夢枕の忘れ物
幾年かぶりに正月に実家に帰ったら、盆正月の墓参りくらいちゃんと帰って来いとばあちゃんに怒られた。
葬式のときに見たままのじいちゃんの遺影は、あいもかわらずしかめっ面で僕を睨んでいた。
知らないガキが一緒におせちを囲んでいたので誰かと問うたら、兄貴の嫁さんの弟だという。まだ中学生らしい。人見知りするようで、大人たちの会話には入ってこなかった。
食事を終え、駅伝を観ながら微睡んでいると、ガキはひとり熱心にスマホ画面を撫でていた。なにをしているのかどうでもよかったが、あまりにも真剣なのでちょっかいを出してみたくなった。
僕があからさまにガキの手元を覗いてやると、そいつはすこしだけ驚いて、あまりにもあっさりとその画面を僕に差し出した。
「おじさん、こういうの興味あるの」
その画面には、真っ黒な背景に赤や白の細かい文字でずらずらと長文が書かれていた。非常に見づらい。どうやらホラー系の投稿サイトのようだった。
「おじさんって言うな。そういう君は幽霊とか信じちゃうのか」
まんざらでもない僕の反応を見て、そいつは一気に距離を詰めてきて急に饒舌になった。
「最近、話題になってる病院があるんだ。〇〇県の〇〇総合病院っていうんだけど」
「あれ。その病院うちの近所だぞ」
〝神頼みする前に、まず診察〟がキャッチコピーの大病院だ。
「そうなの? 都会に住んでるんだね、おじさん。この病院に出るらしいよ、幽霊が」
「幽霊が出ない病院のほうが珍しいの」
「そうなの?」
「産まれてくるよりも亡くなる人のが多いんだ、そりゃなにかしらあるだろう」
「そうだとしても、ここの病院に出る幽霊はひと味違うんだ! 生きてる人に悪さなんかしないで、良いことをしてくれるんだ」
「生きてる奴の寿命を伸ばしてくれるとか?」
「そんなんじゃなくて、もっと現実的」
ガキが語るには、この〇〇総合病院のとある病棟には老女の霊が出て、入院患者に助言らしきものをしてくれるらしいという。
「忘れ物を教えてくれるんだってさ! すごくない?」
黒い画面の白い文字を指差して、ここに書いてあると息を荒らげている。
「そんなもの都市伝説だろう」
あまりの胡散臭さに僕は、ガキの語るのを話半分で聞いていたが、僕自身がすぐにその〇〇総合病院にお世話になってしまうとは思いもよらなかった。
***
正月休み明け、ひとり暮らしの部屋に戻った僕に、いままで墓参りしてこなかった分の先祖のツケがまわってきたのか急に体調を崩してしまった。
お腹が痛い、頭が痛い、吐き気がする。熱もある――気がする。
かかりつけの医院が休みだったので、僕は件の〇〇総合病院へ向かうことにした。近所でもあるし。
そして、あれよあれよという間に検査入院することになってしまった。
病院の廊下は走ってはいけません、静かにしなさい。なんてよく言うが、実際に入院してみると病院は雑音で溢れている。
相部屋なんてとくにそうだ。
隣や向かいのベッドの患者にお見舞いに来る人や、定期的に様子を見に来る看護師たちとの会話が筒抜けだ。
入院手続きやら検査の説明やらをひと通り終え、疲れてしまった僕はすこし眠ろうと思った。診察室で医者の白衣のシワを数えながら痛みをこらえていたのだが、病室へ来てしまったら痛みなんてどこへいってしまったのだろう、それほど苦しくなくなっていた。
布団を胸までかけたそのとき、隣と間仕切りしているベージュのカーテンがいきなり開き、若い男が身を乗り出して僕に話しかけてきた。驚く間もなかった。
僕と同じくらいの若い男で、数日前に入院してきたという。
「知ってます? この内科のどこかの病室で、心霊体験ができるらしいですよ」
「はぁ‥‥」
ーーあの噂か。
「結構有名らしいですよ、ここの心霊話」
「そうなんですか」
「関東の心霊スポット百選とか、病院の都市伝説系のSNSで有名なんです」
「へぇ」
やはり興味を持てなかったが、ここの病院がその筋でも評判なのはなんとなく理解した。
「どの病室のどのベッドかは判らないんですけど、夜半、とあるひとつのベッドにだけ、寝ていると枕元に老女が立つんですって」
「それは怖いですね」
ちっともそんなことは思っていないが、とりあえず相づちはうってやることにする。
話し声がうるさかろうと思ったが、幸い、向かいの人たちはベッドに居ない。
「それで、横になっているこちらになにかを訴えてくるんです。哀しそうな表情と、ツラそうな声で見おろしながら」
若い男は点滴のチューブを指先でいじりながら話す。
「最初は怖いから目をつぶって聴こえないふりをしてやりすごそうとしても、やっぱり声はするし老女はそこに立っている。そこで、なにを言っているのかをよぉく耳をすませて聴いてみると‥‥」
男はひといき溜めて、したり顔で口を開いた。
