとしている”紙の城”は、私が一吹きすれば崩れ去るほどに、すでにボロボロに朽ち果てていた。
◇〜社交界の道化師、あるいは剥がれ落ちる金箔〜◇
「見てお姉様! ヴィンセント様が、今度の夜会のためにこの『真紅の雫』を贈ってくださったの。お姉様には、こんな情熱的な輝き、気圧されてしまって似合わないわね」
リーネは鏡の前で、胸元に光る巨大なルビーを指でなぞり、うっとりと目を細めた。
ヴィンセントが、私から借りた──という名の、私が貸し付けた──金で買い与えた代物だ。
私は、彼女の背後からその首飾りを覗き込み、心からの称賛を口にする。
「まあ、リーネ。なんて鮮やか。……ええ、確かに私には眩しすぎるわ。それは、かつて『伝説の踊り子』が、時の王を狂わせ、国を滅ぼした際に身につけていたものと同じ意匠ですもの」
「国を滅ぼすほどの美しさ……。ふふ、私にぴったりね!」
リーネは満足げに笑った。
彼女は知らない。
そのルビーが、実は”身につける者の理性を失わせ、肌に微細な炎症を引き起こす不純物”を含んだ粗悪な魔石の再加工品であることを。
そして、その『伝説の踊り子』が、最後には民衆に石を投げられて処刑された『忌むべき娼婦』の象徴であることを。
夜会の幕が開いた。
リーネは、私が「あまりに高貴すぎて着こなせなかった」と譲り渡した、極彩色のドレスを纏って入場した。
そのドレスは、かつての流行を極端に誇張したデザインで、今の社交界のトレンドである”控えめな気品”とは対極にある。
「あら……あの方、グラナート公爵家の方よね?」
「まあ、なんてこと。あの色使い、まるで移動サーカスの看板娘だわ」
「隣にいるヴィンセント侯爵令息も見て。婚約者の妹をあんなに露骨に連れ歩くなんて、節操がないにも程があるわね」
扇の陰で囁かれる冷笑。
だが、私の”演出”は完璧だった。
私はわざと、控えめで清楚な藍色のドレスを纏い、隅の椅子で寂しげに、しかし凛とした態度で座っていた。
「ルーシェ様……お可哀想に。あんな破廉恥な妹に、婚約者を奪われるなんて」
「いいえ、皆様。リーネが幸せなら、私は……」
私は言葉を濁し、瞳を潤ませる。
この”悲劇のヒロイン”の演技が、周囲の貴族たちの正義感をこれ以上ないほどに煽り立てた。
二時間が過ぎた頃、リーネの様子に異変が起きた。
真紅の雫に含まれる魔石の毒が、彼女の興奮状態に呼応して活性化したのだ。
「……なんだか、首元が熱い。ヴィンセント様、お酒を、もっと冷たいお酒を……」
「リーネ? 顔が赤いぞ。……おい、なんだその首筋は!」
ヴィンセントが驚愕の声を上げる。
リーネの白い首筋には、醜い赤い湿疹が浮き上がり、ドレスの強烈な染料が汗に溶け出し、彼女の肌をどす黒く汚し始めていた。
さらに、追い打ちをかけるように私が仕込んだ”劇”が始まる。
私が合図を送ると、社交界で最も口の悪い伯爵夫人が、わざとらしく彼女に近づいた。
「まあ! リーネ様。そのドレス、どこかで見たことがあると思いましたわ。二十年前、不貞の罪で修道院に送られた伯爵夫人の勝負服と生き写しですこと! ……あら、そのお顔の湿疹、まさか『不潔な病』ではございませんわよね?」
「な……なんですって!? 失礼な! これはヴィンセント様が……!」
逆上したリーネは、夫人の顔にワインをぶちまけようとした。
だが、魔石の毒で平衡感覚を失っていた彼女は、自ら足を縺れさせ、ホールの中心で無様に転倒した。
バサリ、という音と共に、流行遅れの巨大なパニエがひっくり返り、リーネはカエルのような格好で床に這いつくばった。
頭から被ったワインが、毒々しいドレスの染料と混ざり合い、彼女はまるで”泥の中の派手な芋虫”のようだった。
「ひっ……ひぐっ、ヴィンセント様、助けて……!」
