第十二話 霊長類最強の男、伝説の吸血妃と戦う
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(な――――に、あれ?)
広々とした屋内に佇む一人の女。それがこの屋敷の主であり、一連の事件の元凶であるとティーは一目見た瞬間に理解させられた。
女から漏れ出る魔力は冗談抜きで国一つを容易に滅ぼしうるだけの密度を誇り、それでいて未だ一切の底が見えない。更にはそれだけの圧倒的な力を持ちながら、今の今までS級の感知能力者であるティーに全く存在を悟られなかったその異常性。
そして何より、彼女は美し過ぎた。
少しウェーブのかかった灰色の長髪はまるで宝石のように煌めいており、ホルターネックの黒ドレスから覗かせる柔肌は新雪のように白く瑞々しい。左右両方に見られる髪飾りは何かの羽を思わせる装飾が施されており、それぞれの中心にはオリハルコンの宝石が高貴な光を放っている。
だがしかし、それらは全て引き立て役に過ぎない。世界随一の輝きと硬度を誇るとされるオリハルコンですら、彼女の美貌の前では路傍の石ころにも満たないのである。
目鼻顔立ちが整っているとか、顔の均衡が精巧であるとかそんな次元ではない。
それはさながら美の極致とも言うべき神々しさであり、そして全てを投げ打ってでも愛さざるを得ないと錯覚を起こしてしまう程魔的な貌だったのである。
全てが完璧以上であり、誰もが傅かずにはいられない至高の美貌。
それだけで彼女が領域外の存在である事をティーはわかってしまった。否、わからされてしまったのである。
「アラガミ、ごめん。こんな事言いたくないけど私逃げたい。死んでもいいからあいつから離れたい。じゃないと私、あいつに取り込まれちゃう」
不意に漏れ出た涙は恐怖によるものか、はたまた何よりも美しきものに触れた歓喜の感情によるものかティーはわからなかった。
ただ一つだけ言える事は目の前に立つ天上の輝きの様な美しさを放つ存在が、戦い以前の領域に立つ格上である事だけが唯一わかってしまう。
扉を開ける前に固めた決意など、この存在の前では何の価値もない。
逃げなければ。逃げなければ。逃げなければ。逃げなければ。逃げなければ。
たった一つの感情だけに支配されたティーの姿を見たアラガミは、彼女をゆっくりとその場に降ろした。
「アラ、ガミ?」
「すまないなティー。流石にアレ相手にお前を担ぐ余裕はなさそうだ」
そう言ってのしのしと歩き始めるアラガミ。
何を言っているのかわからなかった。
「アラガミ、嘘でしょ? 早く逃げましょう?」
「それは不可能だ。これ程の相手がみすみす逃走を許すとは思えない」
確かに正論だった。逃げたいという気持ちが先行してしまい、他の事が一切考えられなくなっていたティーであったが、よくよく考えてみればこの相手に逃げ切れるわけがないという当たり前の事実に気がついてしまう。
「っ、それでも試してみる価値はあるじゃない! 少なくとも戦うよりはずっと可能性があるわ!」
自分で言っていてなさけなくなるが、しかしそれでもこれこそが偽らざる本音であった。
確かにアラガミは強い。しかも未だ一切の底を見せていないという点では一見希望が見えてくるだろう。
でも違う。違うのだ。アレはそういう次元の存在じゃない。殺せる殺せないの領域に立つ生物ではないのだ。
それが感覚的に分かってしまうからこそ、ティーは懸命にアラガミを止めた。
「お願いアラガミ、行かないで! 行ったらアンタでもタダじゃ済まない!」
「だろうな」
あっさりと肯定する霊長類最強の男。異次元の力を持つ彼ですらいつもの様に「問題ない」と口にしない。それ程の相手なのだ、彼女は。
「だが」、とアラガミは言う。全てを分かった上で「だが」と言う。
「それでは務めが果たせない。真実を見極める事も不可能だ」
「そんな事、命に比べたらどうだって良いじゃない!」
半ば怒り交じりのティーの正論にアラガミは首を縦に振る。
「そうだ。命は何よりも先に優先される」
「だったら!」
「だがここで俺が退けば■■■■■■■■■■」
その言葉にティーは耳を疑った。
「アンタ、正気?」
「少なくとも狂気に陥った覚えはない」
堂々とのたまうアラガミ。その潔さと荒唐無稽さが、かつてない程恐慌していたティーの心をじんわりとほぐしていく。
「今の件、根拠は?」
「ない。だが可能性はある」
「その手段は?」
「これから検証する」
何とも大ざっぱな弁論だ。しかし逆にその意味不明さがアラガミらしくて、少しだけ信じたくなってしまうから不思議だ。
「戦ってみて、無理だと判断した時点ですぐ逃げる事――――約束できる?」
「善処しよう」
「分かった。じゃあ私も」
パァンと思いっきり力を込めて霊長類最強の男の背中を叩くティー。
