エリオット皇子
皇帝との謁見を終え、謁見の間を出たオルガたちを、赤毛のローブ姿の女性が出迎えていた。年のころは二十代半ば。明るい笑みと、どこか子どもっぽさの残る無邪気な雰囲気をまとっている。
「セフォラ、ゼーレ殿に使いっ走りにされたのか?」
ルーカスの軽口に、セフォラはふわりと笑った。
「使いっ走りだなんて、ひどいなあ。これは立派な任務です。今、エリオット陛下のお部屋は次元をずらして隔離されてるんです。誰でも案内できる場所じゃありません。私が選ばれたのは、絶対に失敗しないから! ……たぶん」
いたずらっぽくウインクしながら、セフォラが手をひらりと振ると、足元からやわらかな風が立ち上がり、オルガたちを包み込む。
風が過ぎ去った次の瞬間、目の前に銀の縁取りの扉が音もなく現れた。
「すごーい! これが噂の移動魔法!? 初めて見たー!」
オルガが目を輝かせて声を上げると、セフォラは「えへへ」と照れくさそうに笑った。
「ね? すごいでしょ? いつも、むさくるしい筋肉バカと、魔法バカとしか顔を合わせないから、オルガさんみたいな人に会えると嬉しくなっちゃうんです」
「筋肉バカって……俺たちのことだよな?」
レオニダスが渋い顔をすると、ルーカスは肩をすくめながら苦笑した。
そのやりとりを遮るように、突然、扉の向こうから年配の男の顔がひょこっと覗いた。
「セフォラ。魔法バカって、もしかしてワシのことも含まれておるのかの?」
魔法師団長ゼーレだった。
オルガは、何食わぬ顔でセフォラに耳打ちするように言った。
「魔法バカっていうより、偏屈ジジイだよ、あの人は」
そのまま扉をくぐって部屋に入ると、寝台の上からくぐもった笑い声が聞こえてきた。
「ゼーレがあんなふうに悪口言われてるのに、嬉しそうな顔してるのが……一番おかしいな」
声の主は、皇子エリオットだった。
「エリオット殿下よ、それは誤解というもので……わしは別に、嬉しいなどとは……」
ゼーレはしどろもどろになりながら視線をそらし、口元をもごもごさせる。だが、すぐに気を取り直すと、少し咳払いをしてエリオットのほうへ向き直った。
「……殿下。こちらが、例の花屋、オルガ殿です」
ゼーレの声に、室内の空気がすっと引き締まった。
しんとした沈黙の中、最初に口を開いたのは皇太子アルデバランの妻──皇太子妃セレーナだった。
「この度は、息子エリオットを救っていただき、心より感謝いたします」
その声音も、柔らかく伏せられた瞳も、形式ばったものではなかった。皇太子妃としての礼儀ではなく、一人の母としての感謝が、そこにはあった。
先ほど謁見した皇帝とは対照的に、言葉にも表情にも真っ直ぐな温かみがある。
オルガは一瞬きょとんとし、それから、いつもの調子で肩をすくめた。
「たいしたことしてないですよ。花が咲いただけですから。……おきになさらず!」
遠慮も気負いもなく、あっけらかんとしたその言いぶりに、場の緊張がふっとほどけた。
「咲いた花が、命を救ったのでしょう」
セレーナの言葉には、揺るがない確信があった。
オルガは少しだけ口の端をゆるめると、皇子の寝台へと視線を向けた。
エリオット皇子は、思っていたよりもずっと顔色がよかった。
頬に少しだけ血色が戻り、目には穏やかな光が宿っている。
けれど言葉を探すオルガの足が、止まった。
いつもの調子で話しかけていいのか、それとも丁寧な言葉を選ぶべきか――そんなことを考えて、頭が一瞬真っ白になる。
「えっと、ご、ご気分はいかがかな……ですか?」
しどろもどろな問いかけに、その場にいた誰もが少し息をのんだ。
けれど、エリオット皇子はすぐにふっと目を細めて、柔らかな笑みを浮かべた。
「ありがとう。オルガ殿のおかげで、順調に回復している。
食事も少しずつ摂れるようになってきた。もう少ししたら、歩いて体を動かすこともできそうだ」
言葉は淡々としていたが、その声にははっきりとした感謝が込められていた。
「すべて、オルガ殿のおかげだ」――その一言に、オルガは思わず視線を落とした。
「えっと……これ」
鞄の奥から取り出した小さな包み。中には、赤く熟した実が数粒。
「体力の実」と名付けたそれは、オルガが今朝収穫してきたものだ。
「私が作ったの。元気になれる……はず。」
言いながら渡した手が、どこかぎこちない。
それでもエリオットは丁寧に両手でそれを受け取り、静かに頷いた。
「大切にいただくよ」
そばで見守っていたルーカス、レオニダス、ゼーレ、そしてセフォラが合図のように立ち上がる。
オルガもそれに倣って小さく頭を下げ、もう一度だけエリオットに目を向けた。
「……また、何かあったら呼んでください」
その言葉に、皇子は微笑みだけで返した。
扉が閉まり、静寂が戻る。
手の中に残った体力の実は、まだほんのりと、森の香りがしていた。




