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苦手な方はご注意ください。

代償 ~初恋~

作者: よしのちよ

自分が投げたカードは必ず自分に戻ってくる。

その姿のまま、或いは姿を変えて。

自業自得なのである。

山や森、自然に囲まれた中に建つ西洋風の建物。自分で日常生活を送ることのできない人々が介護士の手を借りて生活している民間の療養施設。エントランスに続く道の脇には赤とピンクのゼラニウムが交わりながら咲き乱れている。

駐車場に一台の高級車が停まった。

運転手がドアを開け、会釈しながら一人の男を降ろした。

初めて施設に訪れた雅和は、運転手の田中に先導するよう目配をする。

受付カウンターに向かった田中は、

「前田啓太郎の面会に来ました。部屋はどちらでしょうか?」

四十代半ばの女性介護士が仕事の手を止め、初めて見る面会人の顔に驚いた様子を見せた。

「啓太郎さんとはどういうご関係でしょうか?」

「父親です」

「さようでございますか。それは……大変失礼いたしました。ご案内いたします」

そう言いながら、南側の通路を案内した。

半分白髪、よく言えばグレーヘア。仕立てのいいスーツに身を包んだ雅和は、田中のすぐ後に続いて歩いた。

「今日は陽がさして暖かいので、バルコニーで過ごされています」

廊下の先には、まだ紅葉が残った景色が見えている。

「啓太郎さん、今日は朝からご機嫌なんですよ。さっきも療法士と三人でしりとりをしてたんです」

車椅子の向きを変えストッパーをかけながら、介護士が啓太郎に話しかける。

「啓太郎さん、ほら会いに来てくれましたよ」

「誰かしら~」

その言葉に啓太郎は何の反応もしなかった。

「最近はとても穏やかなんです。よく笑うようにもなられて、私たちも嬉しい限りです」

「喋れるようになったんですか? では記憶も?」

「いえいえ、カードを使ったしりとりです。言葉はようやく出てきた感じで……、でも大きな進歩です。記憶の方はまだまだ時間がかかるかもしれないですね……。髪をむしる癖はまだ治らないので、いつも短くさせていただいてますが、ハンサムだからよく似合われてます」

短いと言うより二分刈りのようだ。

「いつも世話をしてもらって、ありがとうございます。すみませんが少し席を外してもらえますか」

「あ、座ってもいただかないで、ごめんなさい。ゆっくりしていってください」

そう言って啓太郎の前に椅子を置いて館内へと消えていった。少し距離を置いて田中が立っている。雅和は啓太郎の顔を見ながら

「啓太郎くん、私が誰かわかるかい? 義父さんだよ。駿也の父親だよ」

その顔を見て一瞬目を見開いたが、すぐさま虚ろな表情に戻ってしまった。

雅和は立ち上がり、車椅子を動かした。

「きれいな景色だね~。紅葉ももう終わりだね」

そう言いながら背後から景色を眺めていた。

しばらくして目線を降ろした雅和は、数分後声にならない言葉を発し、そのまま倒れてしまった。

救急車で担ぎ込まれた雅和は意識不明の重体。

連絡を受けて駆け付けた駿也は、その姿を憐れむよう眺めながら集中治療室を後にした。


カーテンの隙間から光が漏れる。

眩しそうに目を伏せながら駿也はすくっと立ちあがり、洗面所に向かった。顔を洗い、鏡を見て、頬を両手で擦りながら目を閉じた。

キッチンに向かい朝食の準備をする。卵黄と納豆、刻みネギを混ぜて炊き立てのご飯にぶっかけた。自分にとって最高の朝ごはんだ。その後は、濃い目のブラックコーヒー。

[立つ鳥跡を濁さず]使った食器の後片付けも怠らない。定期健診を受ける歯医者から勧められた電動歯ブラシで歯を磨いてから身支度を整える。

オーダーメイドで誂えたシルクのスーツに身を包み、カシミヤのコートをはおって部屋を出た。マンションの地下駐車場、吐く息は少し白く見えている。

運転席に乗り込みエンジンをかけると、すぐさまシートは温かくなる。二十分ほど走って会社に辿り着いた。

時刻は九時。

十時から、役員会議が始まる。雅和の突然の入院で、駿也が代表取締役社長に任命されることになっている。他の役員はまだ到着していなかった。

駿也が、会議室のガラス越しに景色を見渡していると、女子社員が慌てて入って来た。

「専務、おはようございます。コーヒーをお入れ致します」

「いや、飲んできたからいいよ。お構いなく」

「さようでございますか、では何かご用がございましたらおっしゃってください」

「あ、専務。私今年入社した谷川奈緒と申します。よろしくお願いいたします」

「あ、こちらこそ。ありがとう」

肩までの栗色の髪は柔らかそうに毛先がカールしていて、瞳が茶色がかっている。僕と母さんと同じだ。母さんもよく働いていたな……。いつも笑っていた。

通常、社員の出勤時刻は九時半だというのに、三十分も早くから出勤し上司に気を遣う彼女に、わずかな記憶しかない亡き母の姿を重ねた。

役員会議は満場一致で、駿也は代表取締役社長に就任した。社長の一人息子だ。何の問題もなかった。

駿也は社長室のソファーに身を沈め、ゆっくり目を閉じ深く息を吸い込んだ。



平成三年、啓太郎は東京の郊外で生まれた。

工業高校を卒業し、小さな鉄工所に勤める勤勉で物静かな父親。口うるさいものの愛情にあふれ、家計を支えるためにパートに出てよく笑いよく働く母親。母親を真似てあれこれ世話をやく四歳上の姉。家族四人、父と母は家計のことで時折喧嘩はしたが、いたわり支え合いながら温かい家庭を築いていた。休日になると母親の手作り弁当を持って、近場の公園などに出かけるのが家族にとって唯一の楽しみだった。

啓太郎が年中、姉が小学二年生の夏のある日。夕食前に夕日が見える公園に出かけることになった。公園といってもブランコとシーソーがあるだけの小さな公園だったが、子供たちは楽しそうにはしゃいでいた。その光景を嬉しそうに見つめる父と母。

夕日は沈み、あっという間に辺りは薄暗くなってしまっていた。

父親を先頭に姉は後ろを走る。それを追うようにコマつきの自転車で啓太郎が続く。母親は啓太郎を守るように一番後ろを走り家に向かっていた。

列になって走る親子に、後方から一台の車が蛇行しながらかなりのスピードで近づいてきた。縁石を越え瞬く間に家族を撥ね、一旦停車はしたもののそのまま逃げ去った。

目撃した住民からの通報で救急車はすぐに到着したが、母親は即死。父親と姉は危篤状態で数時間後に死亡。母親が身を挺して守った啓太郎だけは命に別状もなく無傷だった。

たった一人残された啓太郎は署員に連れられ、児童相談所で保護された。

啓太郎の父方には年老いた父親がいるが認知症で五年前から施設に入居している。母方には遠方に叔父がいるだけ。叔父に連絡を取ってみたが無しの礫。他に連絡を取れそうな親戚は誰もいなかったから、啓太郎は児童養護施設に預けられることとなった。

父や母、いつもそばにいた姉がいない。幼い啓太郎にはどうしてなのかわからない。

「母さんはどこ? ねぇねはどこ? 父さんはおしごと?」

施設の職員たちも言葉に詰まる。

施設長の山名が啓太郎を抱き上げ、頭を撫でながら話した。

「啓太郎くんのお母さんとお父さんはね、遠いお国に行ったの。ねぇねを連れて……」

「ねぇねもいっしょに? どうしてぼくはつれていってくれないの?」

「啓太郎くんにはしてほしいことがいっぱいあるから、連れていけなかったみたいよ」

「どうして! 母さんはぼくがきらいなの?」

「大好きだから連れて行けないって言ってたわよ。ほら、コマなしの自転車にも乗れるようにならなきゃ……」

山名は我が子を抱くように優しく包み込んだ。


施設には未就学児が四人、小学生七人と中学生五人、高校生二人の十八人が入居している。啓太郎を合わせて十九人となった。

皆それぞれいろんな事情で入居していたが、啓太郎よりまだ小さい四歳の「優紀」という女の子が、火事で両親を亡くしこの施設に入っていた。同じような痛みを持つ二人。その痛みを分かち合うかのように仲良くなり、流れる季節を一緒に過ごした。冬は同時にしもやけに、夏には二人揃ってとびひにかかったりと、本当の兄妹のようだった。