「アンタに命を賭けるわ」
激励の一撃に小さく頷き、アラガミは再び前を進む。
「お話は終わりまして?」
「あぁ、待たせてすまない」
女のティーですら気を抜けばすぐにでも陶酔してしまいそうな魅力を持つ美しきもの相手にいつも通り淡々と受け答えをするアラガミ。
「名は?」
「名乗るだけの価値があると判断すれば名乗りましょう。勿論、貴方も名乗らなくて構いません。私の記憶に残すか否かは私が決めます」
それは凡夫には吐く事すら許されない傲慢な理屈。けれど彼女が口にすればまるで世界の真理の様な正統性を纏うのだから不思議なものである。
「加えて尋ねたい。他の冒険者はどこへやった」
「おかしな事を聞きますね貴方。他人の住居に侵入した狼藉者の末路など一つしかないでしょう」
言外に始末したと宣告されたアラガミは少しだけ視線を落とし
「ふむ。そちらの主張は理解した。ならばやはり戦う外なさそうだ」
そう言ってアラガミは右拳を流麗な動作で突き動かした。
霊長類最強の男が放ったのは音速の遠当て。無突とも称される触れない打撃である。霊長類最強の男が放つ飛ぶ打撃は、音よりも速く直進し、衝撃波をまといながら螺旋を描いて女を襲う。
「ふむ。飛ぶ打撃ですか」
それを、美しい女は華奢な掌で軽やかに止めてみせる。
「その速さと、そして打撃に込められた膨大な聖性。さながら聖剣の一撃のようですわ。あの子達では歯が立たないのも納得の威力です。けれど――――」
女は世界中の全てを魅了する笑顔で宣告する。
「聖剣程度では、力不足です」
超音速の飛ぶ打撃を受けとめた女の白手は無傷。それだけで彼女がこれまでの敵とは一線を画している事が見て取れる。
「ふむ」
しかしアラガミは攻撃が防がれた事に特別ショックを受ける事もなくそのまま目にも止まらぬ連撃を繰り出した。
ティーの目では視認できない程の速さで放たれる打突蹴撃の連続技。音を置き去りにした猛ラッシュの連撃を、しかし女はいとも容易く捌いていく。
「成る程、人の次元としては良い使い手ですわね。起きがけの準備運動としては中々に歯応えがあります」
涼しい顔でアラガミの連打を受け流す美女。その一撃一撃が超音速の聖剣の一撃に匹敵するにも関わらず、彼女はまるで問題ないとばかりにいなしていく。
だが――――。
「確かに、いい準備運動になった」
その直後に放たれたアラガミの打突を、女は少しだけ顔色を変えて回避した。
(打ち合う度に鋭さが増している?)
続けざまに放たれる連続掌打。これも女は受け流すのではなく、回避という形を取った。
舞い上がる衝撃と風圧は先程の比ではない。霊長類最強の男から繰り出される破壊の一撃の数々は、驚くべき事に尻あがりに調子を上げていたのだった。
「この世界に来てまだ日が浅いものでな。いささか出力の調整に手間取っていた所であった。礼を言うぞ女。お前ならば良い練習相手になる」
真っ直ぐ伸ばして指先から射出される四本貫手。聖槍と見まごうばかりの刺突はとうとう女の肩を掠めた。
「貴方、名前は?」
飛ぶような跳躍で後方に下がり、掠めた箇所を軽く払う美女。
ごく僅かに傷つけられた玉肌が、その動作一つで完璧に快癒する。
「名を聞いたのはこちらが先だ。記憶に留めたければお前から名乗れ」
中段構えの型に似た姿勢で美女を見据えるアラガミ。ただしアラガミ自身の身体が大きすぎるため、必然的に拳の位置は下方へと向かう。
その位置が指し示す方向は美女の顔面。どのような絶景よりも明媚な美女の尊顔にためらいなく拳を向けられる様は流石の一言である。
そんな彼の様子を見て、美女は華の様に笑った。
「随分と驕傲な人間ですね。ですが、まぁいいでしょう。力の一端も出していなかったとはいえ、私の肌に傷をつけたのは事実ですもの。その偉業に敬意を持って名乗らさせて頂きますわ」
黒ドレスの裾をちょこんと摘み、女は楽園に咲く花弁のような佳麗さで己の名前を告げた。
「ジュデッカ・レヴァインテイン。古の時代に吸血妃などと呼ばれていた者ですわ」
瞬間、女の纏っていた氷の様な圧が数十倍にも跳ね上がった。力の一端も出していなかったという言葉に嘘偽りなし。ただでさえ圧巻だった彼女の魔力が最早まともに直視できない程に濃密になっている。
(駄目、もう立つ事すらできない)
ふらふらと部屋の柱によりかかるティー。人智など優に越えた吸血妃の魔力にあてられてロクに身動きも取れない中、それでも目線だけは相棒の姿をとらえていた。
(まったく、ホントイカレてるわよねアイツ。吸血妃の圧力をモロに受けてるのに顔色一つ変えちゃいない)
泰然自若。力を解放した吸血妃を前にしてもアラガミはいつも通りの平静さで拳を構えていた。
「それで貴方のお名前は?」
尋ねられた霊長類最強の男は淡々と自身の名前を宣する。
「荒神王鍵。今は冒険者をしている」