「指輪、指輪‥‥って」
「え。そこは恨み節とかじゃないんですか。もっと生きたかった、とか」
「まぁまぁ、最後まで聞いてくださいよ。なんて言っているのかが判明した途端、いきなり眠くなってそこで意識は途切れるんです。翌朝、昨夜の体験を担当の看護師に話すと、そういうことよくありますよ、なんて流されちゃって」
「それで?」
「それで、ええと、それでも毎晩のように老女が枕元に立つんです。そして指輪指輪とこぼし続ける。眠っているこちらも毎晩その調子じゃたまりませんから、看護師に幾度も幾度も話したんですって。こういう背格好で、こんな寝間着を着て、って。そうしたら、ひとりの年配の看護師が思い当たることがあるって」
「なるほど」
「そこのベッド、その患者さんが入ってくるちょっと前、ひとりの老女がまさにそのベッドで息を引きとっていたらしいんですよ。医療ミスとかじゃなくて、とくに問題もなく老女を送ることができたそうなんです。老女の持ち物は家族へ渡され、使用していたシーツやら布団やらは新しいものに変えられて」
「未練なさそうじゃないですか。なにも化けて出てこなくても」
「それが、あったんですよ、未練」
「指輪を忘れてたとか?」
「ああもう! なんで先に言っちゃうんですか! さては知らないふりをしてこの話、知ってましたね?」
「いや、初めて聞きますよ。すみません、オチ取っちゃって」
「まぁいいですよ。とにかく、病院側が老女の指輪だけ家族に返すのを忘れてしまったらしいんですよ。そのとき担当していた看護師さん、いま俺の担当らしいっていうのは内緒です」
話はそれなりにおもしろいと感じてきたのに、最後のどうでもいい情報に頷くのも呆れてしまった。
「本当なんですかそれ。情報ガバガバじゃないですか」
「指輪を渡し忘れていたことに気がついた看護師は、すぐに家族に返却したそうなんです。そうしたら、その日から老女は指輪のことはこぼさなくなった」
彼は判りやすく唾を飲み込み、続ける。
「その代わりに、新たにベッドを使用する患者の忘れ物を教えてくれるようになったんです。この老女はどうにも親切で、なにか忘れていたら教えてくれるみたいなんです。こういうのって大体、成仏して出てこないもんですけどね、面白いですよね」
「....そうですね。指輪の返却に満足したら、もう化けて出てこなくてもよさそうなもんなのに。まあ、こういう都市伝説とか迷信の類は得てしていい加減なものだと俺は思います」
僕の言葉になぜか彼は不機嫌になってしまった。
「全部が判ってしまったらつまらないじゃないですか。実は指輪だけでは成仏してないのかもしれないじゃないですか。不明な部分も含めて怖かったり面白かったりしません?」
「それは、一理ありますけど‥‥」
「俺だってまだ会ってないから、判らないことはたくさんあるし、所詮はネットの情報ですし」
若い男は点滴のチューブに溜まった気泡を指で弾く。
「会いたいんですか、その老女に」
「もちろんです! だからわざわざ県外からここへ来たのに‥‥っていうのは盛りすぎで、たまたまかかった病院がここなんです。病院の評判を調べようとネットで検索したらこの話にたどり着いたんです」
「それは病院としてはどうなんですかね。こういう病院の心霊系の話って特定されたらマズいと思いますけど」
「近所の人とか、その場所を知ってる人だったら匿名にされても判るときは判りますよ。それに、テレビ取材もいくつか来たことがあるらしくて。タレントさんが検証したみたいなんですけど、まぁ結果はお察しということで」
「へぇ。でもあなたは諦めてないと? あなたもなにか教えてもらいたいんですか、忘れている物」
「そうです! せっかくここの内科に入院したんですから! でも、なにを忘れてるのかを忘れてるので、いざ教えてもらってもなんのこっちゃ判らないかもしれませんね」
「この話、どうやって広まったんですか。口コミ?」
「この体験をしてる人が結構いるからですよ。〇〇県の〇〇総合病院には、忘れているものを教えてくれる親切な老女の幽霊がいる、って。ほんの数年前からですけどね。でも、わりと新しめの話なんです」
「それで都市伝説みたいになったっていうんですか。もし老女の話が本当なら、この病院は別の方向で繁盛しそうなものですけど」
「そこはどうなんですかねぇ。ホラー系のサイトではそれなりに有名ではあるんですが‥‥。どこのベッドでもいいってわけじゃないんです、その、老女が使用していたベッドじゃないと」
「そこまで詳しいのに、まだ老女には」
「会えてないんですよぉ」
いままで揚々と語っていたのに、若い男は判りやすく肩を落とした。
「このベッドじゃなかったみたいなんですよ~。毎日のようにいろんな病室に行ってはどこに老女が出たかこっそりと調査してるんですけど、出会えなくて」