啓太郎は穏やかで優しく、自分からはあまり話をしないおとなしい性格だったが、絵本が好きで、いつも優紀に読み聞かせをしていた。時折、おままごとのお父さん役に抜擢され、「ご飯ですよ」と、葉っぱや泥団子を目の前に置かれていた。

優紀は色が白く端正な顔立ちとキレイな黒髪。日本人形のような外見とは裏腹に、負けん気が強くやんちゃだった。啓太郎が学校でいじめらていたと耳にしたものなら、相手かまわずお礼参りをした。そんな男勝りな優紀だったが啓太郎にとってはかけがえのない天使だった。


庭の桜の木に蕾が膨らみだしたある日。

施設の前に一台の車が停まり、運転席から男が助手席から年配の女性が降りてきた。二人は職員に案内されて施設長室へ入り、小一時間ほどして帰って行った。

啓太郎を養子にしたいとの申し出だった。養子先は会社を経営する社長宅で一人息子の兄弟として迎え入れたいと言うのだ。

施設に預けられた子供たちは中学、中には高校まで進学する子供もいたが卒業するまでここでの生活を余儀なくされる。両親や親戚が迎えに来て退居する子供もいたがそれもごく稀だった。ましてや養子縁組の話など開所以来一度もなかったから、山名は胸を躍らせた。

こんないい話はない。啓太郎は勉強も熱心だし、もう二年生になる。すぐにでもこの話をまとめなければと勢い立った。が、優紀の顔が頭に浮かび喜びも一瞬、複雑な心境になった。

啓太郎に話そうと所内を探すと、いつものように優紀と寄り添い合って絵本を読んでいた。いずれ優紀にも話さなければならない。二人を引き離すのは酷だが仕方がない……。

山名は二人の前に座り、ゆっくり話をした。

「啓太郎くん、優紀ちゃんよく聞いてね……。啓太郎くんを子供にしたいっていう人がいるの。そのお家には男の子がいるんだけれど、一人っ子だから兄弟がほしいって……。でね、そのお父さんが是非啓太郎くんに来てほしいって。此処よりもたくさんお勉強もできるわ。啓太郎くんの将来のことを考えたら、先生も行ってくれた方が嬉しいの……」

「啓兄ちゃんどこかに行っちゃうの? 優紀は? 先生、優紀は?」

「優紀ちゃんは、私と一緒にここで暮らすのよ」

優紀は泣き叫んだ。

「やだ、そんなのやだ! 優紀も啓兄ちゃんと一緒に行く」

「優紀ちゃんは啓兄ちゃんが好きなんでしょう? ほら、啓兄ちゃんに悪さをした子に仕返ししてたじゃない。……そこに行ったらね、啓兄ちゃんは仮面ライダーみたいに強くなって、誰からも悪さをされなくなるのよ。優紀ちゃんのことも悪者から守ってくれるようになるわ」

「ほんと? 仮面ライダーみたいに?」

「そうよ。だから、ちょっとだけ我慢して待っていようよ」

ただ黙って聞いていた啓太郎が声を上げた。

「僕は何処にも行かない! ここでずっと優紀と一緒にいる!」

そう言って外に飛び出した。その後を泣きながら追いかける優紀。

こうなることは予想していた。これは通らなければならない道。

前の公園のベンチで二人は手を繋ぎ、肩を落として座っていた。

「帰ろうか。もうすぐ夕食の時間よ」

山名はそれだけ言って二人を連れ帰り、その話には触れずそっとしておいた。また日を改めて話をしようと。そして何事もなかったように二日が過ぎ三日が過ぎた。

啓太郎は小さな頭で考えた。優紀を守りたい、幸せにしたい。そのためには、このまま此処でいるより養子になった方がきっと得だと。

山名のもとへやってきた啓太郎。

「先生、僕行くよ。その家の子供になる。優紀と約束した。迎えに来るからって……」

別れの日、桜の花もそろそろ満開を迎えようとしていた。

「時々は元気な顔を見せに来てね」

「啓太郎くん、がんばるのよ」

皆が見送る中、優紀だけがいなかった。辺りを見回すと、桜の木に隠れ顔を半分覗かせている優紀を見つけた。

啓太郎は走り寄った。

「優紀、いっぱい会いにくるね。待っててね」

「やくそくね。……ぜったいね」

目の周り鼻先を真っ赤にしながら無理やり笑う優紀を見つめ、啓太郎は小指を出した。

「ゆびきりげんまん、ウソついたらはり千本の~ます!」

二人は声を揃え、おでこを合わせた。

「啓太郎くん、そろそろ行きましょうか」

運転手に手を引かれ去っていく啓太郎。

時々振り返るその姿がどんどん小さくなっていく。啓太郎を乗せた車がゆっくりと走り出した。

その光景を黙って見ていた優紀は、視界から車が消えそうになった途端走り出した。車を追い、泣きながら走った。

桜の花びらが風に舞った。


啓太郎は養子先の息子を見て驚いた。見たことがある。公園のベンチに座っていたあの子だ。一度だけ話をしたことがある。

「一緒にサッカーする?」

「したことない」

「教えてあげる。簡単だよ」

「いらない」

それだけだったが、啓太郎はいつも一人で座ってこちらを眺めているその子が、強く印象に残っていたのだ。

「初めまして、じゃないね。僕、啓太郎って言います。一年生です。あ、じゃなかった、二年生です。よろしくお願いします」

「なぁんだ、じゃあ弟じゃないのか。年下だと思ったのに、同じ二年生なのか」

「同い年なら一緒に勉強もできるからよかったじゃないか! 啓太郎くん、これからは家族だ。あまり家には帰って来れないが私を父親だと思って甘えてくれ。息子とも仲良くしてやってくれ。この人はいろいろ世話をしてくれるたきさんだ」

「初めまして啓太郎さん。たきと申します。このお家のお掃除や雑用など任せてもらってます。美味しいものたくさん作りますね。何なりとおっしゃってくださいませ」

「じゃあたきさん、頼んだよ」

そう言って父親は出て行った。

「僕は駿也っていうんだ。きみはどうしてあそこに入っていたの?」

「……交通事故に遭って、僕だけになったんだ」

「ふ~ん、そうなのか。……じゃあこれからよろしくな」

啓太郎に部屋が与えられた。ふかふかのベッドに大きな勉強机、テレビにソファーまで置かれている。今まで集団で生活していた啓太郎には夢のようで言葉も出なかった。

「僕の部屋を案内するよ。君は二階だけど、僕は地下。びっくりしないでくれよ」

案内された地下のフロアはすべて駿也の部屋だった。階段を下りると大きな扉。開けると長い廊下。家族が暮らせるマンションのように、部屋が四つもあった。手前左の部屋は寝室、右にはトイレとバスルーム、小さなキッチンまであった。寝室には二~三人で眠れそうな大きなベッド。ミニシアターのような大きなテレビが設置されていた。寝室の隣の部屋は三方の壁面が本棚で囲まれ、辞典・小説・図鑑・参考書など様々なジャンルの本がぎっしり詰まっている。中央にはパソコンが置かれた大きなデスク。まるで図書館だ。

