種
オルガとライラが森を進んでいくと、まるで薄い膜をくぐったような、ふっと身体を押していた力が消えた。
次の瞬間、肌を刺す冷たい空気と、湿り気を含んだ匂いが鼻を突く。
「……戻ってきた?」
オルガが小さくつぶやくと、ライラは周囲に視線を巡らせながら眉をひそめた。
「静か過ぎるわね、鳥も虫も……音がしない」
不自然な沈黙が、森を丸ごと飲み込んでいた。
村への道を進むほどに、土や幹にこびりつく黒い染みが増えていく。
返り血……それも、相当な量。
「スタンピード……?みんな、大丈夫かな……」
不安に揺れるオルガの声に、ライラはそっと肩へ触れ、安心させるように微笑んだ。
「大丈夫。あの人たち、強いもの。それに、あなたが渡した実や種があるでしょう?きっと、それに助けられた人も多いわ」
村へ近づくほどに景色は悪化していく。
倒れた木々、黒く染まった地面、積み上げられた魔物の亡骸。
「……?」
オルガは、森のただ中で足を止めた。
そこだけ木々は溶けるように枯れ果て、地面は崩れ、黒い靄が薄く漂っている。
「オルガ、息を止めて!!吸い込んだら危険よ!」
ライラが叫ぶと同時に風魔法を展開し、二人の進む道に強い風を送り込む。
靄が押しのけられた先に、
朽ちた骸となった、オルガが見たあのドラゴン。
全身が瘴気で腐り崩れ落ちている。
「倒せたんだ……」
オルガはほっと息をつきかけたが、ドラゴンの急所に刺さった一本の剣が目に入り、胸がぎゅっと縮む。
「レオニダスの剣!」
「オルガ!近づいたら危ないわ!!」
ライラの警告に耳を傾けず、オルガはドラゴンへ駆け寄る。腐食した地面を踏む足が沈みそうになるが、止まれない。
横たわるドラゴンの胸元に刺さる剣を両手で掴み、
力いっぱい引き抜く。
抜けた瞬間、オルガはその剣を胸に抱き寄せ、握りの部分を強く抱きしめた。
(レオニダスに会いたい……)
ドラゴンから離れると、オルガは地面を蹴り全速力で走り出した。
早くレオニダスに会い、あの少し怖いけど優しい顔を見て「良くやった」って、やっと帰れるって……そう言いたい、言われたい。
その願いだけで足は前へ前へ進む。
「オルガ、待って!」
ライラが慌てて後を追いながら叫ぶが、オルガの耳にはもう届いていなかった。
ただ、彼に会うために。
森を抜け、村の入り口へたどり着くと、疲れ切った騎士や冒険者たちがあちこちで座り込んでいるのが目に入る。誰もが血と汗にまみれ、目の下には深い影を落としていた。
その表情から、つい先ほどまで生死を賭けた戦いが続いていたことが痛いほど伝わる。
オルガは胸の高鳴りを押さえつつ、レオニダスが指揮をとっているであろう場所へ視線を向けた。
オルガたちが寝泊まりしていた村長の邸宅だ。
そこに大勢の騎士たちが集まっているのが見える。
どの顔も、暗い。何かを言い出せずに飲み込んでいるような、重い沈黙。
胸にざわりと嫌な予感が走る。
それを振り払うように、オルガは足を速めた。
邸宅の手前で、騎士の一人がふと後方にいるライラを見つけ、目を大きく見開いた。
「……ライラ?」
「ライラさん!!」
驚嘆と喜びと混乱が入り混じった声が次々と上がり、騎士たちが彼女を囲むようにざわめき立つ。
だがオルガはその中をすり抜け、慣れた足取りで邸宅へ入っていくと、中はしんと静まり返っていた。
「レオニダスー!もどったよー!」
返事はない。
広間の奥。
人の気配が集まり、重く淀んだ空気が流れている。
オルガは息をのんでそこへ向かうと、周囲の騎士たちが、彼女を見るなり言葉を探すように立ち尽くす。
「……通して」
騎士たちが道をあけた先。
そこに横たわっていたのは、黒く焼け、ところどころただれたレオニダスだった。
「……嘘だ」
足が勝手に動き、彼のそばへ膝をついた。
触れた指先に、もう体温はない。
「レオニダス……?」
呼んでも、揺らしても、まつげひとつ動かない。彼の鎧は溶け、肌は瘴気の痕で痛々しくひび割れていた。
「オルガ……すまない……」
マッシモがレオニダスに縋り付くオルガを支えるように彼女の両肩に手を置いた。そばにいたセフォラもその光景を目の当たりにしたくないのか目ををきつくとじている。
「……どうして……?まだ、なにも……なにも伝えてないのに……」
声が震え、かすれ、言葉にならない思いが喉元につかえる。
オルガの頭の中に、レオニダスとの日々が一気に押し寄せた。アマンダに嫉妬して、くだらない意地を張って、ちゃんと話そうともしなかった自分。
背を向けたのは自分なのに、彼はいつも変わらずオルガを守ってくれた。
どうして、あの時、もっと素直に――。
胸の奥に溜め込んでいた後悔が、堰を切ったようにあふれ出す。
ぽとり、と一粒の涙がレオニダスの胸元へ落ちた。
その瞬間だった。
レオニダスがいつも胸元に肌身離さず持っていた小さな種がふるりと震え、淡い光を帯び始めた。
オルガが生成したが芽が出ず、彼が「気に入っているから」と言って大切にしていた種。
オルガはただ震える指でレオニダスの胸に触れ、名前を呼び、涙を零し続ける。
涙が次々と種に吸いこまれるように触れ、光がじわりと強まり――
やがて、弾けた。
ふわりと温かな光が周囲に広がり、同時に種から細い芽が伸び、花が咲く。
オルガの髪と同じ、金色にきらめく花。
その花びらがふわりと舞い上がり、光の粒と共にレオニダスの身体を包み込む。
黒く焼けただれた皮膚も、溶かされた痕跡も、
花と光がそっと浄化していく。
レオニダスの胸に置いたオルガの手に、微かな振動が伝わった。
「……えっ」
思わずオルガは耳を彼の胸に寄せる。沈みきっていたはずの静寂の中に、かすかに生命の気配。
「レオニダス!」
呼びかけた瞬間、彼の瞼がわずかに震え、ゆっくりと開く。
「……どうした……?泣いて……いるのか……」
かすれた声なのに、優しさだけは昔と変わらない。
オルガの目から、さらに大粒の涙が溢れた。
「……ばか……本当に……バカ堅物の石頭!」
レオニダスの手がオルガの頬に触れ、その触れ方までもが懐かしい。
「……おかえり……オルガ……」
「……ただいま……レオニダス……!」
光と花に包まれた二人の周囲は、まるで別の世界のように静かだった。けれどその静けさは、先ほどまでの絶望の気配とはまるで違う。
オルガはその手をぎゅっと握りしめ、離すまいとするように、額をそっと寄せた。
もう届かないと思った手が、こうしてまた触れられている。
その奇跡の光景に、周囲で見守っていた者たちも誰一人声を発せず、ただ静かに息をつく。
戦いの余韻が残る村に、
ほんの少しだけ、春のような温もりが満ちていった。




