第十六話 吸血妃、漏らす
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星は消え、闇は晴れる。世界は再び正常性を取り戻し、男は五体満足で立っていた。
「…………」
アラガミが見降ろした先には一人の女が伏せていた。美しい女だ。晶瑩玲瓏と呼ぶにふさわしき絶世の美貌の持ち主である。
「参りましたわ」
消え入りそうな声で、ジュデッカは自身の敗北を告げた。
彼女が憔悴しているのは殲光によるものではない。
創生魔法によって生み出された吸血妃の世界を完膚無きままに打ち崩された反動である。
「まさか世界そのものを壊す御仁がいらっしゃるとは」
「それが殲光だ」
むしろそれこそが殲光の得意とする分野だと言ってもいい。
鏖殺の光は対象が大きければ大きい程制御調節が楽になり、逆に対象が小さければ細心の注意を払わなければならなくなる。
仮にジュデッカの奥義が世界そのものを創り出す創生魔法でなければ、アラガミも殲光の使用を最後まで出し渋っただろう。
究極の肉体と血の滲むような修行を経ても、殲光の恩恵は未だに主を振りまわす。
とんでもないじゃじゃ馬だった。
「ふふっ。この私が伏せるだなんて、世界もまだまだ捨てたものではありませんね」
負けたジュデッカは、しかしどこか嬉しそうであった。
「敗北は苦い味と聞いておりましたが、実際に味わってみれば存外爽やかな物です。悪くない。えぇ、悪くありません」
全身を駆け巡る疲労と胸を締めつけるような痛み。
けれどそれは余りにも美しく、余りにも強かった彼女がようやく手に入れる事が出来た生への実感であった。
「悔しいです。苦しいです。でも私は今生きている。五百年の眠りから覚めてから、いいえ……このように在ってから初めてといってもいい程に私は生を感じておりますの」
ほろ苦くも新鮮な心地を堪能しながら、ジュデッカは霊長類最強の男に慈愛の笑みを浮かべる。
「敗北を認めた以上、無様に足掻く様な真似は致しません。殺して下さいな、アラガミさん」
力を抜き、そっと目を閉じる吸血妃。覚悟はとうに出来ているという事なのだろう。潔いというべきなのか、生死に頓着がないというべきなのか、ともあれジュデッカにこれ以上争う気持ちは無いようだった。
「……………………」
黙したままそっと彼女の首に触れる霊長類最強の男。
「感謝しますアラガミさん。私を討つのが貴方でよかった」
世界の全てに退屈していた吸血妃は、ようやく訪れた終わりに安堵のため息を浮かべ
「何を勘違いしている吸血妃。俺はお前を殺す気など微塵もない」
それを即座に否定されると同時に抱きかかえられた。俗にいうお姫様だっこというやつである。
「どういう……つもりですの」
「どうもこうもない。お前がどうっだったのかは知らぬが、俺は初めからお前を倒しに来たわけではないのだ」
本当である。
あれだけ豪快に暴れておいて何を今更と思うかもしれないが、霊長類最強の男が戦っていた理由はあくまで古城調査と自衛の一環に過ぎないのだ。
では何故吸血妃から逃走せず、それでいて殺さずに勝つなどという面倒くさい事この上ないやり方を取ったのかというと、それはある個人的な『望み』の為だった。
「お前に頼みたい事があるのだ吸血妃。敗者の務めを果たすというのなら俺の願いを聞いてくれ」
「願い、とは?」
「うむ」
アラガミはいつもの仏頂面で事の仔細を話す。
霊長類最強の男の望みを聞かされたジュデッカは首を縦に振って答えた。
「可能です。その程度でしたらお受けいたしましょう」
ジュデッカからの好感触の返事にアラガミは少しだけ肩の力を抜いて頷いた。
そして霊長類最強の男は続けざまに「ならば」と自身の首筋を指差して言った。
「俺の血を吸え吸血妃。先の魔法の消耗を存分に癒すがいい」
最強にワイルドな誘い方だった。
「正気ですか、貴方? 吸血種に血を分け与えるという事が何を意味するのか分かっていますの?」
「分かっている」
分かっていない。
アラガミの吸血鬼に対する知識はブラムストーカーと日本のオタク文化に根差したとても偏ったものであり、この時点での彼の見解では「吸血鬼とは血が主食な美男美女」くらいの大ざっぱなものであった。
しかしジュデッカはそれを本当に分かっているのだと認識してしまった。
何せこの男は自身を打ち破った益荒男である。
吸血という行為が血液を媒介にして相手の魂に干渉するものである事など百も承知の上で血を提供しようとしているのだと当然の様に信じ込んでしまった。
「分かりました。貴方はそこまで私の事を信用して下さるのですね。ならば遠慮なくその厚意に甘えさせて頂きます」
吸血妃の唇がゆっくりとアラガミの首筋に近づいていく。
実の所ジュデッカの身体は猛烈に血を求めていた。
五百年の眠りから覚めて早々にあんな人外バトルを展開したせいで彼女の飢えと渇きは限界に近い状態であり、霊長類最強の男の提案はまさに渡りに船であったのだ。
「んちゅ…、ちゅぷ……」
淫靡な水音がアラガミの首筋に木霊する。それはまさに『吸う』という行為であった。噛むのではなくゆっくりとねぶるように舐めまわす。それはまるで口づけの様に甘く切ない愛撫であった。
「あむっ…。
むちゅっ…、んちゅっ……」
やがて彼女の吸いつきは甘噛みとなり、ゆっくりとアラガミの首筋に牙を食いこませていく。
「んちゅ…、ちゅぷ…、はむ…、ちゅぷ…」
愛撫と噛みつき、それを絶妙なバランスで織り交ぜながら舌を這わせていく吸血妃。やがて彼女の唇に霊長類最強の男の血潮が流れだした。
久方ぶりに味わう赤いご馳走。
その喜びを噛みしめようとアラガミの血を舐め取った瞬間
「ふえっ?」
吸血妃は、失禁した。
(なん……ですの、これ?)