「ここは図書室なんだ。僕がいっぱい勉強できるようにって、たきさんが揃えてくれたんだ。僕は勉強なんて興味ないのにね……。意味の分からない本だらけだ(笑)」

その隣の部屋にはたくさんの絵画が壁に掛けられている。中央には画架に描きかけのキャンパスが立て掛けられ、床には画材道具が散乱している。

「ここは絵画室。僕は本より画を描く方が好きなんだ。これはまだ下書きの途中……。ママを描こうと思っているんだ。僕が小さい時に死んじゃたんだけどね……」

「えっ、そうなんだ……」

そして、その三つの部屋の前面にはガラス窓に覆われた細長い部屋。中を見渡せたがそこは何もないただの空間だった。

「広いだろう。この空いた部屋は、僕が大きくなったら趣味とかに使えばいいらしい」

「どう、気に入った?」

「うん、すごいね! 図書室もあるなんて! 僕の好きな本がいっぱいあった!」

「本が好きなのか、じゃあいつでも好きな時に読んだらいいよ。地下のドアの鍵はきみにも渡しておくね」

啓太郎は目を輝かせた。

駿也は送迎されて私立の小学校へ、啓太郎は地元の公立小学校へ。


二人は気が合いすぐに打ち解けた。夕食をすませた後は、一緒にテレビを観たりゲームをしたりと時間を共有した。

啓太郎は約束通り、優紀に会いに行った。庭に咲いている花を切り新聞紙に包み自転車の籠に乗せた。リビングから覗いていた駿也が窓を開けて

「啓太郎、施設に彼女でもいるのか~?」

「そんなんじゃないよ、妹だよ!」

「ふ~ん、じゃあお前が帰ってくるまでにあのゲームを制覇しておいてやるよ!」

「そうか、まぁがんばってくれ!」

駿也は、時々一人で出かける啓太郎の帰りを ゲームやパズルで時間を潰して待った。

父親代わりにたきが同行して、あちこち旅行にも出かけた。キャンプ。東京ディズニーランド。オープンして間もないユニバーサルスタジオジャパン。鳥取砂丘。たきのチョイスで熊本県にある日本一の石段。二人はお互いにとって唯一無二の存在となっていった。以前に比べてよく笑うようになり明るくなった駿也に、たきも一安心していた。

駿也は友達のつくり方がわからなかったから、学校ではいつも一人だった。啓太郎は活発で友達も多く放課後になると皆に誘われた。だが、先に帰って一人で居る駿也のことが気になり、いつも即行で帰宅し兄弟の時間を大切にした。

中学二年生頃からそんな二人の仲に変化が表れた。

いつものように、嬉しそうな顔をして施設に向かう啓太郎。朝出かけて夕方まで帰って来ない。帰って来ても楽しそうな顔をしている。駿也にはしあわせの余韻に浸っているように見えて羨ましかった。欲しいものは何でも手に入り、独占欲の強い駿也は嫉妬した。自分の知らない世界、しあわせな時間を持っている啓太郎を妬ましく感じ始めた。

啓太郎が何か聞いても一言二言返してくるだけで、以前のように話したり、ふざけたりしなくなった。買い物に行こうと誘っても

「行かないよ、誰かさんと行けばいいだろう」

と、意味深な言葉。

その心の裏側を啓太郎もうすうす気付いていたが、どうしていいか分からない。僕は勉強に集中しようと、駿也から少しずつ距離を置くようになった。

駿也は小中高一貫教育の学校に入学していたから、勉強もせず好き放題してどんどん堕ちていった。一方、自分の将来をしっかり見据えている啓太郎は勉強に励み、難関の公立高校に入学した。

日々勉学に勤しむ啓太郎と、学校もろくに行かず部屋に閉じこもり、夜になると徘徊するようになった駿也。

その頃から、駿也に友達ができるようになった。

寂しさを紛らわせるため夜の街をあてもなくうろつく駿也。ある日、ゲームセンターでパンチングマシーンに戦いを挑み、ゲーム機の上に山ほどの小銭を積み上げ何度も挑戦していた。その金遣いの荒さを見ていたガタイの大きなチンピラが声をかけて来た。

「兄ちゃん、ストレス溜まってるのか? 何回挑戦してもそいつにゃ勝てないぜ。それ、俺だからな」

「あ、そうなんですか……。」

「俺について来いよ。スッキリするものご馳走してやるよ!」

その間を割って入って来た少年。

「すいません兄貴、そいつ俺の友達なんで~。ご馳走は必要ないですよ」

「え、そうかお前の連れなのか……。じゃあ仕方ないな」

そう言って、駿也をハンターから守ったのが初めての友達、佳次だった。

佳次は一つ年上で、金髪にバンダナを巻きいつもステップを踏んでいる。何かある度ダンスを踊って楽しませてくれた。自分の知らない世界を魅せてくれる佳次に駿也はハマっていった。二人でうろついていた時に出会った一つ年下の高広は学校にも行かずチンピラの使い走りをしていた。どちらもただの遊び人。この二人が毎日のように地下に入り浸るようになった。

父親からいつも必要以上のお金を与えられていた駿也は、佳次たちが自由に出入りできるようにと、業者にドアの取付工事を頼んだ。ドアといっても庭に穴を掘るから大がかりだ。

敷地内に重機やダンプが入ってきてビックリしたたき。

「駿也坊ちゃま! 家を……家をどうされるんですか!?」

「たきさん、ごめん。驚かせちゃったね。僕の友達がしょっちゅう来るから、うるさいだろうと思ってね。外から直接入れるドアを付けてもらうんだ」

「ドア……? そんな大それた工事、旦那さまはご存知なんですか?」

「父さんには言ってあるよ。三日で完成さ。僕も便利なんだ。友達にも気を遣わせないで済むからね」

「それなら問題ございませんが……。でも坊ちゃま、坊ちゃまはまだ高校生です。お友達の親御さまも心配されます。夜は遅くならないようお願いします」

「うん、わかっているよ」

駿也はたきに嘘をついた。父親には言っていなかった。どうせ帰って来ないし帰って来たところで家の前しか見てないからわかりゃしないと。

二階の窓から工事の様子を見ていた啓太郎は、どんどん変わってしまう駿也に寂しさを感じると共にその先行きを懸念した。

空間だった広い部屋にはドラムやギターがセットされ、佳次や高広の友達も入れ替わり立ち代り出入りするようになった。ラップを歌う高広に合わせてステップを踏む佳次。バンドを組んでいる高広の友達に駿也はギターやドラムを教えてもらったりと、日々皆に囲まれ楽しい時間を過ごした。

ある日佳次が免許を取ってきた。

「佳次、免許取ったのか。おめでとう!」

「そうですよ~、これで何処でも行けますよ。あとは車だけですね~」

「あ、そうだな! 免許があっても車が無けりゃ何処にも行けないよな(笑)、じゃあ僕が買うよ!」

そう言って駿也は、自分は免許もないのにワンボックスカーを買い、佳次の運転で皆であちこち出かけた。最初は車を置いて帰っていた佳次も、だんだんと自分の所有物のように乗り回すようになっていった。

昼夜時間構わず頻繁に車が出入りするようになり、流石に我慢の限界となったたき。

「駿也坊ちゃま、最近の坊ちゃまはどうされたんですか? 食事も召し上がらず……。毎日のように夜遅くまでうろつかれて、高校生にあるまじき行為ではありません! お友達の皆さんも大丈夫なんですか? 私もこのまま黙って見ているわけにはまいりません。旦那さまにご報告いたします」

「たきさん、ごめん。食事は必ず食べるからキッチンに置いておいて。いつも友達と皆で勉強してるんだ。遅くなった時に友達を送っているだけなんだ。夜はあまり出かけないようにする。だから、父さんに余計な事言わないで……。ね、お願いだ、たきさん」

駿也にそう聞かされても、心配だったたきは啓太郎に相談した。

「啓太郎さん、駿也坊ちゃまは大丈夫なんでしょうか? いろんなお友達も出入りされてますし……。坊ちゃまはお友達と一緒に勉強しているとおっしゃってますが、本当なんでしょうか? もう心配で心配で……」

「最近は僕にあまり話してくれなくて……。駿也がそう言っているなら大丈夫じゃないかな?」

友達だと思っているのは駿也だけではないのだろうか? 危ないことをやっているんじゃないだろうか? このまま放っておいていいのか? 見て見ぬふりをするのか? 何年も一緒に過ごした兄弟じゃないか……。

キャンプ場でムカデを殺そうとした時、駿也は「寸の虫にも五分の魂、こいつにも家族がいるんだ。それに、ムカデは神さまの使いなんだ」そう言ってムカデを逃がしたこと。

ディズニーランドで迷子になった僕が見つかった時、駿也は泣きながら怒って僕を抱きしめたこと。

熊本の三三三三段の石段を半泣き状態になりながら、二人助け合って登ったこと。

浴室の落書きがたきにバレ、一日がかりで二人で消したこと。

駿也との思い出が頭に浮かび上がった。

分かり合えてた時もあった。駿也は根はいいやつなんだ。ただ寂しいだけなんだ。それは誰よりも僕が知っていることじゃないか……。

啓太郎は葛藤した。

悩んだ末に出した答えが、過ぎたことだ。たかが養子の身だ、要らぬおせっかいをするのはよそう。あと二年何とか乗り切ろう。卒業したらこの家を出ていくんだ。それまでだ。あと二年だ。そう言い聞かせ、堕落していく駿也を見棄てた。


