雨に濡れて、春に揺れて
いつになく、春を感じる今、あらためてこの『うた』を──。
──あなたはなぜ歌うのですか?
多分、それは歌わずにいられなくなって、そこにただ一人聴いてくれる人がいるから──
夕暮れと夜の境目に、あの人はやってきた。私がギターケースを開けて、マイクスタンドを立てて、今日歌う歌のリストの確認をして、顔をあげるといつも私の真正面にあの人は立っていた。
ロックミュージシャンみたいな黒いスーツ姿で棒立ちのまんま、無表情で無言で時には私を睨みつけたりなんかした。
触れたこともないのに、愛撫してるみたいにあの人は私を吸い込むように直視する。角っこの酒屋の壁につけられた時計が20時を指す頃、あの人は小さな財布から130円とりだして、ギターケースの中に入れて、大通りへと消える。
そんなあの人の姿がある日突然見えなくなった。名前も知らないし、年もわからない。スーツを着てるから仕事帰りかな? ということぐらい。私の歌声を聴いて歓声をあげるわけでもなく、私の歌声を聴いて拍手をするわけでもなく、ただギターケースに毎回130円を入れるだけ。毎日きてくれてるから、私は、ほんの少しだけ勘違いして。勝手に私のファンなんだと思っていた。本当のことはわからないまんまに私の歌の何かがひっかかって、その人の体がほんの少しだけ揺れる。私の歌の何かがひっかかって、その人の人差し指が少しだけリズムを取る。私はその微かな揺れを毎回見逃したくなかった。
ずっと続かない日々は決まりきったことで、それがわかってるのに、いつの間にか私はその人に向けて言葉を探した。
話しかけてしまえば、今までのすべてが夢になりそうで、冷蔵庫の上に並べたジャムの瓶に毎日入れてゆく、あの人がくれる130円だけが私とあの人の目盛りのような気がした。姿を見なくなったのは5月。転勤になったのかもしれないし、会社を変わったのかもしれないし、『まさかとは思うけど入院なんてしてないよね? 』話す人もいない私は、私自身に問いかけた。こんな日がくるのだから、誰か一人に肩入れしてはだめだよと本気で思って、あの人の姿が見えなくても私は歌うのをやめるわけにはいかなくて、誰も立ち止まらない中で歌うことこそ、私の美学だと言い聞かせた。
冷蔵庫の上に並んだジャムの瓶は5つ。130円かけ375日、48750円。
──今日は夜遅くから雨になります。
夜遅くなら大丈夫。私はまたギターを持って街角に立った。立ち止まる人もいなくて、振り始めた雨は突然、強く屋根を打ち付けて、私は機材を慌てて片付けてアーケードへと走った。
「はあっ」
横断歩道を渡ったところで膝に手をついてため息が出た。すれ違う男の人から
「あっ、君」
と声が聞こえた。
「僕が好きな歌声なんだ」
それは私ではなく、隣りにいた赤い傘を持った女性に向けられた声だった。
「彼女、ずぶ濡れね」
「よかったら、これどうぞ」
その人は鞄から水色の折りたたみ傘を取り出して私の濡れた手に差し出した。
はじめて声をきいた日が、その人を見た最後の日だった。私の声よりもその人を惹きつけた女の人からはグリーンティの匂いがした。靴箱の中にしまった水色の折りたたみ傘と冷蔵庫の上に並べたジャムの瓶。私は勝手にジャムの瓶に─ファン1号─だとラベルを貼って、今日も相変わらず歌うことしかできなくて、またあの街角にたつ。あの人がグリーンティの香りに飽きるのを密かに期待して。私があの人を忘れることを密かに期待して。
130円、私の歌はあの人の缶コーヒーみたいなもんなんだと『缶コーヒー』新しい歌を歌いながら。