リーネは泣き叫んだが、ヴィンセントは彼女に手を差し伸べなかった。
彼は、周囲の軽蔑の視線に耐えきれず、自らの保身のために彼女を見捨てたのだ。
「……君、少し飲みすぎじゃないか。恥ずかしいから、あっちへ行っていなさい」
ヴィンセントの冷たい言葉に、リーネの瞳が絶望に染まる。
私はその光景を、テラスの陰からじっと見つめていた。
「ねえ、ベル。あのルビー、赤というよりは……そう、熟しすぎて潰れたザクロの色に見えないかしら?」
「お嬢様、実に不謹慎でございます。……ですが、あのドレスの染料は、一度つくとなかなか落ちません。彼女の白い肌には、しばらく『裏切りの刻印』が残ることでしょう」
私は手にした扇を閉じ、唇を歪めた。
リーネが「奪った」と思っていたものは、ただのゴミと毒。
彼女が捨てたものは、公爵令嬢としての誇りと、二度と戻らない社交界での居場所──。
「さあ、次は……彼らの『借金の清算』といきましょうか」
私は、這いつくばる妹の背中を、誰よりも優雅な微笑みで見送った。
◇〜崩壊のワルツ、あるいは断罪の狂詩曲〜◇
グラナート公爵邸の大広間は、私の十九歳の誕生日を祝うために集まった貴族たちで埋め尽くされていた。
シャンデリアの光が、磨き抜かれた床に反射し、まるで星の海のように輝いている。
だが、主役であるはずの私の隣に、婚約者の姿はない。
ヴィンセントは、首元まで赤黒い湿疹を隠しきれずに苛立っているリーネを伴い、ホールの中心で不遜な笑みを浮かべていた。
「ルーシェ。今日、この場で君に言わなければならないことがある」
ヴィンセントの声が、オーケストラの演奏を切り裂くように響いた。
会場の視線が一斉に集まる。
彼は、私が”悲しみに打ちひしがれる”ことを期待して、胸を張り、演説を始めた。
「僕は、君のような冷酷で感情のない女との未来を、これ以上共に歩むことはできない! 僕は真の愛を見つけた。君の妹、リーネこそが僕の魂の片割れだ。今日、ここに誓う。ルーシェ・フォン・グラナートとの婚約を破棄し、僕はリーネを妻に迎える!」
リーネは私の横を通り過ぎる際、耳元で小さく、蛇が這うような声で囁いた。
「お姉様、お疲れ様。……あなたのものは、全部私のもの。家も、男も、未来もね」
私は、扇をゆっくりと閉じた。
その仕草一つで、会場の空気が凍りついたことに、愚かな二人は気づかない。
「……そうですか。ヴィンセント様、その決断に後悔はございませんのね?」
「ああ! 後悔などあるものか! 君のような女、こちらから願い下げだ!」
ヴィンセントが吐き捨てた瞬間、ホールの奥から重厚な足音が響いた。
私の父、グラナート公爵が、数人の騎士と、黒い法衣を纏った代書人を連れて現れたのだ。
「よかろう、ヴィンセント・フォン侯爵令息。婚約の解消、しかと聞き届けた」
父の冷徹な声に、ヴィンセントは一瞬怯んだが、すぐに虚勢を張った。
「公爵閣下、ご理解いただけて光栄です。では、これからはリーネの夫として……」
「話はまだ終わっていない」
父が合図を送ると、代書人が分厚い書類の束を開き、読み上げ始めた。
「……ヴィンセント様。あなたが『カスパール商会』から受けた多額の融資、およびグラナート家から横領したとされる資金の返済期限は、昨日をもって終了しております」
「な……っ!? なぜそれを今、ここで……!」
「さらに、返済不履行に伴い、あなたが担保に差し出したヴィンセント侯爵家の領地、鉱山、および王都の邸宅は、本日付で『カスパール商会』の所有へと移転いたしました。……ちなみに、その商会の実質的オーナーは、こちらのルーシェお嬢様です」
会場から、どよめきが上がった。
ヴィンセントの顔が、紙のように白くなる。