駿也は友達から「隊長」と呼ばれ友達を仲間と呼び、その仲間を引き連れて夜の街に出かけるようになった。以前とは違ってクラブだ。酒の味を覚え、危ない連中とも関りを持ち始めた。女を連れて来るようになった佳次。その女たちは大麻や薬をやっていて普通じゃなかった。

「隊長、あっちはもう済んでるんですか~?」

「まだなら、さっさと降ろしましょうよ(笑)」

駿也はもちろんまだだった。そんなこと考えたこともなかった。

「え、僕は……」

「やっぱりそうなんですね~(笑)」

「お前たち、誰か隊長にレッスン頼むよ~!」

真っ赤な口紅と腰まで伸びた金色の髪。ミニスカートにブーツを履いた年上の女が駿也の手を引いて、寝室のドアをゆっくりと開けた。

それはあっけなく終わった。

こんなものなのか……。感情なんていらないんだな……。映画とは違うんだな……。

女は何事もなかったように部屋を出て行った。

それからは毎日のようにその女から手ほどきを受け、セックスの味も覚えた。

月に二~三度しか帰って来ない父親の前では、できた息子を演じる駿也。父親は息子が地下で何をしているのか、どんな友達がいるのかを知ってか知らずか放任していた。

高校二年生の夏の終わり。

「駿也、わかっていると思うが、勉強はしているんだろうね。お前は慶応に入るんだ。そのためにしっかり励みなさい。余分に入れておいたからね。わかっているね。必ず合格するんだよ。合格しなかったら、もうこの家は売却するからね」

売却するということは、ママとの思い出のこの家がなくなってしまうのか? 合格できなかったら僕は捨てられるのか? 

駿也は、父親に愛人がいることを知っていた。その愛人にも子供がいて、生まれて間もない息子がいることを。 

僕がダメでもそいつがいるから問題ないんだな。それとも、そういうつもりなのか? そうか、僕にはもう何も期待していないんだな……。

駿也は焦った。勉強なんて全くしていない。学校には父親が多額の寄付をしているおかげで、辛うじて籍を置けている状態だった。

優秀な家庭教師を雇ったらすぐに成績が上がるのか? いや、無理だ。だが、乗り切らなければ僕は、この家はおしまいだ。どうすればいい……。

焦ったとて今さら成す術がない。答えが見つからない駿也は落胆した。

寝室に閉じこもり、仲間が来ても部屋から出ようとしなくなった。その異変に気付いた佳次はシャブを調達して来た。寝室のドアを何度も叩きながら

「隊長! 隊長! ちょっと出て来てください!」

煩わしそうに寝室から出てきた駿也は、目を疑った。

前の部屋にはベッドが置かれ、素っ裸の女が仲間二人を相手にしている。異様な光景だ。

「隊長! これ、メッチャ気分が上がるんですよ! 見てください! あの女なんて、これでイケイケですからね~」

「佳次、ベッドなんかいつ入れたんだ」

「隊長がこの部屋は好きに使っていいって言ったんで……」

「まぁ、いい。が、大丈夫なのか……?」

「あの女のことですね! 大丈夫ですよ。自分から欲しがってやってるんで~」

「隊長もこれやって元気になってくださいよ~」

「佳次、僕はそれだけはやらない……」

「嫌なことも忘れて気分爽快っスよ~」

「それだけは嫌なんだ」

「そうなんですね。……隊長のために純度のいいやつ用意したんですけどね~」

駿也は返事もせず寝室に戻った。

佳次たちは薬にハマっている女を見つけて来ては淫らな行為にふけっていた。

駿也は酒を飲み一日中酩酊状態だった。佳次が時々「上玉」と言って女を差し出してくる。腰をくねらせウインクしたり舌を出したりと誘ってくる女たち。駿也は気に入った女だけを寝室に招き入れ、ゲームのようにセックスを楽しんだ。

酒に溺れ知性も理性も失った駿也、薬に溺れひたすら快楽を貪ろうとする女。お気に入りとなった二人の女が地下に現れては、頭の中から全てを消し去ってくれる。駿也は現実から逃れるためにますます快楽に溺れていった。

自分を見失ったまま時は流れ、一年が過ぎようとしていた。

堕落した生活で物事も短絡的にしか考えられなくなっていた駿也は、もう時間がない。あの息子をなんとかしよう。誘拐しようか……? それしかない。それが僕の生き延びる道だ。でも僕の弟だ……。そんなことできない。じゃあどうすればいい? 何かいい策ははないのか……? 

日々考えたが何も思いつかない。

そして諦めた。

もうどうだっていい! ママの思い出も、この家も……全部どうにでもなれ! 


開き直った駿也は頭がスッキリして楽になった。

気分が晴れ酒も飲まず、久しぶりに仲間と出かけた。常連だったクラブにお気に入りが居なかったからすぐに帰ろうとしたが、高広の「ファミレスに行こう」という言葉で、行ったことのないその店に向かった。