*****
相変わらずだ。
──今日が新しい一日で、今日が自分にとって余命が一番長い日だ──
って、わかりきったことを誰かが呟いて
──本当にそうですよね──
またありふれた共感の言葉が並ぶ。
僕はずっと褒められて生きていた。うまくいかなくなったのは、いつからだろう? 僕が、絶対に自信を持っていた提案に、ある日、顧客が大反対してきた。僕は何度も何度も繰り返し伝えた。あんなに必死になって伝えたことははじめてだった。 『河瀬くん、わかってるかな? 僕が望んでることは君の意見じゃないんだ』上司に言われた帰り道、はじめて走馬灯のように今までの自分の人生が流れてきた。
──僕は何を目指して生きてきたのだろう? ──
生きていくことに一生懸命にならなくてもよかった。僕は多分、地頭がいい。父は毎日、家にちゃと帰宅したし、母がご飯を作らない日もなかった。反抗期だからと特別言い争った記憶もない。転校は何度もしたけど、そこで誰かに、いじめられることもなかった。つまりは人生、うまくいっていた。うまくいきすぎていた僕の人生に積み上げてきたものなんてあっただろうか? もしあったとしたら、それはあっという間に崩れた。
『少し足を止めたほうがいいですね』僕は手渡された診断書と薬をそっと鞄に入れた。その帰り道だった。
下手くそだった。時々、歌声とギターの音色がズレてる。しかもボカロが全盛の今、アコギを持って歌うのも、恥ずかしくて見てられない。
──まるで昭和、僕は心の中で悪態をついた。ちらりと彼女の方を見ては、過ぎ去る人々。それでも彼女は歯並びの悪さなんて気にせず、口を大きく魚みたいに開けて歌っていた。
── 私は誰かに褒められたくて言葉を探してるわけじゃない ──
僕が過ぎ去ろうとしたとき、彼女の声が僕にひっかかった。彼女の手が伸びてきたわけじゃないのに、僕の身体はスローに後ずさりした。僕が真正面に立っても彼女は顔色ひとつ変えず、そのまま歌った。僕以外は誰も足を止めることなく。
僕はその日から時々、帰路をかえて、ストリートに立つ彼女の歌を聴いた。彼女が何をして、何を思ってここで歌ってるのか、そんなことはどうでもよかった。このまま、ここで泥だらけのまんま埋もれてゆくのか、それとも泥をはらって、声を響かすのか、少し見てみたい気持ちになった。
僕はスマホのアラームを20時にセットして、ポケットから振動がするまで彼女の歌を聴いていた。そして、僕は必ずギターケースに130円を入れた。
それは、
──帰りに缶コーヒーでも飲めよ──
という意味だった。ぼくにしてみれば。
期間にすれば1年とちょっと。もう転職しようと決めた日、僕に予期せぬことが起こった。僕が、彼女の歌を黙って聴いていたように、僕のことを黙って見ていた人がいた。その人はある日、会社の外で僕を待っていた。
『菜の花を見に行きませんか? 』そんな風に女性から言われたのは、初めてだった。僕は、自分のうまくいかない日々をすべてその人に擦り寄せた。その人はそれを勘違いして喜んだ。
僕は彼女の歌を聴くことより、その人と歩く夜を選んだ。
天気予報では夜遅くに雨が降ると言われてた日だった。仕事を終えていつものように商店街を歩きながら、その人と食事の店を探していた。目の前の横断歩道から、ギターを抱えたびしょ濡れの彼女が走ってきた。
『馬鹿みたい。まだあんな人がいるんだ』その人がフッと笑いながら小声で言った。多分、僕に聞こえないように。
「あっ、君」
僕は、思わず声が出た。
「僕が好きな歌声なんだ」
その人に言うと
「彼女、ずぶ濡れね」
