寄生
朝のギルドは、昨日よりもいくらか静かだった。
書類を抱えて奥のカウンターに向かうオルガの視線が、ふと入口に向く。
「……あ、マルタ」
少し遅れて現れた彼女は、いつも通りの笑顔を浮かべていた。小走りで近づき、軽く頭を下げる。
「おはようございます、オルガさん。遅れてすみません」
「体調はもう平気? ちゃんと休めた?」
声をかけながらも、オルガの中に、言葉にならないひっかかりが芽を出した。
マルタは笑っている。けれど――その笑顔が、どこかずれている。
笑っている“ように見える”のに、目が笑っていない。口元の角度がほんのわずか、違う。
「……」
一瞬だけ、オルガは眉をひそめた。
けれど、すぐに背後から呼ばれた声に気を取られ、その違和感は、慌ただしい一日の中に埋もれていった。
* * *
マルタは、意識の奥底で男の声を聞いていた。
それは記憶ではなく、まるで夢の続きのような光景だった。
――数日前、森の中。
あの日、迷った先で出会った男。名も知らぬその人は、どこかこの世のものではないように見えた。
黒い外套。白く細い指。まるで咲きかけの蕾を眺めるような、穏やかな笑み。
『君は、特別だよ。マルタ。気づいているだろう?』
その声が、森の冷たい空気の中でやけにあたたかく響いた。
彼はゆっくりと、彼女の額に指を伸ばした。
逃げようとした。けれど体は言うことを聞かなかった。
まるで空気が重くなったかのように、世界が止まる。
『君だけだ。彼女の中に、まっすぐ入っていける。君は、彼女の一番近くで咲く“花”なんだよ』
その言葉とともに、ひやりとした何かが額を貫いた。
「……っ!」
声にならない悲鳴が、胸の奥にしずかに沈む。
なにかが這いずるように、内側へ入り込んでくる感覚。根が張られた。奥深くに。誰の目にも見えない場所に。
『痛くないだろう? これは“種”さ。君の中で、静かに育つ。やがて咲く、美しい花』
その声は遠ざかりながらも、どこか耳の奥に残っていた。
『咲くときが来たら……教えてあげる。そのまま、彼女のそばで待っていればいい』
* * *
「……ん? どうしたの? やっぱり調子悪い?」
オルガの声が、すぐそばから聞こえる。
マルタは、はっとして目を上げた。
彼女の手には、大きな根のついた薬草の束。マルタはそれを受け取ろうとしたが――
視界の端に、オルガのうなじが見えた。
すらりと伸びた白いうなじ。そこに、細い刃をあてがったらどうなるのだろう。
そんな想像が、唐突に脳裏をよぎった。
(……なに、いまの)
一瞬で全身が粟立った。
自分が、そんなことを考えるなんて。そんな映像を“自然に思い浮かべる”なんて――ありえない。
「おーい、マルタ?」
「あ、はいっ! すみません、ちょっとぼーっとしてました!」
笑って取り繕いながら、薬草の束を受け取る。オルガはいつもの調子で、ケラケラと笑った。
「大丈夫? 昼休みに甘いもんでも食べに行こうか!」
くるりと背を向ける彼女の後ろ姿を、マルタはまじまじと見つめた。
(おかしい。私は、オルガさんをそんな目で見たことなんて、一度も……)
それなのに、なぜ。
なぜ――あんな衝動が湧いたの?
* * *
夜。
寝袋に入っても、まぶたを閉じることはできなかった。
脈打つように、胸の奥がざわめいている。
そして――
視界に咲き誇る、鮮やかな花々。金、赤、白、紫。夢の中よりも美しく、どこか毒をはらんだ花たちが、静かに揺れていた。
「……また……」
その花の間から、現れたのはあの男だった。
静かな微笑み。黒い外套。何もかもが“あの時”のままだ。
『もうすぐ咲くよ、マルタ』
彼の言葉に、マルタはかすかに首を振る。
「やめて……私は、そんなこと……」
『違うよ。君がやるんじゃない』
男は、マルタの手を取った。
その手は、あたたかくて――甘い匂いがした。
花の蜜のような。けれど、どこか死の匂いに似ている。
そして、彼の声が、再び耳にささやく。
『大丈夫、怖くない。君がやるんじゃない。
“花が咲く”だけだよ――ね、マルタ?』
マルタの中で、何かが静かに揺れていた。
まだ咲かぬその“種”が、脈打つように。




