【第1話】神田川の地下、存在を操作する装置
地下に通じる鉄階段を、コツコツと革靴が鳴らす。
天井の蛍光灯は一部が点滅し、蜘蛛の巣が風もないのに揺れていた。
空気は冷たく、古いカビの匂いとわずかなオゾン臭が鼻をつく。
この地下空間は、数十年前に廃業した電子部品メーカーの研究施設跡地だった。
不動産登記上は「防災備蓄倉庫」。誰も本当の用途を知らない。
長谷川 陸は、5年前からこの場所を借り、
一人で、誰にも知られない実験を続けていた。
部屋の中央には、巨大な装置が鎮座している。
直径2.3メートルの半球構造。
内側には超伝導コイルが螺旋状に配置され、外殻には耐電磁シールドが張られていた。
空気中に、常に“何かがずれている”ような感覚が漂っている。
この装置こそ、陸が人生をかけて設計し、
自らの存在を世界から“ずらす”ために作り上げた機械──**EVE(Evolutional Vibrational Engine)**である。
彼の手元には、英語と数式がびっしりと書かれたノートパッド。
数百ページにわたる設計と理論の記録。
理論上は、すでに完成していた。だが、今日が“初稼働”だった。
「……観測されないってことは、存在しないのと同じじゃない。
逆に言えば、“観測を拒否できれば”、違う存在になれる」
呟きながら、陸は操作台に座る。
複数のモニターが同時に起動し、中央のスクリーンに波形が浮かび上がる。
脳波、心拍、意識強度、脳内α波の同調率。
すべてが、“EVEとの接続条件”を満たしていた。
彼の指が最後の実行キーを押す。
【EVE起動:1stフェーズ 開始】
【自己重畳位相:+0.012R】
【観測データ転送:停止】
【HOST IDENTIFIED】
【長谷川 陸──観測不能準備完了】
同時に、世界が音を立てて変わった。
空気の密度が変わる。
時空が揺れる。
背中に、“落ちるような感覚”が走る。
「これが……“ズレ”か」
陸の視界は揺れ、部屋の壁が二重に見え始める。
自分の指が、波のように遅れて動く。
そして、彼は立ち上がる。
このままでは“自動転移”が発動する可能性がある。
その前に、“自分の足でこの世界を出る”ことが、彼の望みだった。
ノートパッドを閉じ、白衣を脱ぎ、
いつもの黒いコートを羽織って階段を上がる。
「さようなら、観測された世界」
彼は、地上へ向かう。
その瞳には、まだ誰も知らない“世界の外”が映っていた。東京・秋葉原。
高架下、歩行者の少ない深夜の交差点。
そこに、誰にも観測されていない存在が歩いていた。
──長谷川 陸。
この時点で、彼の“実存”はすでに微妙にズレていた。
量子干渉エンジンEVEによって、彼の存在はこの世界から半ば“観測停止”されていた。
それは数値で見えるものではない。
誰かが彼を見ても「見えた」とは認識しない。
彼の足音は記録に残らず、監視カメラの映像にもブレと歪みが走る。
空気の振動が、“彼”を避けて流れていく。
彼は、世界のルールから一歩はみ出した“存在未確定体”だった。
(完全に……“観測”が外れつつある。あと少しで……)
彼の視界には、世界が“二重化”して見えていた。
交差点の向こうには、現実の景色と、微かに上書きされるもう一つの風景。
言語化できない感覚。構造化される直前の世界。
そこへ──光が差し込む。
大型トラックのヘッドライト。
視界が白く染まり、次の瞬間、時空そのものが裂けた。
だが、衝突の瞬間、陸の存在座標が確定しなかった。
“誰も観測していなかった”からだ。
それゆえに、彼は「事故死」しなかった。
代わりに、世界そのものから“観測不能な存在”として脱落したのだ。
そして彼の意識は、EVEの制御下で、
次元断層へと転落していく──
目を開けても、何もなかった。
いや、むしろ「目」という器官の存在そのものが意味を持たない場所だった。
──白。
だが、単なる色ではない。
五感すべてが「白」に染まる。
皮膚の裏側、脳の深部、意識そのものが“白”の情報を浴び続けていた。
(……ここは……どこだ?)
答えはなかった。
代わりに、空間全体から“感触のない声”が届く。
【PHASE CREVASSE:位相断層に到達】
【ホスト意識:HASEGAWA_RIKU】
【観測不能率:99.83%】
【リンク装置:EVE_Prototype #04 ─ 稼働中】
【現実座標:ZETA LAYER】
──確かに、ここはEVEが接続した“観測外の空間”だった。
この場所では、時間が進まない。
空間も意味を持たない。
感情も、肉体も、輪郭を持たない。
(俺は……今、“存在してない”?)
否。
むしろ、“観測されていないだけ”で、確かにここに在る。
この違いがすべてだった。
陸の意識は、自身の構造を再編成し始めた。
この空間は「無」ではなく、「前」。
すなわち、**世界が形を持つ直前の“可能性の泡”**のような場所。
そして──確率の“枝”が動く。
新たな座標、新たな物理、新たな観測者を求めて。
【レイヤーZETA内に、受容対象世界を発見】
【物理構造:安定】
【精神適合率:92.6%】
【転移座標を確定──】
次の世界が、彼を**“迎え入れようとしている”**。
そしてその瞬間、
陸の意識は、肉体と情報の再構成を受ける。
粒子が彼の形をなぞり、情報が骨格をつくり、観測が“人間の形”を与える。
「俺は……この世界に、“新たに観測される存在”として──」
意識が、再起動する。
今度も出してくよん
お楽しみに☆