71.アネモネとダークエルフ4(過去編)
かつてはイベントビルだったのだろう教会堂の、動かなくなって久しいエレベーターを全速力で駆け上がっていく。
折り返すたびに見えるフロアの多くは改装され、西洋的な儀式色を帯びた意匠に塗り替えられている。
だからこそ、最上階にあるその光景は異質に見えた。
時折倒れている亜人たちはダリアがやったのだろうか、皆一刀のもとに絶命させられている。
それらを越えて辿り着いた豪華な革張りの扉は、鍵も無くするりと開き、おごそかにアネモネを迎え入れた。
「ダリア!」
その部屋は階下とは全く異なった、純和風な趣だった。
演舞でも行えそうな広い室内の床は一面畳敷きになっており、奥は一面すだれが掛かって部屋の主を隠しているが、アネモネの目に映ったのは広間の中心で、宙に縫い付けられるように吊られているダリアの姿だった。
アネモネは彼女と別れた後すぐに追って来た。脚力の差を考えてもここに辿り着いたのはほんの二、三分前のはずだが、ダリアはまるで拷問でも受けた後のように全身に火傷の跡があり、気を失って項垂れている。
急いで駆け寄ろうとしたアネモネは、すだれの奥から聞こえる凛とした、背筋を凍らすような冷たい声によって制止させられた。
「おやまあ、下女の次は童女とは。いつからわらわの寝殿は子供のお遊戯場になったのかえ?」
「母……上?」
それはアネモネにとって初めて耳にする母親の言葉だった。
物心ついてから一度たりとも顔を見せるどころか、ただの一声すらかけて貰ったことが無いにも関わらず、それが間違いなく自分の母の声だと本能で理解出来た。
「母とな? ああ、そう言えば幾ばくか前に使えるかと思うて、子をこさえたことがあったのう。箸にも棒にもかからぬと聞いて忘れておったが、其方がそうなのかえ?」
あまりにも非情なその言葉に、アネモネの感情は悲嘆よりも激昂を選んでいた。
木剣の柄を握りつぶしそうなほど強く握りしめ、すだれの奥に佇むまだ見ぬ母親へと近付く
「ダメ……です、アネモネ様!」
意識の戻ったダリアの一言がアネモネの足を止めた。
その瞬間、アネモネの目の前の空間を、周囲から飛んできた光の杭が串刺しにする。
もしあと一歩踏み込んでいれば――――――――
「私を、殺そうとした……」
ダリアの制止が無かったら――――、己が辿ったであろう運命を予想して冷や汗が流れる。
アネモネは今まさに、実の母に殺されかけたのだ。
「逃げ……なさい、アネモネ様。外まで出られれば、なんとかなります」
「ダリア! 待っていろ、すぐ解放してやる」
ダリアへと手を伸ばすアネモネ目掛けて、再び光の杭が襲う。
視界を埋め尽くす凶器の光が、突然黒い人影に覆われた。
それは縫い留められていた腕を無理やり引きはがし、アネモネに覆いかぶさるダリアの姿だった。
間一髪でアネモネを抱き、転がったダリアの脇腹を幾本かの光が掠め、その血しぶきがアネモネの顔を濡らした。
「ダ、ダリア…………」
「部屋に戻っていろと言ったのに……、本当に手のかかる主人ですね。…………まったく」
アネモネを背に守り、教皇へと向き直る。
その顔には諦観にも似た表情が浮かんでいたが、アネモネ手を握った手には決意の力が籠っている。
「教皇などと名乗ったところで、ただ魔力が強いだけの魔導士だと思っていたけれど、どうやら身の程を知らないのはわたしだったようですね」
「魔導士相手なら近づけばどうにかなると思ったのかえ? この痴れ者め。其方と同じことを考えたものなど星の数ほどおったわ」
いまだすだれの奥から姿さえ見せず、立ち上がることも無く言葉だけで圧倒してくる教皇を相手に、歴戦の戦士であるダリアも苦笑を浮かべるしかなかった。
