不確かな気持ち
レオニダスは、黒く粘りついた魔物の残滓を嫌悪の表情も見せずに剣先で振り払った。刃についた黒い液体が飛び散り、湿った地面に落ちてじゅっと音を立てて煙を上げる。
森の奥から吹く風が、一瞬、焦げたような匂いを運んできた。
先ほどまで何度も現れては切り伏せた魔物たちは、すべて灰色の霧とともに消え去っている。
残るのは不気味な静けさと、肌を刺すような瘴気の残滓だけだった。
「……あの魔物は、なんだったんだ?」
マッシモが低く唸るように言いながら、辺りを警戒する。剣を握る手にはまだ緊張の色が残り、視線はレオニダスとオルガの間を往復していた。
オルガはゆっくりと息を整え、胸に手を当てた。
「——白いカラスが出てきたの。あの子が、ここへ導いてくれた気がするの。だから、きっと……精霊樹の場所は、この先にある」
彼女の言葉に、レオニダスが目を細める。
オルガの瞳の奥には、確信めいた光が宿っていた。
脳裏に、かつての王妃エメリナの穏やかな声が蘇る。
『精霊の力は、どこにだってあるの。花にも、土にも、木にも……息づいているの。
もしそれが痛みを抱えていたら……あなたなら、きっと気づける。』
『……気配を感じたら、逃げないで。確かめて——』
森が泣いている——オルガはそう感じた。
気づけば足が勝手にここへ導かれていた。
それは、ボスコの民の血が彼女の中で呼応した証だったのかもしれない。
だが、その“導き手”である白いカラスの姿は、今はどこにもなかった。まるで役目を終えたかのように、再びどこかへ消えてしまったのだ。
マッシモが静かに息を吐き、剣を下ろす。
「……オルガよ。今日は一度、村へ戻って体勢を整えよう。焦っても仕方がない。明日には新たな兆しが見えるかもしれん」
「……うん、わかった」
オルガが頷き、歩き出そうとしたその瞬間——
レオニダスの手が、彼女の手首を掴んだ。
強い力ではなかったが、決して逃れられない確かさがあった。
驚いて振り返ったオルガの瞳が、大きく揺れる。
彼は何も言わない。ただ、真っ直ぐにオルガを見つめていた。その視線に耐えきれず、オルガはほんの一瞬で目を逸らす。
風が二人の間を通り抜け、灰の匂いを薄めていく。
「……レオニダス、手。離して」
小さく震える声でそう告げると、彼はわずかに遅れて手を放した。
オルガは胸の奥で、何かが静かに軋む音を聞いた。
村へ戻る道のりは、いつになく長く感じられた。
誰も言葉を発さない。森を包んでいた灰色の霧は消えたというのに、胸の中に残る重たさだけはそのままだった。
オルガは少し前を歩き、レオニダスはその少し後ろ。距離はわずかに数歩だが、越えられない壁のように感じる。
何度か彼が何か言いかける気配を感じたが、そのたびにオルガは前を向いたまま足を速めた。
(……なにを話せばいいのかわからない)
村の屋根が見えたころ、朝の光が霧を払い、鳥のさえずりが戻り始める。だがその穏やかな音さえ、いまは耳に遠く感じられた。
村の入り口までたどり着くと、いち早く人影が駆けてくる。
赤い髪を揺らしながら走ってきたのは村長の娘、アマンダだった。
「副団長様!無事でよかった……!ずっと心配していたんです!」
アマンダは息を切らせながら、レオニダスの腕に手を添える。その瞳は涙を浮かべていて、見上げる顔にはあからさまな安堵と好意がにじんでいた。
レオニダスは一瞬だけ戸惑った表情を浮かべたが、
すぐに「心配をかけた」と穏やかに応じた。
それだけのやり取りだったのに、アマンダは嬉しそうに笑い、彼の隣から離れようとしない。
その様子を後ろから見ていたオルガは、胸の奥が、きゅっと痛んだ。
視線を落とし、誰にも気づかれないように息を吐く。隣を歩いていたセフォラがちらりと横目でオルガを見て、「……まったく。素直じゃないんだから」と小さく呟いた。
オルガはそれに応えることもできず、「先に宿に戻るね」とだけ言って、足早に去っていった。
その背中を追おうと一歩踏み出したレオニダスの袖を、アマンダがそっと掴む。
「……今日はゆっくり休んでください、副団長様」
彼女の声は柔らかく、けれど確かに引き止めるようだった。
レオニダスは短く息を吐き、遠ざかっていくオルガの背を見つめた。小さなため息が唇をすり抜け、朝の冷たい空気に溶けていく。
村を照らし始めた陽光があたりを金色に染めても、二人のあいだに漂う霧だけは、まだ晴れる気配を見せなかった。