「いらっしゃいませ」の言葉とともに水を運んで来たウエイトレス。

グラスを差し出す白くしなやかな指先、伏し目がちな目元には長いまつ毛、包み込むような笑顔、艶のある黒髪、透き通る肌……。

駿也はすべてがキラキラして見えて、瞬きもできずに見惚れた。

その様子を佳次は目を凝らし見つめていた。

数日後、佳次は仲間を一人引き連れファミレスに向かった。飲み物だけを頼み「彼女」が来ていることを確認し店を出た。

ジーンズとトレーナーに着替えた彼女が黒髪をなびかせ裏口から出てきた。

駐車場で待っていた佳次たちは、自転車置き場に歩いて行く彼女を捕らえ、車の後部座席に無理やり押し込んだ。

「何! 何するのよ!」

「何するも、あんたを拾っただけですよ~」

「ハァ? 私をどうするつもり! あなたたちなんて知らないわ!」

「俺は知ってるんですよね~」

「あんたなんか知らないわよ!」

彼女は佳次の顔をグーで殴り足蹴りにした。

怒った佳次は彼女に平手打ちをお見舞いした。

気絶してしまった彼女の身体を仲間に押さえるように目配せし、頭に巻いたバンダナで猿ぐつわを噛ませ結束バンドで両手足を縛った。

ビルの谷間に車を移動させ、彼女の手を縛りシャブを打った。

「――――!!!」

気がついた彼女は叫び、縛られた両足で再び佳次を蹴り倒した。

「このアマ!」

佳次は、彼女が動けないよう座席に縛り上げた。

「気持ち良くないのか? おまえは鈍いんだな~」

「足りなかったからか? じゃあ気持ち良くさせてやるよ~」

そう言ってまた打った。

仲間が不安そうに

「やばいんじゃないですか? ……もうそれ以上はやめましょうよ……」

二人のやり取りを聞いた彼女は

「―――? ―――――!!!」

馬鹿にしたような表情で何か言った。

「お前、俺さまを馬鹿にしやがったな!」

頭にきた佳次は再び打った。

「――!!!」

いつまでも反抗する彼女に、佳次は更に追加した。

ようやくおとなしくなった彼女の鼻と口からは液体が流れ始めた。

佳次は彼女のジーンズを降ろそうとした。

「佳次さん、それはマズすぎます! 隊長のお気に入りなんでしょ! このまま供えましょうよ」

舌打ちをした佳次は納得のいかない顔を見せたが、すぐ冷静になり地下へと車を走らせた。

ノックもせず寝室のドアを開け

「隊長、プレゼントです!」

「めちゃ手こずりましたけど、もう思い通りです!」

目を凝らすとそこには、あの時のキラキラの彼女が佳次に抱きかかえられている。

「気が強いし、力もあって大変だったんですよ~。何回殴られたか……。その分何発もぶち込みましたけどね~」

「あ、大丈夫ですよ。そっちはぶち込んでません。まだ味見はしてませんから!」

駿也は言葉を失った。

虚ろな顔で鼻水とよだれを垂らし、立つことすらできなくなっている彼女。

駿也は込み上げてくる涙を抑えた。

「隊長、どうしたんですか?」

「佳次、おまえはなんてことを……」

「隊長、気に入ってたんじゃないんですか?」

「佳次、頼む今日はこのまま帰ってくれ!」

「あ、そういうことですね~(笑)、了解です。帰りま~す。思う存分楽しんでください」

「あ、ここに置いときますね~」

ドアの前、荷物のように転がされた彼女。

口笛を吹き、ステップを踏みながら佳次は出て行った。

駿也は彼女をベッドに運んだ。

生きた屍のように横たわったまま動こうともしない。彼女の口元を優しくふき取り、そっと髪を梳かしじっと見つめた。

白い肌、長いまつ毛、きれいな黒髪……。僕が、僕さえあの時……。

溢れ出る涙が止まらない。

駿也は嗚咽を漏らしながら何度も何度も詫びた。

そして自分の頭に彼女の手を当て、そのまま横で眠りについた。

―母に抱かれる幼子のような姿でー


明け方目が覚めた駿也は、彼女が勝手に出て行けないように両手両足をハンカチで結んだ。

二時間三時間経っても彼女は目を覚まさない。

このまま意識が戻らなかったら……

駿也は部屋の隅に座り、膝を両手で組んだままいたたまれない時間を過ごした。

その夜、ようやく彼女は目を覚ました。

「水……お水……。寒い、寒い……」

安心した駿也は大きく息を吐き胸をなでおろした。

震えている彼女に毛布を掛け、抱きかかえながらペットボトルの水を飲ませた。

「わたし……あなたに何かしたの」

「違うよ、何もしてないよ。間違えて連れて来られたんだ。僕は……きみを助けたんだ」

「じゃあ解いて……」

駿也が手首のハンカチを解きかけた時、地下のドアを開ける音が聞こえた。

「駿也、ちょっと本探すね~」

その声を耳にした途端、彼女が大きく目を開けた。

「啓兄ちゃん……?」

「えっ、優紀? 優紀か?」

啓太郎は寝室のドアを開け、その光景を目にした。

「優紀……」

そばにいる駿也に啓太郎がいきなり殴りかかった。

「おまえはー! 何てことしてるんだ!」

動けない彼女は弱々しい力でバタバタともがいている。

この状況では言い訳も何もできないな……。

と同時に、駿也の頭にある考えが浮かんだ。

「啓太郎、おまえの大切な……、あの彼女だったのか……」

「そうだ、僕の優紀だ!」

「僕にも必要な人だ。おまえに渡すわけにはいかない」

「何をたわけたことを! おまえは自分が何をしているかわかっているのか!」

「彼女は、薬なしじゃあもう生きられない。助けたかったら、僕の言う通りにするんだな……」

「啓兄ちゃん、……この人は助けてくれたの、私を助けてくれたの」

弱々しい声でそう話す優紀。

啓太郎の頭は混乱した。状況が飲み込めない。何が何だかわからなかった。ただ一つ分かっているのは大切な天使が、両手両足を結ばれ目の前にいることだけ。

「何でも言う通りにする! 優紀を自由にしてやってくれ」

駿也はハンカチを解いた。

「じゃあ、隣で話をしよう」

啓太郎は抜け殻のようになっている優紀の頭を撫で頬に手を当てた。

「優紀、ちょっとだけ待ってて……」

そう言って駿也とともに寝室を出て行った。

「駿也、おまえを見損なった! こんなことするなんて……許さない!」

「今さら言い訳する気はない。彼女をこんな目に遭わせたのは僕だ。だが彼女を今自由にする訳にはいかないんだ。啓太郎、落ち着いて聞いてくれ」

「彼女は大量に薬を入れられているから、今自由したら危険なんだ。ほんとの薬中になってしまう。僕はやっていないがその怖さを知っている。おまえには分からないと思うが……。薬が抜けるまでは一ヶ月ほどかかるはずだ。自分の意志だけじゃ抜くことはできないんだ」

「……一生かけて償うよ。約束する。だから僕の頼みをきいてくれないか」

「あぁ、優紀のためなら、何だってする! でも……、どうして優紀なんだ……。おまえは女にも不自由していないはずだ、なのにどうして……」

「まさか彼女がおまえの……。僕が、僕が……」


―一生かけて彼女を守る。一生かけて責任をとる。だが今を乗り切るためには啓太郎の力を借りるしかない。啓太郎と僕が入れ替わればいいだけだ。今だったらまだ間に合う。あいつは成績優秀だから必ず合格できる。それですべてうまくいくー

―もしもあの時、駿也と向き合っていたなら、こんなことにならなかったんだ。あの時逃げなければ。あの時見棄てなければ……。こんな事態を招いた責任の一端は自分にもある。それに……その程度で優紀を守れるなら容易いことだー

啓太郎は駿也の頼みを受け入れた。 


「優紀、僕は用があって出かけるから、少しの間この部屋で過ごしていて」

そう話す啓太郎の言葉に

「う……ん。わかった」

虚ろな表情をしたままだった。

留守にする間の優紀の面倒は高広に任せた。

「高広、彼女から薬を抜く。二週間で戻ってくるから介抱していてほしい。くれぐれも佳次にはバレないように……。頼むよ」

そう言いながら駿也は数万円入った封筒を渡した。念を押すように啓太郎が 

「高広くん、彼女は僕の大切な妹なんだ。よろしく、よろしくお願いします」

「あ……、はい!」

頼みごとをされたのが初めてだった高広。この機会に駿也の信頼を勝ち取ろうと思った。

「俺、高広って言います。ちょっとの間ここに居ます」

「啓兄ちゃんは……?」

「何処に行ったかは俺も知らないですけど、隊長から頼まれました。ここでしばらくおとなしくしていてください。必要なものは言ってくれたら用意しますから」

「何……意味がわからない……」

高広は、寝室にあるソファーを廊下に引きずり出し、裏口のドアに鍵とチェーンロックをかけた。ソファーで横になり、優紀が出て行かないように見張った。

翌日、佳次が現れた。チェーンの隙間から顔を覘かせ

「高ちゃ~ん、どうしてチェーンなんかしてるのかな~? ここで何してるのかな~?」

「佳次さん。俺、ちょっと用があって……。隊長もいませんから、今日は帰ってください」

「俺も用があって来てるんだよ!」

「佳次さん、頼みます! 二週間後に来てください」

「ふ~ん……。お前、俺さまに何命令してるんだ! こんなチェーン簡単に切れるんだぜ!」

そう言って、佳次は外に出て行った。

安心したのも束の間。佳次がチェーンカッターを手に舞い戻った。

「高広、切って入るぞ! いいんだな~」

これ以上佳次を怒らせたらどんな目に遭わされるかわからない。高広は観念した。 

「佳次さん……。すみません……、開けます」

入って来た佳次はニヤつきながら

「高ちゃ~ん……、なんかおかしいよ。俺に何か隠してないかな~?」

そう言って寝室のドアを開けた。

「そうか。隊長はお気に入りを独り占めしたかったんだな~。どうして俺じゃなくお前なんだ?」

そう言って首元を掴み顔を殴りつけた。

唇から流れた血を拭った高広は、任務遂行を諦め佳次に白状した。

「なぁんだ、そんなことか!」

佳次は駿也に見限られたと思い、唇を嚙みながらニヤリと笑った。

「高ちゃん、一日中だったらお前もきついだろうから、交代で見張ろうよ~。隊長から何か預かってないのか?」

高広は預かった封筒を見せた。中身を確認した佳次は一枚だけ高広に手渡し、封筒を自分のジーンズにしまい出て行った。

そして、佳次は毎日現れ優紀に何度もシャブを与えた。

 

