静かなる兆し
レオニダスがオルガの家で、穏やかすぎるほどの休日を過ごしていたその時。王宮では、皇太子アルデバランと帝国騎士団長ルーカスが、騎士団塔の書斎で顔を突き合わせていた。
「ギルド長の調査によると、魔素の濃度が上がっているらしい。原因はまだ不明だが、それに引き寄せられるように魔物の数が増えているようだな」
アルデバランが机上の地図を見下ろしながら言うと、ルーカスが腕を組んだ。
「通常では滅多に現れないはずの高位魔物が、市街地近くで目撃されたという報告も上がっています。マッシモはスタンピードを警戒して、既にいくつかの準備を始めているようです」
「……我々も、動かねばならんな」
アルデバランの言葉に、ルーカスは黙って頷いた。しかし顔は険しいままだ。
「魔法師たちに古文書を洗わせていますが、有力な手がかりは出てきていません。ギルド側でも並行して調査を進めているようですが……どこも決め手に欠けるようです」
アルデバランは静かに息を吐いた。
「明日、ダンジョンとその周辺を視察に行く。自分の目で見ておきたい」
その言葉に、ルーカスは一瞬絶句した。口を開こうとしても言葉が出ず、やがてしぶしぶ声を絞り出す。
「……殿下、正気ですか? エリオット皇子が狙われた直後ですよ。次はあなたという可能性もある。今はレオニダスも不在です。私は王宮を離れるわけにはいきません。数日で彼が戻ります。それまでお待ちを」
「近衛騎士団がいる。私自身も戦えないわけではない」
アルデバランの口調はあくまで冷静だった。だからこそ、ルーカスは苛立ちを隠せなかった。
「オルガが提出したリストをご覧になったはずです。帝国騎士団と近衛騎士団、両方から“呪い”に関わった者が複数名出てきました。侯爵家と繋がりのある者も含まれていた。近衛にも完全な信頼は置けません」
ルーカスは机を叩きたくなるのをこらえ、きっぱりと告げた。
「この状況下で、殿下が動くべきではありません。レオニダスか私、少なくともどちらかが常に傍にいるべきです」
ルーカスの言葉が空気を固くしたまま、沈黙が落ちた。
だがアルデバランは動じなかった。鋭い目をまっすぐルーカスに向ける。
「……だからこそ、だ」
「は?」
「信じられる者が減った今、自分の目で確かめるしかない。書面ではわからんことがある。報告は濁され、守られるのは体裁ばかりだ」
ルーカスは歯を食いしばった。
「それでも、あなただけは動いてはいけません。陛下も、そうお考えになるはずです」
「陛下には既に許可を取ってある」
「……っ!」
返す言葉が詰まり、ルーカスの拳が無意識に握られる。
「事態は一刻を争う。現場を見ずに判断を下せば、誤る。誤った命令は、命を奪う。私はそれを繰り返すつもりはない」
低く抑えた声だったが、拒絶は明確だった。
「近衛はすでに手配してある。副隊長のク
ラヴィスも同行させる。護衛は十分だ」
ルーカスは苛立ちを噛み殺したまま、しばらく黙っていた。けれど、やがて顔を上げる。
「……殿下。私が止められなかったとあっては、レオニダスに合わせる顔がありません。死ぬ気で帰ってきてくださいよ」
「生きて帰る。それが命令だ」
アルデバランは一言だけそう言い残すと、書斎を後にした。
閉ざされた扉の向こうに、重く沈んだ沈黙だけが残った。
ルーカスはため息をつき、額を押さえる。
「……いつも、自分の命を軽く見すぎる」
***
書斎を後にしたアルデバランは、控えていた近衛たちと合流し、騎士団塔を出た。
西日が石畳を赤く照らし、風に土の匂いが混じる。
塔の脇にある小さな畑が視界に入った。数日前、オルガが土をいじっていた場所だ。
見ると、植えたばかりだったはずの苗が、すでに花をつけ、実をつけていた。
「……早いな」
独り言のように漏らして、アルデバランは歩を止める。
一株に成っていた小さな緑の実に目を留めた。前にオルガから渡された赤い実に似ている。あれの効果は絶大だった。
まだ熟していないのか、今回は赤ではなく深い緑色だ。緑の果肉はわずかに透けており、内側で微かに光を帯びているようにも見えた。
けれど、まったくの無効というわけでもなかろう。遠出に備えておいて損はないと思い、数粒を指先で摘み取り、慎重にポケットへと滑り込ませた。
ほんのわずかに、指先が痺れるような感触があった。けれど、それが風の冷たさのせいなのか、実のせいなのかまでは分からなかった。
「……借りるぞ、オルガ」
そう呟いて、彼は再び前を向き、騎士団塔を後にした。




