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藍の軌跡  作者: シャボン玉


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20/21

5話 今も好きな人 前編 (2)

 まこっちゃんの仏壇があるのは小さな部屋で、畳と障子の和風作り。障子は下部をスライドでずらすことができて、外から日差しが差し込んでいた。温かい光が部屋の空気をつつみ、春先特有の寒さは感じなかった。

 室内には箪笥や書籍、時季外れで使っていない電熱ヒーターや扇風機が置いてあった。優美さんから普段は使っていない部屋だって聞いたことがある。

 そして、通い続けて見慣れてしまったまこっちゃんの仏壇が厳かな雰囲気を作り出している。

 低い台に設えられた仏壇の扉は、開かれていて、位牌がひとつ、すっと立っている。漆黒の表面に金の文字が刻まれていて、静かな重みを漂わせていた。

 その手前に、一枚の写真立てが置かれている。

 無邪気な笑顔を浮かべるまこっちゃんの姿がいつもそこにいる。

 そして、部屋に入ると、お線香の匂いが少しして、さらに気持ちが引き締まったような気がした。

 じぶんを落ち着かせるために、ゆっくりと呼吸を整えた。辛いときはこれをすれば楽になる、と体が覚えている。少しだけど、心が軽くなっていくのがわかる。

 優美さんがりんご型のフルーツバスケットを写真の隣に置く。

「誠。今日はなっちゃんも来て、賑やかだね」

 優美さんは遺影に向かってそう呟いた。

「さっ、なっちゃん、どうぞ」

「はい」

 

 夏希は誠の遺影の前にゆっくりと歩み、スカートが乱れないように手で押さえつつ正座になり、スッと背筋を伸ばした。

 遺影に映るまこっちゃんの目を見てから、ゆっくりと一礼した。

 わたしは顔を上げるタイミングで精一杯の笑顔を作り、まこっちゃんに向けた。

 まこっちゃんはまっすぐこちらを見ていて、少し照れくさくなった。

 “なつ~、げんきか~?“とまこっちゃんの言葉が映像とともにフラッシュバックする。

 そこで残っていた緊張が完全に抜けて、ジンワリと温かさを感じた。

 ふふっ、と自然に笑みを浮かべていた。ゆっくりとした時間の流れがあたりをつつみこんでいくのを肌で感じた。


 藍川夏希は保泉誠の遺影に向かって、ひとり語り続けた。

 

「まこっちゃん!わたし中学生になったんだよ!これ、中学の制服なんだけど・・どうかな?似合ってる?」


「・・・ふふ、いいよ、いつも何も言ってくれないもんね」


「・・・ううん、わたしは部活入らないことにしたよ。まこっちゃんは学校の野球部じゃなくてリトルシニアだよね!中学で硬式慣れておかないと高校で甲子園難しいからね」


「・・・ふふ、そんなこと言わないの。いくら天才でも油断しちゃだめでしょ。それに名門校からスカウトくるからぜったいおススメ!」


「それとね、変化球は監督やコーチに何言われてもあまり種類投げちゃだめだよ」


「・・・んもう、だからストレートだけじゃだめだって何度も言ってるじゃない。チェンジアップとカットボール、これだけ覚えてよね。誰に教わったのか知らないけど、たまに投げてたカーブは封印だからね」


「・・・ふふ、分かればよろしい。あ、あとね、約束、覚えてる?まこっちゃんがプロに行って、わたしがヒーローインタビューするって話」


「・・・良かった。まこっちゃんは覚えてないって言いそうだからドキドキしてたよ。でもさ、わたし・・・まこっちゃんのヒーローインタビューがしたいん・・・だよ・・ね」


 尻切れトンボな言葉はそこで途切れた。

 夏希は遠い意識からふっと現実に引き戻された。長くは持たない集中の糸がプッツリと切れて、全身の力が一気に抜けた。そして、そのまま項垂れて視線を畳に落とした。


 ーー俺じゃなくてもさ、ヒーローインタビューしたいやつ、見つかると思うぜ。俺はいつまでもさ、なつのそばで見守ってるからよ。


 夏希は心の中で、誠にそう言われた。想像していなかった誠の台詞、それでも夏希の涙が零れることがなかった。

 彩を失った藍眼は力なくぼんやりと畳の一点を見つめるだけだった。


 ーーまこっちゃん・・・


 涙、もう出なくなっちゃったよ。

 前なら、いつの間にか泣いていたのにね。


 ーーまこっちゃんのヒーローインタビュー、夢見てたんだ・・・


 他の人なんて考えられないよ。


 ーーだから、他の夢を探してみるよ


 いまは、それどころじゃないんだけどね。


 ーーあと、伝えたいことあるんだ・・・わたしのこの気持ち


 まこっちゃんの好きだった”なつ”はもうすぐ死んじゃうから。


 決めていた。最後の言葉を。「まこっちゃん、ずっと大好きだったよ」って、ちゃんと声にして言うんだ。空の彼方まで、届くように。

 奥歯をグッと噛みしめ、わたしは笑顔を作って顔を上げようとした。

 その時だった。ふわり、と背後から温かいものが、わたしを包み込んだ。

 

 驚く間もなく鼻孔をくすぐったのは、懐かしい日向の匂い。記憶の中にある、まこっちゃんの匂い。

 ーーまこっちゃんが、引き止めに来たの?