なんて迷惑な患者だ。
「もしもそのベッドに当たったとして、確実に老女が出てくるとは限らないですよね」
「そこも判らないから困ってるんですよ。‥‥そういえば」
「なんですか」
男の目の色が変わったのが見て取れた。
「先日まであなたのそのベッドを使っていた人、ずっと寝たきりだったからどうすることもできなかったんですが、あなたなら大丈夫そうですね」
厭な予感がする。
「今晩だけ、ベッド代わってくれませんか」
両手を合わせてちいさく頭を下げられる。そのとき腕に点滴のチューブが引っかかり、制御装置のような機械から外れてしまいエラー音が響き渡った。
「あ」
男はナースコールを押して、その旨を伝えてから、再び僕に向き直っていやらしい笑みを浮かべた。
「お願いしますね、消灯後に」
*****
検査入院といっても、僕の場合はたった一日で終わってしまうらしい。
翌日に検査をして、そのまま退院できるそうだ。
あの晩、消灯になってからこっそりとあの男がカーテンを越えてきて、頼み込んできた。
最初は断っていた僕だったが、あまりにもしつこいのとまわりに迷惑になるだろうという判断で、渋々OKしてしまった。
ベッドを交換したことがバレたら怒られるだけで済まない気がする。
交換後すぐにカーテンがそっと揺らめいたので、僕はちいさく声をかけた。
「出てくるといいですね、老女」
「はい! ワクワクで眠れません」
「まだそのベッドかどうか判りませんけどね。それに、ちゃんと眠らないと出てくるものも出てきませんよ、きっと」
「そうですね‥‥! いやぁ、ありがとうこざいます」
「いえ‥‥朝、どうだったか教えてくださいね」
「もちろん! それじゃ、おやすみなさい」
そうは言ったものの、男はしばらく眠れないようすだったが、僕もうつらうつらしてきたころ、隣からいびきが聴こえてきた。
そんな調子では、彼の入院生活は退屈していないだろう。
翌朝、朝食の時間よりも早く僕は検査に連れ出されてしまった。
僕のベッドに僕じゃない人が眠っていたので看護師にはしこたま怒られたが、それでも隣の彼はまだ眠っていた。
彼の結果を聞くのは、僕の検査がすべて終わってからになりそうだ。
いろんな検査室をぐるぐると連れまわされ、昼過ぎにようやく病室へ戻ってきた。
カーテンの隙間から見えた彼は起きていて、ぼんやりと天井を見つめていた。
これは、出会えなかったか、老女に。
僕はカーテン越しに声をかけた。
「どうでした」
「―――」
「‥‥あの」
そっとカーテンを揺らしてみると、ようやく返事があった。
「ああ、会えましたよ」
思わぬ返答に、僕もわずかにテンションが上がる。
「そうですか、まさかこのベッドだったなんて。それで、なにか教えてくれました?」
「あはは、なんでこんなこと忘れてたんでしょう、俺」
男の声は、昨日のようなハリは無く、心ここにあらずという風だった。
「なにか、衝撃的なこと言われたんですか」
僕はからかい半分に訊いた。
「何年も会ってなかったもんなぁ。死んだって話は聞いてたけど、まさかなぁ」
誰かを亡くしたのだろうか。それを、老女が教えてくれた? 僕が問おうとすると、カーテンの隙間から手が伸びてきて、シャッと音を立てて大きく開いた。彼はその手で寝癖頭を搔きながら僕を見た。その表情のなんとも言えない物悲しさに、これは嘘ではないぞと謎の確信を得た。
「まさか、本当に老女が出たんですか?」
「出ましたよ。出ましたし、忘れ物を教えてくれるのもマジでした」
「なにを、忘れてたんですか」
「指輪みたいに可愛いもんだったらよかったのになぁ....枕元に立つ老女なんですけど、俺の祖母でした。葬式に出なかったから、俺。お盆も正月もまともに実家に帰ってなくて、仏壇や墓に一度も手を合わせてなくって。哀しそうな顔してたなぁ」
彼の声に重なって、あの点滴のエラー音が響く。
「なんで忘れてたんだろ、ばあちゃんのこと」
「‥‥墓参りは、行くもんですよ」
俺にはそんなことくらいしか、かけてやれる言葉がなかった。
もし、僕がその老女に会っていたら、なにを教えてくれたのだろう。そんなことを思いながら僕は退院した。老女はその後もあの病院にまだ出るのか、孫へ思いを伝えられて満足して成仏し、出ることはなくなったのかは判らない。彼もどこが悪くて入院していたのかも知らないが、無事に退院して老女ーー祖母の墓参りに行けていたらいいなと思うばかりである。
僕のほうこそ、実家のばあちゃんに怒られないように、件の老女に夢枕に立たれないように、墓参りは欠かさないようにしようと強く思った。
今度あのガキに会うことがあったら、今回のことをすこしだけ自慢してやろう。
了