駿也と啓太郎が手術室に運ばれた。五時間ほどして二人は別々の部屋に入れられ、二週間後包帯を外された。

鏡に映る自分の顔を見て啓太郎は噎び泣いた。容易いことだと思っていたが、実際はそうではなかった。駿也の哀しげな笑い声が響いている。

あいつだって同じなんだろう……。変わったのは外見だけだ。心まで変わっていない。それに……、あんがい男前じゃないか。

二人揃って病院を後にした。

タクシーを拾い帰宅する道中、運転手が嬉しそうに話しかけてきた。

「駿也坊ちゃまですね。大きくなられましたね。お忘れになられましたか? 横田です」

啓太郎となった駿也は答えた。

「よく覚えてないけど、僕の運転手だった人?」

運転手は駿也だと思った方ではない、もう一方から返事があったので一瞬慌てていた。

「十年以上前の話しですから、お忘れになるのも当然ですね、お互いに」

「あっ、……今日の事はもうお忘れください」

そして車は到着した。

父親の専用車が停まっている。

「あいつ、こんな日に帰って来てやがる……」

啓太郎(駿也)が小さな声で呟いた。

家から父親が出てきた。運転手を見るなり、目を細めて歩いてきた。降りた二人には見向きもしないで運転席の横に立って何やら話し、そのタクシーに乗り込み出て行った。

これ幸いと、二人は地下に降りて行った。

「隊長、お帰りなさい! しっかり見張ってましたよ~」

居るはずのない佳次が視界に入った。

「どうしてお前が……」

高広に目を向けると、目を逸らし俯いたまま地下を出て行った。

寝室を開けると足枷を着けられた優紀が目に飛び込んだ。

「何を着けてるんだ……。可哀相に……」

「…念のために着けてるだけですよ~」

「どうしても欲しがるんで、時々ほり込んどきましたから!」

「おまえ! それじゃあ……」

「くれ、くれって大声で泣き叫ぶから、お手伝いが何度もドアを叩くもんで……。仕方なかったんですよ~」

駿也(啓太郎)は涙を堪え優紀の足枷を外した。

「もういい、帰ってくれ」

佳次は嘲笑しながら部屋を出て行った。

駿也(啓太郎)は優紀をベッドに寝かそうとした。

「あなた、あの人と知り合い?」

「……」

「ねぇ、あなたも持ってるんでしょう! 早くちょうだいよ、早く」

「ほら此処に! 早く!」

そう言いながら右腕を差し出し、左手で駿也(啓太郎)の頭をパンパン叩いている。その姿をドアの前で呆然としながら見つめる啓太郎(駿也)。

「啓兄ちゃん、何つっ立てるの? 何ぼ~っとしてるの? 私としたいの?」

あの日キラキラだった彼女をこんな姿にしたのは僕なんだ……。

啓太郎(駿也)の足元に溢れた出た涙がしたたり落ちた。涙を拭い

「優紀ちゃん、僕とそいつとは兄弟なんだ。養子にもらわれたのがこの家なんだ」

駿也(啓太郎)は頭を叩く優紀の手を掴み、優しく話した。

「今きみは病気にかかっている。啓太郎が介抱してくれるから、治るまで此処にいて」

「えっ、啓兄ちゃんが! 嬉しい」

駿也(啓太郎)は優紀から離れた。

「啓太郎、僕は勉強に集中するから、当分おまえの部屋を使うよ。それから……僕は東大を受ける」

「優紀を……頼む」

そう言いながらドアを閉めた駿也(啓太郎)は、その場に立ちすくんだ。

あれは……本当に優紀なのか? まるで別人じゃないか……。あんな姿になって……。あんなことを言って……。

泥団子を食べようとした僕に「ふりをしたらいいの」と言って大人びた顔をした優紀。

僕をいじめた奴を押し倒しグーで殴り満面の笑みを浮かべた優紀。

目の周り鼻先を真っ赤にして無理やり笑った優紀。

腕相撲で僕を負かし憎たらしい顔をした優紀。

バイトに行き始めたと言って可愛いエプロン姿でポーズを決めた優紀。

花嫁修業と言って米を洗剤で洗っていた優紀。

会うたびどんどん綺麗になっていく優紀が走馬灯のように駆けめぐった。

僕の大切な天使が……。ほんとうに戻るのか……、ほんとうに大丈夫なのか……? 信じるしかない、駿也を信じるしかない。それしかない。今はただ勉強だけに集中しよう。

駿也(啓太郎)は必死に勉強した。

成績は優秀と言ってもレベルが高すぎる。だが、同じ高いなら国公立だ。僕は何としても東大に合格する。

啓太郎(駿也)は学校に怪我をしたという理由で休学届けを出した。優紀の学校には体調不良で当面の間休学すると連絡し、施設には前田家で過ごしていると伝え安心させた。

駿也(啓太郎)は学校に行って驚いた。久しぶりに授業に出席しているというのに、誰も声を掛けて来ない。友達に何か聞かれた時のための答えも用意していた。

駿也は友達がいないのか? 小中高一緒なのに、友達がいなかったのか……? そうだったんだな……。それを知り、自分本位に決断したあの時を再び後悔した。


日々優紀に詫びながら傍で見守る啓太郎(駿也)。

「啓兄ちゃん、あの人呼んできて! ちょっとだけでいいから」

何度も懇願してくる優紀。

「あの人? 駿也のこと? 駿也はそんなもの持っていないよ、駿也はきみを助けてくれたんだろう?」

「そうじゃない。違う人……」

「違う人? それって誰なのかな?」

「……」

薬が身体から抜けるまでどれぐらいかかるのか……? 量は多いだろうが期間は短い、そんなにかからないはずだ……。

「隊長~、絶品のブツ手に入りましたよ!」

二人のお供を連れて佳次が入って来た。

「駿也は今受験勉強の最中だ! 君たちと遊んでいる暇なんてない。佳次くん、もうこの地下もお開きにしよう」

「そうですか。じゃあ僕が拾ってきたその女は返してもらいますね」

「何よあんた、私を拾ったなんてふざけないでよ!」

「何言ってるんだ、忘れたのか……? 覚えが悪いんだな~。ほらおまえの好きなものを何発も入れてやったのは俺さまだぜ~」

佳次はバンダナを外し、左手に持ったパケをゆらゆらさせた。

「あ、あ! それ!!! 早く、早くちょうだい!」

「啓兄ちゃん、私あの人といる!」

苦労している日々が水の泡になる……。

啓太郎(駿也)は優紀が動けないように両足に手錠をかけた。

「どうして手錠なんか! 啓兄ちゃん、外して!」

叫ぶ優紀を無視して、三人を部屋から追い出しドアを閉め鍵をかけた。

「佳次くん以外は、出て行ってくれないか。彼と二人だけで少し話をさせてくれ」

「彼女のことは忘れてくれ。なかったことにしてくれ!」

佳次にそう伝えると、引き換えに金を要求してきた。

「隊長はここ最近俺らに冷たくて~。小遣いももらってないんですよね~」

「そうか、わかったよ。金のことは駿也に伝える。だから、もう此処には来ないと約束してほしい」

「此処にも来れないなら、そうですね……。ん~、百万で手を打ちますかね」

「百、百万……?」

まるでハイエナだ。こんな奴らをずっと仲間と思っていたなんて、友達と思っていたなんて。僕はなんて愚かなんだ……、憐れなんだ……。 

「佳次くん、わかったよ。すぐ伝えるよ」

「明日また来ますんで~。よろしくで~す」 

そう言って佳次は出て行った。

「啓兄ちゃん、あの人何処行ったの? 佳次さん? だったよね! 私、佳次さんに話があるの。一緒に行く! これを外して!」

「さぁ~、何処行ったんだろうね。僕にもわからないよ。それにまだ外せないよ」

「今ならまだ近くにいるかもしれない。啓兄ちゃん、連れて来てよ!」

「それより、映画でも観ようよ、何がいいかな? 観たい映画はある?」

優紀は下を向いて黙った。僕を騙す方法でも考えているのかもしれない……。

翌朝、現れた佳次を外に追いやり金を渡した。

「もう二度と来ないでくれ。駿也は受験だ。きみたちとはもう違う道を歩いているんだ。もう終わったんだ!」

金を手にした佳次はほくそ笑んだ。

「わかってますよ~」

そう言って口笛を吹き、ステップを踏みながら門の向こうへ出て行った。

佳次は友達だなんて思っていなかったんだな……。僕はただの金づるだったのか? そうなのか? 最初からか……?

