あの匂いの者
オルガは人混みをかき分けながら、必死にあの匂いを追っていた。
焦げた葉と鉄が混ざったような、あの不気味な匂い…
確かに、徐々に強くなってきている。
「……間違いない、こっち……」
足音も、周囲のざわめきも、すでに耳には入っていない。
ただ、嗅覚だけを頼りに、導かれるように路地を進んでいく。
そして、
ふと立ち止まった。
目の前には、人気のない細い小道。市場の喧騒から切り離されたように、異様なほど静まり返っている。
「……ここだ」
冷たい風が吹き抜けた。
その瞬間、鼻をつくあの匂いが一気に濃くなる。
オルガは一歩、足を踏み入れた。
まるで――何かに、呼ばれているかのように。
小道の奥へと進んでいくにつれ、空気がひやりと冷たくなっていく。
その中で―かすかな、人の呻き声が耳に届いた。
「う……や、やめろ……っ……」
息を呑んだオルガは足音を殺しながら角を曲がり、声のする方へ近づく。
するとそこには、石畳に押さえつけられた男と、その額に何かを埋め込もうとしている人物がいた。
その男の指先には、黒ずんだ蕾のような“花”が絡みついている。
そして、柔らかく囁くような声が響いた。
「そんなに怖がることはないよ。私の子はね、痛みなんて与えない。ただ、心を穏やかにしてくれるの。すべてを忘れられて…幸せになれるんだよ?」
その声にぞっとした寒気が走る。
オルガは咄嗟に叫んでいた。
「だめーー!!!」
叫びと同時に駆け出す。
一瞬、影のような人物がこちらを振り返った。
オルガは迷いなく、自分の手を突き出した。
「――咲け!!」
掌の中に瞬時に現れた淡い緑の種が、地面に落ちると同時に黒い花を咲かせた。
その花が、男の額に絡みついていたものを引き剥がしていく。
「チッ……邪魔がはいったか」
花を操っていた人物が舌打ちし、指をわずかに動かす。
すると、彼の背後から影のように伸びた蔓が生き物のようにうねり、オルガに向かって襲いかかってきた。
「オルガ、下がれッ!!」
鋭い声と共に、金属音が空気を裂く。
レオニダスが剣を抜き、間に滑り込むようにして蔓を一閃。切断された蔓が地に落ち、黒く煙をあげた。
「レオニダス…!」
「遅れてすまない。こいつは――敵だな」
刹那、敵の目が細められる。
「なるほど……貴族騎士様までご登場とは。
じゃあ、これは少し厄介だな」
敵の掌に、黒い種のようなものが浮かび上がる。それを投げつけると、地面に触れた瞬間、植物のような根が四方に広がり始める。
「オルガ、触れるな!」
「わかってる!」
オルガもすぐに反応し、手のひらに別の種を呼び出す。
「咲け、封じ花――!」
薄い白の花が爆ぜるように咲き、黒い根を覆って押さえ込む。
その隙をついて、レオニダスは敵に迫る。
「逃がすか――!」
しかし、敵は花の根を踏みつけながら後方へ飛び退き、指先で何かを弾いた。
爆ぜた煙草のような黒い花粉が視界を覆う。
「また会おう、“エルバの手”……そして、騎士様」
敵の姿が煙の中へ消えた。
数秒後、あたりが静けさを取り戻す。
「……逃げられたか」
レオニダスが剣を収めながら周囲を警戒する。
オルガはふと、敵がいた場所に目を向けた。
「レオニダス、見て!」
そこには、敵が埋め込もうとしていた“寄生花”の種が落ちていた。
小さな、黒紫色の蕾。まだ“発芽”していないが、不気味な存在感を放っていた。
「これ……敵の“種”……!」
レオニダスは頷くと、慎重に布で包み取る。
「ギルドに持ち帰ろう。調べれば、何か分かるかもしれない」
オルガはその花をじっと見つめながら、小さく息をのんだ。
「今度こそ捕まえる…」
その決意の眼差しに、レオニダスも静かに頷いた。