「ルーシェ……お前、僕をハメたのか……!?」
「ハメるだなんて、心外ですわ。私はただ、あなたにチャンスを差し上げただけ。それを横領と放蕩に使い果たしたのは、あなた自身ではありませんか?」
リーネが、私の肩を掴んで激しく揺さぶった。
「お姉様! 冗談よね!? ヴィンセント様が侯爵家を失うなんて、そんなのあり得ないわ! 私のバラ色の結婚生活はどうなるのよ!」
私は、リーネの醜く歪んだ顔を、憐れむように見つめた。
「あら、リーネ。あなた、ヴィンセント様の『心』を愛していると仰っていたじゃない。領地がなくても、地位がなくても、真実の愛があれば幸せなのでしょう?」
「ふざけないで! 私は公爵家の富と、侯爵夫人の座が欲しかったのよ!」
本音をぶちまけたリーネに、周囲の貴族たちから蔑みの視線が突き刺さる。
彼女は自分の失言に気づき、口を押さえたが、もう遅かった。
さらに、騎士の一人が彼女の前に立ち塞がった。
「リーネ様。あなたが公爵家の宝物庫から持ち出した宝石類は、すべて『横領の共犯』としての証拠品として没収いたします。また、あなたが社交界で流布したルーシェ様への誹謗中傷、および不貞の偽証についても、教会法に基づき厳格に処罰されることとなりました」
「嘘……嘘よ……!」
リーネは床に崩れ落ちた。
彼女が纏っている高価なドレスも、首元で呪いの光を放つルビーも、今や彼女を縛り付ける鎖でしかなかった。
「連れて行け」
父の短い命令で、騎士たちがヴィンセントとリーネの腕を掴んだ。
「離せ! 僕は侯爵家の嫡男だぞ!」
「お姉様! お姉様助けて! ごめんなさい、私が悪かったわ!」
叫び、狂い、見苦しく暴れる二人。
私はその姿を、最後の一瞬まで無表情に見届けた。
二人が引きずり出された後、私は会場を見渡し、静かにカーテシーをした。
「皆様、お騒がせいたしました。……ですが、これでようやく『余計なノイズ』が消えましたわ。誕生日のダンスを、続けましょう?」
その瞬間、地獄のような静寂は一転し、私を称賛する拍手が鳴り響いた。
私は、足元に落ちていたリーネの真っ赤なルビーを、ヒールで静かに踏みつぶした。
「ベル。あの二人が牢獄で、飽きるほど『真実の愛』を語り合えるよう、手配しておいて。……ただし、食事は一日一食、それも二人で分け合う分だけで十分よ」
「畏まりました、お嬢様。……これ以上ないほど、完璧な終演でございます」
私は、差し出されたクロード殿下の手を取り、優雅にワルツのステップを踏み出した。
背後で閉ざされた扉の向こう、二人の絶望に満ちた悲鳴は、もう私の耳には届かなかった。
◇〜女王の微笑み、あるいは新世界への招待状〜◇
騒乱が去り、大広間には再び優雅な弦楽四重奏が流れ始めた。
つい先ほどまで、この場所で一人の男と一人の女が人生のすべてを失い、惨めに引きずり出されていったことなど、最初から無かったかのように──。
貴族たちはグラスを掲げ、勝者である私に、あるいは”次なる権力”に媚びるような視線を送っている。
私はテラスへ続く重厚な扉を開け、夜の冷気に身を晒した。
手すりに指をかけると、冷たい石の感触が、高揚した肌を心地よく鎮めてくれる。
「……終わりましたのね、お嬢様」
背後で、ベルが静かに告げた。彼女の手には、私のために新しく淹れられた、温かなハーブティーがある。
「ええ。長かったわ。……でも、終わってみれば、あの子たちの絶望なんて、この夜の闇の一片にも満たない小ささだったわね」
私は、夜空に浮かぶ銀色の月を見上げた。
ヴィンセントが牢獄で、自分が担保に入れた領地がすべて私の名義に書き換えられたことを知る時──。
リーネが、鏡のない独房で、染料に焼かれた自分の肌を闇の中でなぞり続ける時──。