啓太郎(駿也)は、もう誰も入って来れないように裏口の鍵を替え、外からも錠前をかけた。


「僕が此処にいる時は外すね。おトイレもお風呂もあるから、好きな時に使ったらいい。でも、外には出て行かないで……」

そう言って優紀の手錠を外した。

啓太郎(駿也)は一階へ行く扉にも鍵をかけ、ベッドの横のソファーで時間を共にした。

「啓兄ちゃん……、私、忘れてた! 佳次さんに借りていたものがあるの! 返さなきゃいけない!」

「何を借りたの? 僕が代わりに渡しておくよ」

「それはダメなの……。佳次さんと二人だけの秘密だから……」

「秘密? 秘密なら僕には渡せないな~」

「そうよ、そうなの! 啓兄ちゃんには迷惑かけないから、佳次さんと会わせて!」

「それがね……。佳次の居場所は僕もはっきり知らないんだ」

優紀はがっかりしたように俯き、そのままベッドで横になった。

「トイレに行く!」

そう言って寝室を出た優紀はトイレに行かず、一階へのドアノブを回している。出て行けないことを悟り諦めたのか、トイレに行って戻ってきた。

「出て行かないで。って、出て行けないじゃん!」

「あ、そうだったね……」

「嘘つき!」

「ごめんごめん、忘れてたんだ」

啓太郎(駿也)は、優紀が眠っている時を見計らって、たきが用意してくれている食事を地下に運んだ。

「私、ご飯なんていらない! 佳次さんに会わせてくれるまで、何も食べないからね!」

「そうか……。たきさんの料理は美味しいんだよ。食べたらいいのに。まぁいい、水さえ飲んでいたら死なないからね」

あの日、キラキラだった彼女の頬は痩せコケ、透き通る肌は黒ずんでいた。

薬を渇望し、優紀は苦しみ始めた。

「啓兄ちゃん、お願い……。あと一回だけ! あと一回だけでいいの。あと一回だけだから……」

「約束するわ! あと一回だけ! ほんとにあと一回だけ!」

啓太郎(駿也)はその言葉を聞いても黙って花の図鑑を見ていた。見ているふりをしているだけだった。

「啓兄ちゃん、私をあげる! 私を好きにしていいわ!」

「聞いてるの! 私のバージンをあげるって言ってるのよ!」

服を脱ぎ下着姿になった優紀が、啓太郎(駿也)の前でその身体をさらけ出した。

何ら動じない顔をしながら、自分の意志に背く股間の膨らみを図鑑で隠し

「何言ってるの? きみは妹だよ。それは大切にしなきゃいけないよ」

軽くあしらいそう言って下を向き図鑑に目をやった。

「ふ~ん、チューリップの花言葉は色によって違うみたいだよ~」

優紀はベッドのシーツを引き裂き枕を投げて来た。

「何がチューリップよ! 何が妹よ! ほんとはしたいんでしょ! 何カッコつけてるの! 馬鹿じゃないの!」

「あげるって言われて断る馬鹿がいるの!? 臆病者!」

「もしかしたら、インポなの? そうなんだ! 笑っちゃうよ!」

「だから出来ないんだ! 可哀そう」

「そうだよ、僕はインポで可哀そうな奴なんだ」 

日を追うごとに声を荒げ暴れるようになった。

「あいつを連れて来てよ!」

「えっ、あいつ?」

「佳次を呼んで来いって言ってるの! あんたじゃなくて佳次がいいの!」

「佳次はもう此処へは来ないよ。もう縁を切ったみたいだよ」

「じゃあ探しに行く! 私はあんたと縁を切る! 鍵を開けるんだよ!」

「ん~、鍵は何処だっけ? 駿也は何処に置いたのかなぁ?」

「ふざけるな! もういい! じゃあこれだ!」

そう言って、サイドテーブルに置いているピッチャーを割った。

割れたガラスを手首に近付け

「私死ぬよ! いいの?」

慌てた啓太郎(駿也)は、優紀の上に馬乗りになった。

「いいよ……。僕も死のう。きみと一緒なら怖くない」

そう言ってガラスを取り上げ自分の首筋に近づけた。

「僕が先だ!」

「やめて! やめて! 嘘よ! 死ぬなんて嘘! ……あと一回だけでいいの、一回だけで……」

啓太郎(駿也)は割れたガラスをダストボックスに入れ、絨毯に散乱している破片を拾い集めた。

「あと一回だけって言ってるじゃない! どうして! たった一回だけよ……」

「ごめんね……」

そう言いながら優紀の腕に手錠をかけた。

「何するのよ! くそったれ!」

「足はいいのか? あんたを蹴り倒すこともできるんだよ!」

「あぁ、好きにすればいい……」

優紀はベッドを蹴りソファーを蹴り泣き喚いた。

「一回だけだってお願いしてるのよ! くそったれ!」

「それだけは無理なんだ……」

優紀は何も言わず、ベッドに顔を埋めた。

そんな日が何日か続いた。

今が正念場だ! お願いだ、がんばってくれ! 乗り越えてくれ! 

啓太郎(駿也)は心の中でひたすら祈った。


一週間ほどして、ようやく優紀はおとなしくなった。手錠を外しても横になったままベッドから起き上がろうともしない。

「啓兄ちゃん、だるい……」

「何か食べようよ。食べたら元気になるよ。今日はサンドイッチだよ」

手渡そうとしたら、優紀の手は震え大量に汗をかいていた。

「食べる前にお風呂に入る? シャワーでも浴びる……?」

「いらない、面倒くさい……」

ただ上を向いてボーッとしたまま動こうともしない。時々独り言を呟いている。暴れる時もあったがそれも一瞬、どんどん生気がなくなっていった。

啓太郎(駿也)は、今までの自分を悔やんだ。

あの時の僕は何処に行ったんだ……。父より偉くなって見返してやると決めた、あの時の僕は? 偉くなるどころか金をせびるだけの憐れな息子に成り下がっている。キラキラの彼女をこんな姿にして、生きてる価値なんてないじゃないか……。

後悔だけがつきまとった。

もう一度やり直せるだろうか、今からでも取り戻せるだろうか……。

今できることをするしかないと、優紀の様子を見ながら、仲間たちと過ごした部屋を少しずつ片付けた。過去の記憶を拭い去るように、車を売り払いドラムやギターも処分し元の空間に戻した。先のことも考え、時間を調整して教習所にも通った。 

二週間ほどしてから、優紀が落ち着きを見せるようになった。

「今日の朝ごはんは僕が作ったんだ! ただのホットケーキだけどね(笑)」

「ありがとう、啓兄ちゃん。……私お風呂に入りたい」

「そうか! じゃあ、用意するね。ちょっと待ってて」

もう大丈夫だろうか……? 乗り越えたのだろうか……? 

そう考えながらバスタブを洗い、優紀が安心して入れるように準備を整え、部屋に戻った。

「お湯が溜まる間に、ホットケーキ一緒に食べようよ」

「啓兄ちゃん……、ごめんね。私どうかしちゃってた。……酷いこともいっぱい言ってごめんね」

「きみが悪いんじゃない、謝らなくっていいんだ。悪い夢を見ていただけなんだ」

啓太郎(駿也)は、ホットケーキを食べやすい大きさに切って優紀に手渡した。

「ほら、冷めないうちに食べようよ」

「啓兄ちゃん、右利きだったよね?」

「あ、うん、そうだよ。……フォークを使う時だけこっちなんだ」

「それに……、啓兄ちゃんまた声変わりした?」

「あ……、二か月ほど前に風邪を惹いてから喉の調子が悪くて……」

「そうなんだ。啓兄ちゃんこそ気をつけないとね、(笑)」

久しぶりに優紀は笑い、ホットケーキも平らげた。

「私、肌がカサカサになってる……。それに臭い! 笑けるほど臭い! 恥ずかしい……。お風呂でキレイにしてくるね」

「うん、石けんとか化粧水もちゃんと女子用を用意しているからね。それから、着替えは駿也のお母さんの服なんだけど、ちゃんと洗っているから……。とりあえず今日はそれを着ておいて。今度一緒に買いに行こう!」

