囮
「騎士団の塔で、新たな寄生者と、不審な男を目撃したって!」
「そちらに援護を回せ!」
「くそっ……相手が仲間だと手出しもできねぇ……!」
怒号と足音が廊下を駆け抜けていく。
その喧噪を背に、騎士団の制服を着た一人の男が、静かに歩みを進めていた。
――セオドル。
隣国・エストラーデ王国の密偵であり、「エルバの手」を操る者。
彼の目には迷いも焦りもない。
すべては掌の上――そう言いたげな余裕が、唇の端に浮かんでいた。
「花ひとつで、国が崩れる……まったく、見ものだな」
小さく笑いながら、彼は門へと向かって歩く。
「寄生種はすでに根を張った。スタンピードの火種も用意済み……混乱の渦で、帝国は自壊する」
しかし、彼の足がわずかに止まる。
中庭の一角――人けのない城壁のそばに、ぽつんと腰を下ろす少女の影。
オルガ。
騎士の装いをしたセオドルは、その姿に気づくと、表情を変えずに近づいていく。
「お一人でこんなところに。今、城は危険です。私と一緒に避難を」
オルガがゆっくりと顔を上げる。
「……あなたは?」
「第三中隊所属の騎士です。寄生者がまだ潜んでいると報告がありまして」
声音は穏やかで、装いも隙がない。顔は半分、兜の影に隠れていた。
オルガはわずかに目を細めたあと、微笑みを返す。
「……ありがとう。たしかに、一人はちょっと不安だった…」
セオドルは一歩、歩み寄る。
「顔色が良くないですね。無理もありません。城の状況は…過酷ですから」
「うん……少し疲れてるけど、大丈夫…」
「なら――少し、“楽”にして差し上げましょうか?」
その瞬間、彼の手が静かに動いた。
白手袋の内に隠されていた、黒く光る“寄生種”が、指先に現れる。
迷いもなく、彼はそれをオルガの額へと押し当てようと――
バチンッ!
「っ……!」
乾いた音と共に、彼の手が弾かれた。
寄生種が砕け、黒い灰となって地面に散る。指先には焼けるような痛みが走った。
「……なんだ、これは……?」
オルガが、ゆっくりと立ち上がる。風に揺れる髪の奥、目が静かに光った。
「あなたからは……“匂い”がするの、だから遠くからでもすぐわかる」
セオドルの顔がわずかに歪む。演技を捨てるように、背筋を伸ばし、鎧の裾を軽く払った。
「……ふん、よく仕込んだな。小娘にしちゃ上出来だ」
その瞬間――
「今だッ!」
上空から鋭い声が落ちる。ルーカス。
回廊の上、壁際の影、背後の扉の隙間――
帝国の騎士たちが一斉に姿を現し、セオドルを包囲する。
彼は舌打ちを一つし、視線だけで周囲を測る。
「罠か……だが遅い。もうすべては動き出している。俺を捕らえても何も変わらん」
オルガが、一歩前に出る。
「その判断を下すのは、あなたじゃない」
彼が動こうとした瞬間、オルガの手の中で、淡く光る種が砕かれた。
鎮静の種。
青白い霧が風に乗り、セオドルの体を包み込む。
「く……っ……!」
身体の力が抜け、視界が霞む。膝が折れ、崩れるように地に伏す。
ドサッ。
静寂が中庭に満ちた。
オルガはその場に立ったまま、息を整えず、ただじっとその姿を見下ろしていた。
セオドルの身体が崩れ落ちたと同時に、駆け寄ってくる足音があった。
「オルガ!」
レオニダスだった。血の気を失ったような顔で、真っ直ぐに彼女へ向かってきた。
「大丈夫か!?」
オルガは肩で息をしながら、それでも笑って頷く。
「うん。大丈夫……ちゃんと、拒絶の種が効いたから」
「……っ!」
その瞬間、レオニダスは言葉を飲み込むと、オルガの細い身体をぐっと抱きしめた。
オルガは少し驚いて、でも何も言わず、その腕の中に身を預けた。
「本当に……無茶をするな、おまえは……!」
声が、わずかに震えていた。
「もし、もし一瞬でも判断が遅れてたら……!」
「でも、遅れなかったでしょ」
オルガが、小さな声で言う。
「ちゃんと終わった。……あなたたちがいてくれたから」
レオニダスはしばらく、何も言えなかった。ただ、抱きしめる腕に少しだけ力を込める。
「……もう二度と、一人で突っ走るな。」
「……うん」
そう答えたオルガの声もまた、少しだけ震えていた。
背後では、セオドルの体を鎖で拘束し、騎士たちが連行を始めていた。鎮静の霧が彼の意識を完全に奪っている。
ルーカスが鋭く命じる。
「奴には魔法が効かないんだったな…封印も結界も無意味だ。オルガ、例の“種”は……!」
「はーい」
オルガが頷くと、腰のポーチから、白く乾いた殻のような種を取り出した。
「枷の実だよ、芽を張って縛るの」
その種を、彼女はセオドルの胸元に押し当てた。
しゅう、と淡く白い靄が立ち上がり、まるで彼の身体が“包まれていく”ように、種から透明な蔓が伸びていく。
ゼーレが遠巻きにそれを見て、感嘆の息をもらす。
「エルバの手の力、奥が深いのう…」
セオドルは意識を失ったまま、蔓に包まれ、完全に動きを封じられていった。
――ついに捕らえた。
ようやく、長い夜の中で、何かが変わり始めようとしていた。
中庭にはひとときの静けさが戻り、オルガはレオニダスの側で空を見上げた。
夜空の彼方、雲の切れ間に、滲むような星がひとつだけ、きらりと瞬いていた。