彼らはようやく理解するだろう。
私が”黙って見逃していた”のではなく、彼らが自ら首を吊るための縄を、私が一本ずつ丁寧に、慈しみながら編んでいたのだということを。
「……随分と冷酷な『聖母』だ。君の父親も、まさか娘がここまで徹底して侯爵家を解体するとは思っていなかっただろう」
低い、しかし艶のある声が夜の静寂を破った。
振り返ると、そこには漆黒の礼装を纏った隣国の第一王子、クロードが立っていた。
彼は私に歩み寄り、私の隣で手すりに身を預けた。
「殿下……。見ていらしたのですか?」
「ああ。君がリーネのルビーを踏み潰した瞬間、私の心臓も同じように踏み抜かれた気分だったよ。……恐怖ではなく、歓喜でね」
彼は私の手を取り、その甲に深く、熱い口づけを落とした。
クロードは、私がヴィンセントに宛てた”偽の投資話”に、隣国の商会を介して信憑性を持たせてくれた協力者だ。
彼もまた、自国の腐敗した貴族たちを掃除するために、私の”毒”を必要としていた。
「ルーシェ。君のような女を、この狭い公爵邸に閉じ込めておくのは世界の損失だ。私の国へ来ないか? 君が望むなら、もっと大きな『盤面』を用意しよう。……例えば、大陸全土を巻き込むような、壮大な知恵比べをね」
私は彼を見つめ、少しだけ小首を傾げた。
「まあ。それは、プロポーズというよりは『共犯者』への誘いですわね?」
「どちらでも好きな方を選べばいい。愛を語るもよし、利害を説くもよし。……ただ、君が隣にいれば、私は決して退屈しないと確信している」
クロードの瞳には、ヴィンセントのような卑俗な欲望ではなく、知性という名の鋭い刃が光っていた。
この男なら、私がどれほど冷酷に振る舞おうとも、それを美徳として愛してくれるだろう。
「ふふ……。退屈させないとお約束いただけますの?」
「誓おう。君が飽きたと言えば、私は世界を逆さまにしてみせるよ」
私は微笑み、彼の首に腕を回した。
かつての婚約者と妹が、互いの醜さを罵り合いながら、泥沼の中で朽ちていく一方で、私は最も高く、最も美しい場所で、新たな”獲物”を見つけたのだ。
「いいでしょう。陛下……いえ、クロード様。私を、あなたの『毒』として、存分に使いこなしてみてちょうだい」
夜が明け、太陽が昇る頃には、グラナート公爵令嬢の武勇伝は王都中に広まっているだろう。
『婚約者と妹の不倫を黙って見逃した結果、とても面白いことになった』……そんな噂話を、私は遠く隣国へ向かう馬車の中で聞くことになるのかもしれない。
私は、最後にもう一度だけ、昨夜踏み潰したルビーの破片が散らばるホールを思い出した。
壊れたおもちゃに、もう未練はない。
「ベル。荷物の準備は?」
「万端でございます、お嬢様。……あ、そういえば、リーネ様が独房で『お姉様のティーカップを返して!』と叫んでいたそうですわ。毒が入っていると思い込んで、水すら飲めないようで」
「あら、それは傑作ね。……でも教えてあげて。毒なんて、最初から一滴も入っていなかったのだと。彼女を殺したのは、彼女自身の『渇き』だったのだから」
私は窓を閉め、光り輝く地平線へと目を向けた。
これから始まるのは、復讐劇よりもさらに残酷で、さらに甘美な、女王としての私の物語──。
「さあ、ベル、行きましょう。新しい世界が、私を待っていますわ」
「はい、お嬢様」
グラナート家の『冷徹な薔薇』は、朝日を浴びて、誰よりも美しく、そして猛毒を秘めて咲き誇った。
〜〜〜fin〜〜〜
貴重なお時間を使ってお読み頂き、本当に有難うございました。
興味を持って頂けたならば光栄です。
作者のモチベのために☆やいいねを残して頂くと幸いです。感想などもお待ちしております。
ブクマ頂けたら……最高です!