僕は、鞄の中から折りたたみ傘を出して彼女に渡した。
「よかったら、これどうぞ」
僕ははじめて彼女に声をかけた。彼女の濡れた右手はそれを掴んだ。一瞬だけ顔をあげて僕を見たとき、涙なのか、雨粒なのか、彼女の瞳は潤んでいた。
「もっと楽しい人かと思ったんだけどなぁ。案外、つまらないね」
「はぁ? 」
「だって、私ばっかり話してる」
その人が選んだのはおしゃれなバーだった。窓ガラスから流れる雨を見ながら、僕はその人のことより、酒のことより、ずぶ濡れだった彼女の顔ばかり気になっていた。
僕もその人もきっと誰かに褒められたくてまともな人間を演じてる。こんなバーでおしゃれを気取って、囁くような声で話しながら。
「はぁ、馬鹿みたいだ」
「何? 急に? 」
「ごめん。僕は面白くない人間だ。でも、はじめて思った。嫌われてもいいから、触れたい人がいる」
「だめっ、あなたはそっちの人間じゃない。彼女みたいに青臭く生きる人じゃない。わかるの、私もああだったから。あなたが彼女に惹かれる気持ちも。私があなたに惹かれた理由も」
それまで女を見せてきたその人がはじめて人間をむき出しにした。
──生きるってなんだろう? ──
僕も彼女もその人も確かに生きている。心がどうであれ、間違いなく自分として。それでも、僕は時にその根っこがなんなのか? どうしようもないことに囚われては、彼女を思い出す。
あの角に一人が立って声をあげる度胸が、そこまでして伝えたい何かが、快楽に溺れてしまわない何かが、もしかしたら、僕が本当にほしかったものなのかもしれない。
「ねぇ、あなた、なんでいつもポケットに130円入れてるの? 」
──水色の傘と130円──
脱衣場から聞こえる声と共に僕の目の前のテレビの画面に写ったのは髪が伸びて、少し痩せたギターを持った彼女だった。
*****
「ねえ、本当に菜の花見に行きましょうって営業の河瀬さん、誘ったの? 」
「そう、会社の前で待ち伏せして」
女嫌いかもしれない、何を考えてるかわからない、でも、そういうところがミステリアス。
営業の河瀬雅さんは裏モテと呼ばれ、女子社員には、コアなファンがいた。そんな河瀬さんを私は『菜の花を見に行こう』なんて誘ったんだ。
「菜の花? 」
彼は私の顔を見て『馬鹿じゃないの? 』って顔をした。そして、彼が連れて行ってくれたのは、菜の花畑じゃなくて、シャンデリアが花のように回るラブホテルだった。
彼が迷いなくホテルに入ったとき、ああ、私じゃないんだ、と思った。彼の中には精子と一緒に外に出したい何かがある。私は、それにちょうどいいんだ。
心がともなっていないそれは、さあっとはてる。まるで骨と骨がぶつかるみたいで、痛々しい。私は怒りを隠して背中に爪をたてた。
「君ってそういう激しいところがあるんだ? 健康診断のときにこの爪跡、気づかれるかな」
彼が私を逃げ道にしてるのはわかっていた。一向に菜の花の話はでない。とにかく彼が私と歩くのは夜だった。こんなことばかりしていたら、いつか妊娠するだろうか? そして、母になったら、私は幸せだと思えるのだろうか? 帰りのバスの中、つり革を持って、そんなことを考えていた。
「ねぇ、ちゃんとできるかな? 失敗しても生きていける? 」
私の目の前の席に座っている女の子の声が突然、耳に聞こえた。
「大丈夫よ。失敗しても大丈夫だからね、ちゃんと菜の花の気持ちになって、菜の花がゆれてる音をさがしてごらん」
──菜の花がゆれている音をさがしてごらん──
こんなに遅くまでピアノの練習をしていたのだろうか?