「図々しいようですけど、今回の事はわたし一人の命で手打ちにしていただけませんかね? あなたも人の親なら我が子に対して一かけらの情くらいあるでしょう?」
「ダリア、何を馬鹿なことを!」
思案するように教皇は一瞬の静寂を纏う。その眼がアネモネを見ているのかはすだれのせいで見えない。
「わらわは野蛮な魔人種とは違って、不必要な殺戮は好まぬ。しかし其方を殺せば、その娘はわらわへの憎悪を燃やし、牙をむこうとするのではないかえ?」
「教育係のわたしが言うのもなんですが、この子にそんな器量はありません。わたしが居なければ自分の部屋から出ることも出来ない臆病者ですよ」
それが本心でないことくらいはアネモネにもわかっていた。
弁を弄してなんとかアネモネだけでも逃がそうとしていることは、僅かも力を緩めず握りしめられた手の平が如実に示していた。
「よい。だが臆病はわらわも同じでのう。証として其方の処刑はその娘にさせよ。我が身可愛さに恩人を手にかけるような者ならば、確かにわらわに牙剥くような器量はあるまい」
教皇の言葉と共に、気付くとアネモネの隣に木剣ではない本物の真剣が突き立てられていた。
それが意味するところを理解し、動悸は痛いほどに早まり、握った手は汗でぐっしょりと濡れていた。
この私に、ダリアを殺せと…………?
ダリアは剣を引き抜き、無理やりアネモネの手に握らせる。
そしてその刃を自らの首筋にあてがい――――
「アネモネ様、あなたは生きなければなりません。生きて……私たちの夢を成し遂げるのです」
アネモネに向き合ったダリアは、教皇に聞こえないように口の動きだけでそう言った。
この手を数センチ引くだけで、ダリアの頸動脈は血を噴き出し、二度と動くことは無くなるだろう。
そして私はこのまま何事も無かったように部屋に戻り、またいつもの日常に戻って行くのだ。
ダリアの居ない、何もかもを失っていたあの日常に――――
「……どいつもこいつも、好きな勝手なことばかり言って。この私にダリアを殺せだと? 私は……言われるままの人形ではない!」
「アネモネ様、一時の感情で全てを失うななど愚か者の所業です。またあの頃に戻りたいのですか?」
「……違うぞダリア。昔の私なら自分のために誰であろうと手にかけたはずだ。それを変えたのは、ダリアだ。――――――あまり貴様の主人を舐めるなあああああああ!」
握った剣をダリアの首から外し、これまで自分でも感じたことのない俊敏な速度で、教皇へと斬りかかった。
それは師であるダリアすらも一瞬見失うほどの見事な奇襲で、誰であろうとその剣先から逃れることは不可能であると思われた。
「……よい。わらわの子ならせめてそれくらいの誇りは見せてもらわぬとな」
教皇と共に一刀のもとに切り伏せられるはずだったすだれは、しかし鋼のごとき手応えでもってアネモネの剣をせき止めた。
ただ吊られているだけのそれは、まるで空間に固定されているように微動だにせず、さらに打った衝撃を跳ね返すようにアネモネの身体に逆流し、そのまま元の位置まで弾き飛ばした。
「アネモネ様!」
「ただの木偶だと聞いておったが、心根だけは見事であった。立派に育ててくれたことに感謝するぞ、下女よ。褒美に仲良く逝くがよい」
アネモネとダリアの周囲に光の杭が現れ、今まさに二人を串刺しにせんとしたその瞬間、建物全体を揺るがすような振動が部屋全体を襲った。
そしてその瞬間を見逃すダリアではなかった。
一瞬にして二人を覆い隠すほどの煙幕が広がり、杭がその中心を射抜けど手応えは無く、煙が晴れた後にはすでに二人の姿は消え、開いた扉が虚しく口を開けているだけだった。




