森が見守る夜
森に入ると、途端に空気が変わった。陽の光は木々の葉に遮られ、昼間だというのに薄暗く、鳥の鳴き声ひとつ聞こえない。
まるで森そのものが息を潜めているようだった。
「……静かすぎるな」
レオニダスが低く呟く。
隣でオルガも頷き、周囲を見回した。
足元の草はしっとりと湿っているのに、虫の気配すらない。それが不自然だと、誰もが感じていた。
「森に入ってから小型の魔物が一体も現れませんね」
索敵を担当していたセフォラが顔をしかめた。
「……それは、私のせいかも」
オルガがぽつりと呟く。
騎士たちが彼女を見た。
「弱い魔物は私の近くに寄ってこないの」
「だが強い個体は例外だからな、お前たち油断するなよ」
レオニダスの言葉に、場の空気が一瞬緊張を帯びる。
その時だった。
ふいに、風が止む。
木々の間を抜ける風音さえ、ぴたりと途絶える。
ふわり——何かがオルガの頬に触れ、静かに彼女に何かを告げた。
指先で掴むと、それは—白い羽。
「……あの子?」
小さく呟いた瞬間、空気が震えた。森の奥から、低く唸るような音が響く。
地面が微かに震え、空気が重くなる。
レオニダスが剣を抜き、声を張った。
「全員、構えろ、来るぞ!」
木々の間の闇が裂け、巨大な黒影が飛び出した。
森の奥から姿を現したのは、全身を黒い甲殻に覆われた巨大な魔物だった。体高は馬の二倍はあり、肩のあたりからは煙のような瘴気が立ちのぼっている。
瞳は血のように赤く濁り、理性などとうに失った狂気だけが宿っていた。まるで怒りそのものが形になったようだった。
「こんな魔物見たことない!」
セフォラが叫ぶ。
「全員、距離を取れ! 前衛、俺と並べ!」
レオニダスの号令で、冒険者たちが素早く陣形を取る。後衛の魔法師たちが詠唱を始めるが、その声をかき消すように地鳴りが響いた。
魔物が地面を叩き割るほどの勢いで突進してくる。
一撃でも喰らえば、肉体ごと吹き飛ぶだろう。
「レオニダス!」
オルガが叫ぶと同時に、蔦が地面を走り、魔物の足を絡め取った。
だが次の瞬間、蔦は鋭い爪で引き裂かれる。
オルガの顔から血の気が引いた。
(いつもみたいに抑えきれない……!)
魔物が雄叫びをあげ、振りかざした腕がレオニダスめがけて振り下ろされる。
その瞬間、オルガは反射的に両手を前に突き出した。
「やめてっ――!」
眩い光が迸った。
空気が弾け、森の木々がざわめく。
地面の下から金色の根が走り、魔物の体を貫いた。
仲間たちは一瞬、息を呑んだ。
魔物の動きが止まり、低く呻いたあと、煙のように崩れ落ちていく。跡に残ったのは、黒く焦げた地面と、空に舞う金色の粉。
オルガはその場に膝をつき、荒く肩で息をしていた。
全身の力が抜けていくのを感じながらも、腕の先に視線を落とす。
そこには、淡く金色に光る模様が浮かび上がっていた。
それはまるで、大地に張る木の根のように、静かに脈打っている。
「オルガ!」
レオニダスが駆け寄り、彼女の身体を抱きとめる。
その手の中で、オルガはゆっくりと瞬きをした。
「……だいじょ、ぶ……」
かすれた声でそう言うと、視線を森の奥へ向けた。
木々がざわめく。
風が、まるで何かに呼応するように優しく吹き抜けていく。
その空気の流れの中に、確かに“何か”があった。
——森そのものが、彼女を支えている。
そんな感覚が、オルガの中に流れ込んでくる。
「……感じる。森が、力を分けてくれてる……」
彼女の頬を一筋の光が撫で、腕の紋様がゆっくりと消えていった。
静寂が戻る中、遠くで鳥の声が響く。
レオニダスは言葉を失い、ただ彼女を抱きしめる。その胸の奥に、かすかな不安と、抗いがたい予感が芽生えていた。
*****
森を抜ける旅も、もう数日が経った。目指すエイミル村は、もう目と鼻の先にある。
夜の森は、いつもより不気味なほど静かだった。普段なら騒がしく音を奏でる虫も、枝葉の間を駆ける小動物も、まるで息を潜めている。
騎士や冒険者たちはそれぞれ火を囲み、低い声で明日の行動を確認し合っていた。
焚き火の炎が、赤く柔らかく夜気を照らす。
レオニダスは木椀を二つ手に取り、湯気を立てるスープをそっとオルガのもとへ運ぶ。火のそばで、彼女はぼんやりと炎を見つめていた。
レオニダスが隣に腰を下ろすと、オルガは少しだけ目を細めて微笑んだ。
「あの子、近くにいるのはわかるんだけど……姿を見せてくれないんだ」
オルガは懐から白い鳥の羽を取り出し、火の明かりにかざす。根元を指先でくるくると回しながら、懐かしそうに言葉を続けた。
「前は、あんなに畑に来て、種をついばんでたのにな」
オルガの横顔が、火の明かりの中で儚げに揺れて見えた。
「夢にね、出てきたの。あの子、枯れかけた精霊樹に力を分け与えてたの」
静かな声だった。
焚き火がぱちりと弾け、オルガの瞳に赤い光が映る。
「たぶん、私が作った種を食べて……その力を少しずつ精霊樹に送ってたんだと思う。でも、そのせいで……私を精霊樹まで導く力までは、残ってなかったんじゃないかな」
レオニダスは手の中の椀を見つめ、低く息を吐いた。
「セオドルのせいか……道が閉ざされたのも、その影響かもしれん」
オルガは小さく頷く。
焚き火の火花が夜空へ飛び、消える。
「でも、近くにいるなら—」
レオニダスは言葉を継ぐ。
「俺たちが睨んだ通りだ。これから向かう魔物が異常に増えている場所……そこが、精霊樹へ通じる“道”が開きかけている証かもしれない」
オルガはしばらく黙って炎を見つめていた。
やがて、指先で羽をそっと撫でながら呟く。
「……でも、不思議なの。あの魔物に襲われたときも、何度か守られてるって感じがしたの。誰かが、私の背中を押してくれてるような、そんな温かい力」
レオニダスはオルガの横顔を見つめた。
火の光に照らされたその瞳は、まるで森の奥の緑を宿しているようだった。
「……きっと、森そのものが、オルガを見守ってるんだろう」
静かな夜風が焚き火の炎を揺らし、木々の葉がささやくようにざわめく。
まるでその言葉に、森が答えるかのように。
オルガは微笑み、羽を胸に抱いた。
「——ありがとう」
炎の光が彼女の頬を優しく照らし、
その夜、森は確かにオルガたちを包むように静かに息づいていた。




