歯車は動き出す
エストラーデ王国――かつては、帝国の影に怯える辺境の小国にすぎなかった。
だが今、宰相ヤーヴィス・エストラーデの手によって、その歯車は静かに、だが確実に回り始めている。
玉座にあるのは、若きエミル王。
だが、その病弱な身体と、争いを好まぬ穏やかな性格では、動乱の時代に抗い国を導くことはできない。
実権を握っているのは、王の叔父にして宰相――ヤーヴィスである。
ヤーヴィスは政敵を粛清し、旧体制を解体。
旧貴族たちの私兵を王直属軍に再編成し、内紛の種を摘み取ったうえで、戦うための軍を創り上げた。
かつて「儀礼用」と揶揄された王家の軍は、いまや帝国すら脅かす鋼鉄の部隊と化していた。
そしてその外交の矛先は、常に帝国に向いている。
睨みを利かせ、機を窺い、いずれ牙を剥くために。
「――そろそろ頃合いだろう」
執務机には、帝国の政情を記した密書が幾重にも積まれていた。
各地の動向、軍備の配備、宮廷内の派閥争い。
その中には、かのドレイヴァン家を経由してもたらされた極秘情報もある。
ヤーヴィスは一枚ずつ丁寧に目を通すと、ふと手を止め、窓の外に視線を向けた。
夕暮れが王都の屋根を赤く染めている。
彼の背後に控えているのは、王室直属の私設諜報機関――王室情報局。
帝国のどの貴族がどこに忠を誓い、どの辺境領主が不満を燻らせているか。
彼らはそれらすべてを把握し、ヤーヴィスの耳元へとささやいていた。
「……セオドル、戻ったか」
気配ひとつ立てずに現れた黒衣の男に、ヤーヴィスは目を向けぬまま声をかけた。
「時間を要してしまい、申し訳ありません」
「構わん。それで――報告を」
「……エメリナ様が落とされました。
ドレイヴァン家との接触も、遅かれ早かれ帝国に露見します。時間の猶予は、あまり残されておりません」
ヤーヴィスは小さく息を吐き、手元の文書を閉じた。
その顔に浮かぶのは、焦りではなく、むしろ冷徹な確信だった。
「――たとえ帝国が動き出したとしても、もはや手遅れよ。我らは、既に詰みの一手を打っている」
だがセオドルは、なおも声を低くして続けた。
「…一点、気がかりがございます。
”エルバの手”の能力者が帝国側に確認されました。
エメリナ様が落とされたのも、主にその者の働きによるものと推察されます」
「”エルバの手”か……」
ヤーヴィスは初めて興味を示すように、ゆっくりと椅子を回してセオドルを見据えた。
「……お前の方が、その力には明るかったはずだな?」
セオドルは一瞬、何かを飲み込むように瞼を伏せると、静かに首を振った。
「……私は“出来損ない”ですので。彼らのようには、扱えません」
その言葉に、ヤーヴィスは鼻先で笑った。
「ふん、自分の価値を見限るのは簡単だな。
だが、出来損ないには、それはそれで使い道もある」
冷ややかな視線が、セオドルの顔を射抜く。
「――早めに排除しておけ。その“エルバの手”とやらを」
「……御意」
セオドルは恭しく頭を下げると、闇に溶けるようにしてその場から姿を消した。
残された部屋には、密書の紙擦れと、ヤーヴィスの独り言のような呟きだけが響いていた。
「……神の力だろうが精霊の血だろうが――
この世界を動かすのは、最後には人の意志だ」
窓の外では、王都の灯がひとつ、またひとつと灯り始めていた。
夜が来る。嵐の前の、静かな夜が。