 だけど、そんな訳がないと我に返ったわたしは、背中の優美さんに慌てて謝った。

 「あ・・ごめんなさい。わたし、ずっと変なこと言っちゃってて」

 

 ーー「あ・・ごめんなさい。わたし、”ずっと変なこと”言っちゃってて」


 夏希を背後から強く抱きしめたまま、優美は首元に顔をうずめると、夏希の言葉を遮るように、ぶんぶんと首を横に振った。

 

「変なんかじゃないっ!!」

 

 背中越しに響いた言葉に、夏希の瞳が大きく見開かれた。

 

「お線香上げに来る人も減って・・・。あの子はみんなから・・・忘れられていって・・・。きっと、ひとりで寂しく・・・まわりに誰も・・・みんなと野球やりたいよね・・・みんなと遊びたいよね・・・。でも・・・なっちゃんは・・いまも!」

 

 優美の言葉が震えた。

 夏希は俯いていた視線をあげ、わずかに振り向き、真っ直ぐに優美を見つめた。

 

「さっき・・嬉しかったよ。なっちゃんが笑顔いっぱいで遺影に話しかけてくれて」

 

 夏希の全身から、強張りが抜けていった。

 華奢な体躯で奮い立たせていた夏希。制服越しに触れる腕も、足も、折れてしまいそうなほど細かった。その事実に、優美の胸は押しつぶされそうなほどの痛みと、それ以上の愛おしさで満たされていった。

 

「なっちゃんの心には、あの子がいて・・・。ちゃんとそこに誠が生きてて!あんなに・・あの子が・・嬉しそうで!!」

 

 優美の瞳から溢れた熱い雫が、夏希の手の甲にボタボタッと二つ落ちた。優美は細い腕を優しく、愛おしむように摩りながら言った。

 

「なっちゃん・・・。今でもあの子を好きでいてくれて、ありがとう」

 

 瞬間、夏希の瞳に暖色の光が灯った。

 ずっと彩を失っていた藍色の瞳に、陽光に輝く海面のような、あたたかな涙が満ちていく。

 

「誠の声がね、私にも聞こえたの。なつ、なつって・・・げ・ん・・きに・・・・呼ん・・でたよ!」

 

 夏希は受け止めきれないほどの安堵と感情の奔流で胸が張り裂けそうになり、堰を切ったように泣き出した。

 

「っ、優美さん!!・・優美さんっ!!」

 

 夏希もまた、すがりつくように優美の腕を強く握り返した。

 子供のように泣きじゃくる夏希を受け止めると、優美はそっと耳元で囁いた。

 

「ほんとうに変じゃないよ。私だってね、毎日、誠に語りかけてるの。それにね、今でも、あの子の大好物を作っちゃうぐらいなんだから。・・ふふ、笑っちゃうでしょ。だってね・・・」

 優美は視線を移し、息子の遺影に向けて慈愛に満ちた微笑みを向けた。

 

 ーーだって、今でもずっと愛しているから

 

 夏希は優美の温かさにわんわんと声を出してボロボロと涙をこぼすことしかできなかった。

 そして優美も泣き崩れる夏希に誘われるように、静かに涙をこぼした。

 

 優美さんの涙がわたしの心にぽたりぽたりと染み込み広がっていく。体中に浸透するその雫はとってもとってもあったかかった。

 わたしは優美さんの温もりを感じながら遺影に目にやった。涙越しでぼやけてはいたけれど、何とか見えたまこっちゃんの顔は、今までで一番幸せそうだった。

 

 あの日からちょうど1年半。

 記憶にあるまこっちゃんと遊んだ記憶。遊んだって言っても野球の話ばっかり。だから偏った記憶しかないけど、それでもあの日から毎日色んな想像をしていた。ほかの人からしたらそんな妄想みたいな想像をしてて普通じゃないって思うんだろうなって、じぶんでも分かっていた。

 今日も同じだった。だからまこっちゃんの声が聞こえたように感じるのは”病気なわたしだけ”なんだって思っていた。

 

 でも違ったんだね。

 ひとりじゃなかったんだ。

 

 今まで、一度も感じたことがない温かさ、それに気づいて、まとわりついていた何かがビューーンって飛んで逃げていった。

 優美さんから差し伸べられた手に、深海に漂っていた”一人ぽっち”のわたしは、今日ようやく救われたんだ。

優美さんの心境を考えると、別の世界線はいくらでもあると思います。

優美さんが激昂してしまうバッドエンドもあるでしょう。

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