──菜の花にゆれて──
「これなら、アキちゃんにも弾けるよ」
ピアノを習っていた真美ちゃんが教えてくれた曲を思い出した。あの頃はこんな風に気持ちが揺れるなんて思っても見なかった。私は彼と本気で菜の花畑に行きたかったのに。菜の花がゆれるところを見たかっただけなのに。
別れよう。そう思って家を出た日、夜は土砂降りの雨だった。
「どこで飲む? 」
別れ話などきっと想像もしていない彼と商店街を歩いた。土砂降りの雨の中、傘もささずにギターを抱えた女の子が横断歩道を走ってきた。彼の目が変わった。あんなに生気がなかったのに、一瞬で目が開いた。とられたくない気持ちが自分の中に湧き上がってきた。彼の目が開いたように、私の中の女が雨音に負けないぐらい疼いた。
適当に選んで入ったバーで、やっぱり彼は上の空だった。そして、彼の方から別れ話が出た。
私ははじめて誰かをひきとめた。私は今まで全部諦めてきた。ピアノも仕事も。いつだってその他大勢だった。彼だって、あんなに体を重ねたって、『触れたい人がいる』なんて簡単に私をつき離す。酔っ払っていたのかもしれない。『また』そう言って帰ろうとする彼の背中に飛びついた。私じゃなくていい。今は私じゃなくても私は絶対に彼だけは諦めない。あなたが揺れるなら、私はその揺れる気持ちが飛ばないように掴んでる。
「凄かったよな。あの熱」
「何? 」
「いや、だからさ、あの土砂降りの夜、凄い怖かったよ」
「私が? 」
「そう。だけど、そういうことなんだなぁって思った。菜の花を見に行こうなんて、この僕に言える女は、やっぱりちょっとおかしいんだよ」
彼の中にまだ私はいない。だけどほんの少しだけ、『おかしい』と思われるぐらいの存在はあると思う。
──いつか彼の中に私の音が響くまで、私は彼の目の前でゆらゆらと揺れる。彼も彼の中の誰かを忘れたくてゆらゆらと揺れる。きっとそのぶつかり合う音色が、次の春には少し柔らかくなることを私は私で彼は彼で願ってる。目の前の菜の花はそんなことはどうでもいいと好き勝手に風に揺れていた。
「アキ、写真撮ってくれるってさ、スマホ、ほらっ渡して」
彼はほんの少しだけ目を細めて私に向かって笑っていた。
彼の心の中に誰がいようと、今、彼の腕を掴んでるのは私だ──。
「二人とも笑って、ハイチーズ」
菜の花が揺れる中で、私と彼は歌うように笑っていた。私はその写真を玄関に飾った。
それから彼と暮らすようになって気づいた。彼のズボンのポケットにはいつも130円がお守りみたいに入っていた。
8月、晩御飯を食べた彼はスマホゲームをしていた。テレビから『水色の傘と130円』歌のタイトルが聴こえたとき、スマホを見ていた彼の顔がテレビの画面を見た。そして、私は、皿を洗う手を止めて彼の顔を見た。
画面の向こうだというのに、もう会えないというのに、彼女はまだ彼の中にいる。そして、彼女の中にも、まだ彼はいた。
「あの子だよね? あの雨の日の」
「ああ」
「デビューしたんだね、この歌、あなたのことでしょ? 」
「ああ、そうかも」
「いいよ、追いかけたら東京まで」
「はぁっ? 」
「だって、私は雅さんに何一つ言われてない。私がただ誘っただけ、『菜の花見に行こう』って」
「でも、捕まえたじゃん、僕を。それでよくない? 」
彼はまたスマホの画面を見た。
彼と彼女は両想いなのに──、言葉はもう聞こえない。私は、彼の隣にいるというのに、心が見えない。
「もういいよ、あなたには伝わらない」
私はようやく言えた。
「出ていって──」
「何? 画面の向こうの女に嫉妬してるの? あの日、君が、掴まえたじゃん、彼女に行こうとした僕を、今更離すなら責任取れよ」
「何の責任? 」
「僕がここにいる責任、君が引き止めた責任」
「だから、別れてあげます」
「そうじゃなくて」
彼は社員証のホルダーを鞄から取り出した。社員証の裏には、菜の花畑で撮った私の写真があった。
「僕がここにいる意味は惰性なんかじゃない」
言いたくても言えない気持ち、聞きたくても聞けない気持ち、本当のところ、自分でもわからない気持ち。
私も彼も彼女も、そう、簡単には言えなかった。
「私はどうしたらいいか、わからない」
「じゃあさ、130円、入れるよ。そのジャムの瓶に毎日。それが僕の気持ち。毎日入れるから、あと水色の傘もプレゼントする、アキ、わかった? 」
「わからないけど、わかった」
この部屋には二人しかいないのに、テレビから流れてくる彼女の歌声が私に刺さる。
「彼女、ずっと歌うのをやめなければいいね」
私が今、言えるのはそれだけだった。
「やめないと思うよ。だって一人でも、誰も立ち止まらなくても彼女、歌うのをやめなかったから。だから僕も簡単にはアキを手放さないよ」
いつか堂々と言える日がくればいい。彼も彼女も、そして、私も。
伝えたい人に伝えたい気持ちをまっすぐに──。