ここでいう「なんですの」とは自分の股間に起こった洪水の事ではない。
というよりもこの時のジュデッカは自分の下半身が起こした大災害など気にも留めていなかった。
「あっ、あっ」
舌先から伝播したその味は吸血妃の全身を余すことなく駆け巡り、そして彼女の全てが一つの感情に呑みこまれていく。
(尊い、尊すぎる)
美味などという言葉では生ぬるい。極上という言葉すら冒涜だ。
その血の味は余りにも尊く、多幸感に満ち溢れていた。
「むちゅっ…、なんれすの、はむ…、なんれすのこの味はぁ?」
呂律の回らない口調でアラガミに問いかける吸血妃。
下の水害のおかげでお姫様だっこをする彼のコートが「なんれすの」状態であったが、我らが霊長類最強の男は淑女の粗相に目をつむり、彼女の質問にだけ答えた。
「推測だが俺の中に眠るエンシェントライガーの因子が血液に何らかの変質をもたらしているのかもしれない」
半分正解である。
アラガミの言うとおり、確かにエンシェントライガーの因子は彼の血液に変化をもたらしていた。
世界最強の神獣の血潮。その性質を受け継いだアラガミの血液は聖属性に満ち溢れており、驚くべき事に彼の血の旨み(※吸血鬼視点である)というのは歴代の聖女や勇者を遥かに上回る代物となっていたのだ。
しかしそれはあくまで半分でしかない。
吸血鬼の神にも等しきジュデッカをここまで魅了し、失禁にまで至らしたのは血の味とは別にもう一つの要因が関係している。
(なんて、なんて雄々しいのでしょう。こんな立派で大きな魂は今まで見た事がありませんっ!)
それはアラガミの魂に触れたが故の発情だった。
先にも述べた通り、吸血鬼という種族は血を媒介にして魂へ干渉する種族である。
彼らが吸血行為に至るのは血液という生命の濁流から直接魂を吸いだす為であり、そして血を吸われたものが新たな吸血鬼となる原因もまたこの魂の干渉に由来したものだ。
魂という人間の根本に直接アクセスし、基盤や命令系統を書き換える事が可能な吸血鬼にとって血はあくまで媒介に過ぎない。
無論、血が美味である方が彼らにとっても都合がいいのだが、肝要なのは吸った人間の魂にある。
そして結論から言えば、荒神王鍵という男の魂は、ジュデッカ・レヴァインテインを即墜ちさせる程ぶっ飛んでいたのである。
魂に干渉する吸血鬼は、他のどの種族よりも他者の内面を覗く事が出来る種族だ。
そして彼らは自分の好みの魂に対してドン引きするくらい発情してしまう生き物でもある。極度の魂フェチといっても良い。
そんな魂フェチ共の開祖であるジュデッカの好みにアラガミの魂魄は信じられないレベルで合致していたのである。
(最強の肉体を支えるその雄々しさ。何事にも動じない虚無の固まりのような精神。それでいて他者への尊敬と義理は欠かさず、大きな度量で全てを問題ないと受け入れていく懐の広さ。使命や義務を第一とし、野心に燃えず、欲望に溺れず、無為自然と為すべき事を為すストイックな理性――――全てが、全てが私の理想そのもの……)
どうやら吸血妃の男を見る目はあまり良くないようだ。
「どうした吸血妃。もう飲まなくて良いのか」
吸血妃の耳元に巌の様な声が囁かれた。ハッと我に返ったジュデッカが声の主の方へと視線を向ける。
「!」
トゥンクと高鳴る胸の鼓動。
不可解だ、実に不可解だ。
あぁ、どうして目の前の男の顔がこんなに格好よく見えてしまうのか。
何故こんなにも胸が苦しいのだろうか。
「あの」
火照った顔をゆっくりとアラガミの胸に埋めて至高の美女は溢れ出る想いを口にする。
「私、変ですの。貴方の血を吸うと心の底から満たされて、なのに同じくらい切なくなって」
マーキングするかのように身体を擦りつけながら、吸血妃は自身の不調を訴える。
「体調が優れないのならば、少し木陰で休むか」
「いや……です」
「? では、どうしたい?」
「…………たくないのです」
か細い声の返答に、アラガミは「なんだ」と聞き返す。
すると熱く潤んだジュデッカの瞳が、縋るようにアラガミの双眸を見上げて
「貴方と、離れたくないのです」
吐息のかかる程の距離で爆弾発言が投下されたのだった。
「どういう意味だ」
「私にも、良く分かりません。けれど貴方は私を打ち負かす程雄々しくて、血の味は最高で、魂は理想よりも完璧で――――だから、こんな気持ち、初めてで」
消え入りそうな声で紡がれる乙女の告白。
それを聞いたアラガミは
「ふむ。それで? お前は俺に好意を抱いた上で何を望んでいる?」
いつも通りである。
驚くべき事に霊長類最強の男の心拍数は、至高の美女の決死の告白に際しても、全く無反応であった。
「私の望みですか」
「あぁ。俺の願いを聞いてもらうのだ。代わりというわけではないが、可能な限りお前の望みも叶えたい」
「……私は」
少し思案した後、ジュデッカは顔を桜色に染めながら、精いっぱいの勇気を振り絞って言った。
「私の望みは――――」