「わかった! ありがとう」

「ゆっくり入っておいで」

シーツも枕も鼻が曲がるほど臭かった。啓太郎(駿也)は、その間に新しいものに交換し、掃除機をかけた。

ほんとによくがんばってくれた、耐えてくれた。……ありがとう。

戻って来た優紀を見て、啓太郎(駿也)は息をのんだ。

ママに似ている……。ママに似ていたからなのか? いや、あの日僕は運命を感じたんだ……。時間が止まったんだ……。

「啓兄ちゃん、今私に見惚れてたんじゃな~い? 私、キレイになった?」

「うん、まぁまぁかな~(笑)」

「何よそれ。可愛い妹にお世辞ぐらい言えばいいのに!」

啓太郎(駿也)は、穏やかになった優紀に少しだけ安心した。

「そうだ、駿也が言っていたんだけど。この家で一緒に住まないか? って」

優紀の退居日までは一年と少しある。啓太郎(駿也)は、まだまだ心配だった。何より離れたくなかった。

「えっ、そうなの? 嬉しい! じゃあ、啓兄ちゃんとずっと一緒に居られるの?」

「うん、そうだよ。じゃあいろいろ準備をしないといけないね」

啓太郎(駿也)は父親に連絡を入れた。

「父さん、啓太郎の妹……。施設で一緒だった女の子がいるんだけど、この家の空いている部屋を使ってもらってもいいかな?」

「ちゃんとした娘ならそれは構わんよ。それよりどうだ、勉強は捗っているのか? 分かっているだろうね」

「もちろんだ父さん。がんばってるよ!」

「その女の子は優紀ちゃんって言って、僕より一つ年下で真面目な優等生だ。じゃあ、そういうことで」

父親にも報告したから、これで彼女も自由に家の中を歩き回れる。

荷物を取りに行くため、啓太郎(駿也)は購入したばかりの車の助手席に優紀を乗せ、運転しながら時折横顔を盗み見た。

「啓兄ちゃん、さっき私のこと見たでしょう?」

「……うん、キレイな横顔だなぁって思って」

「えっ……、何か変よ啓兄ちゃん……」

「冗談だよ、髪にカメムシが止まってたんだ」

「えーっ! やだ! 何処、どこ?」

「それも冗談(笑)」

「もう、啓兄ちゃんたら!」

啓太郎(駿也)は、このまま時が止まればいいと思った。

施設につくと、優紀の姿を見て職員たちが喜んで駆け寄った。

啓太郎(駿也)を見るなり

「優紀ちゃん、あなたと一緒に居るのならどうしてもっと早く連絡くれなかったのよ! みんな心配してたのよ! 捜索願いまで出したんですからね!」

「すみません……」

「今さら言っても、よね。こうして無事だったんだから……」

「優紀ちゃんの荷物と一緒に、あなたにも渡し忘れていたものがあるのよ。それも忘れず持って帰ってね」

優紀の荷物はわずかだった。洋服や小物、勉強道具などを合わせても段ボール箱二つに収まった。

十年以上も住んでいるのに、たったこれだけか。僕は恵まれ過ぎていたんだな……。

荷物を車に入れた後、手渡されたのは一枚の封筒だった。

家に着き荷物を降ろし、部屋を案内した。

「駿也、入るね~」

「優紀ちゃんは今日からここで住むことになった! この部屋の隣。妙な気を起こさず、勉強に専念してくれよ」

「当たり前だろ! あ、ごめん。優紀、ちゃん、もう身体は大丈夫?」

「はい、大丈夫です、ありがとうございます。いろいろご迷惑をおかけしてすみませんでした……。今日からよろしくお願いします」

「迷惑だなんてとんでもないよ! 僕の方こそよろしく!」

いつもの姿に戻っている優紀に駿也(啓太郎)は安堵した。これでますます勉強に集中できる。

「きみの部屋はこっち、啓太郎の隣。……あっ、でも受験が終わるまでは駿也が使うんだけどね」

「なに? 自分のこと名前で言ってる。可笑しい」

危ない、危ない……。彼女は勘がいいから気をつけないといけないな。それよりも、当面のことを考えておかないと。落ち着いていると言っても不安は拭えない。フラッシュバックが起きる可能性もある。一度薬にハマったら、近寄ろうとする奴らが蔓延っている。 

「そうだ、お願いがあるんだ。バイトを辞めて、たきさんの食事の準備を手伝ってあげてくれない? ほら……、花嫁修行にもなるんじゃないかな(笑)」

「えっ、でもバイトに行かないと……」

「バイト料はもちろん出してもらうよ! 食べれるものさえ作ってくれたらね」

「何よそれ。言っておきますけど私、料理上手いんだからね!」

「そうだった? よね……(笑)。それから、学校へは車で送り迎えしてもらうように運転手さんに頼んでおいたから」

「え~! 何だかお嬢さまみたいで嫌だ……。自転車で行くよ」

「違うんだ! きみはちょっと痩せたから、転んで怪我でもしたら大変だし、世の中変な奴も多いから……」

「それと、この携帯電話も持っておいて。地震があった時用に」

「私のこと、まだ心配なのね……。そりゃあそうよね……。わかった、じゃあ啓兄ちゃんの言う通りにする」

やっぱり彼女は勘が鋭い。

「たきさん、紹介するよ! 僕の妹の優紀ちゃん。今日からこの家で住むことになったんだ。料理が得意みたいだから、たきさんいろいろ教えてもらって(笑)」

優紀は啓太郎(駿也)を睨みつけた。

「さようでございますか! 優紀ちゃん、たきと申します。この家のお世話を任されて十五年以上経ちます。お人形のように可愛い方ですね~。お料理の腕前も楽しみにしておりますね」

「優紀です。腕前なんて……、ほんとは全く出来ないんです! たきさん、修行させてください。よろしくお願いします」

「優紀ちゃん、ほんとに可愛い方! こちらこそです」

紹介を済ませ、部屋に戻る途中

「啓兄ちゃん、料理が得意なんて! 知ってるくせに意地悪ね!」

「ごめん、……上達したのかと思って」

「もうホントに恥ずかしかったんだからね。穴かあったら入りたかった!」

怒っている彼女も可愛いなぁ。と、啓太郎(駿也)は怒られていることも忘れて見惚れていた。


預かった封筒を駿也(啓太郎)に渡そうと手に取った。逆さに持ってしまい中身が落ちた。拾い上げた時ふと目に留まった文字。

ー横田弘志ー

横田、聞いたことがある……。気になって書類を確かめてみた。

交通事故の実況見分調書と供述調書の写しだった。啓太郎の事故か?

被疑者が横田弘志、業務上過失運転致死罪:報告義務違反:救護義務違反。供述書には事故の状況が詳しく書かれていた。日時は平成八年七月二十三日午後七時二十五分ごろ。横田弘志が安全運転義務を怠り、自転車で走行中の四人を撥ね、そのまま逃走……三時間後に本人出頭。被害者四人のうち一人は即死。二人は全身打撲と脳挫傷により三時間後に死亡。一人は無傷。そして、運転していた車両の所有者は株式会社前田と。

これ父さんの会社じゃないか……。それに、ママの誕生日だ。この前乗ったタクシーの運転手、横田って言ってたよな。

そしておぼろな記憶を辿った。

この年って僕が五歳の時だ。幼稚園の送り迎えをしていた運転手だ。僕によく話しかけてくれていた。ある日いきなり、別の運転手になっていたんだ。そうだ、この年にママは自殺したんだ。

啓太郎(駿也)はこの内容が気になり始めた。母の死の原因は、幼心に父であると思っていた。家にほとんど帰って来ない父に母は苦しめられ自殺したのだと。

横田に事故の話しを聞こうと思った。あの日乗ったタクシーの会社は覚えている。横田とはすぐに連絡がつき、街の小さな喫茶店で待ち合わせた。

「そうなんですか、前田家のご養子になられたんですか。坊ちゃまはいつも一人で心配でしたから、それはよかったです」

「あれから、お母さまも亡くなられたようですし……」

「あれからって、事故を起こした時のことですか?」

「えっ、何故きみが事故のことを……」

「駿也から聞いたことがあって、あの事故の加害者はあなたなんですか?」

「あ……、はいそうです。お相手のご家族さまには取り返しのつかないことをいたしました」

「でもあなたは生きているじゃないですか、何の罪もない人たちが死んだんですよ。小さな子供が独りぼっちになったんですよ……」

「……罪は償いました。私は十年間刑務所に入ってました。一昨年出所したばかりです」

「十年? ……あの家族は一生を失くしたんですよ」

「……」

「じゃああの日、父はあなたのタクシーに乗ってどこに行ったんですか」

「それは……社長とは、出所した後は二度と前田家と関りを持たないと約束しておりました。それがあの日偶然にも坊ちゃまを乗せ、社長の目に触れてしまったのです。二度とないようにと、社長からお

私の拙い作品を最後まで拝読してくださり、ありがとうございました。


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