写真嫌い
新居に引っ越してからもう一週間が経った。全然片付かない段ボールの山を避けて、私は祐介に声をかける。
「ほら、お昼過ぎたら先輩が遊びに来るって言ったじゃん。お昼ご飯の洗い手伝ってよ」
「いやでも、本棚の整理したくて……」
「えー、あとでにしてよ。ほら、皿は私が洗っちゃうから、あなたは拭いて」
お昼に食べたミートソーススパゲッティの皿を流しに置いて、私はすぐに皿洗いに取り掛かる。後ろから祐介がしぶしぶといった感じで来て、布巾を構えた。
家事はなるべく二人で分担してやること。これが結婚してから決めた約束の内の一つだ。同棲していた頃から、祐介は何かと家事を面倒くさがっていた。でも、これからはそうじゃない。結婚したのだから、もう恋愛の域ではないのだから、一人で頑張るのはもうやめだ。
皿洗いを済ませてリビングの片づけをしていると、軽やかなインターホンのチャイムが部屋を転がった。先輩だ。そう思って私は、玄関の方へ駆けていく。ドアを開くとそこには、ロングスカートをはいた先輩がそこには立っていた。
「お久しぶりです、先輩」
「久しぶり。引っ越しおめでとう」
これ、お餞別。良いタオルなの。そう言って先輩は紙袋を差し出す。私はそれをありがたく受け取った。タオルはいくらあっても困らないのでとても助かる。
先輩とは大学のサークルで知りって以来、何かと気をかけてもらっている。今日も家が近くなったからと言って遊びに来てくれた。
「全然片付いてないんですけど、どうぞ上がってください」
お邪魔します。先輩は軽くお辞儀をして玄関に入る。私は先輩をリビングへ通した。中にいた祐介は立ち上がって、お久しぶりですと先輩に声を掛ける。祐介には結婚式の時に紹介して以来だ。
「この度はお引っ越し、おめでとうございます」
「いえ、全然片付いてなくてすみません」
改まった態度で答えながら祐介は段ボールを隣の部屋に持ち去る。急ごしらえだけど、これで落ち着いて話せるようになった。
「結構新しそうね。日当たりも良いし」
「そうなんです。内見の時に一番しっくり来たのがここで。買い物にも便利だし。そういえば、紅茶とコーヒー、どっちが良いですか?」
「じゃあ、紅茶で」
ちょっと待っててくださいと言い残して、私は台所へ向かう。ケトルでお湯を沸かして、戸棚から来客用のカップとティーバッグを取り出す。先輩は確か、ストレートで飲むはずだ。
「お待たせしました」
紅茶二つと、祐介用に作り置きのコーヒーをリビングへ運んだ。それを見て祐介が声を上げる。
「あれ、いつもコーヒーなのに、今日は紅茶?」
「うん、なんとなく飲みたくなったから」
先輩は紅茶のカップを少し揺らすと、そのまま何も入れずに口をつけた。私も真似してストレートで飲む。
「そういえばお二人、新婚生活の感想は?」
「うーん、同棲時代とそんなに変わらないですよ。ただ名字は変わったんで、名前呼ばれる度に『結婚したなぁ』って思いますけど」
「あぁ、確かに。女性はまずそこかも」
先輩はうなずきつつ紅茶をすする。先輩も一昨年結婚して、今は一児の母だ。
「先輩。やっぱ、結婚すると女性って変わるんですか」
「まあ、色々変わると思う。私も変わったのかな」
先輩は膝に視線を落とすと、少し首を傾げてみせる。変わりましたよ。その言葉を私は紅茶と一緒に飲み下す。
大学時代の先輩は、もっと孤独な人なイメージだった。人付き合いはあったけど淡白な接し方で、男にも全然興味が無さそうだった。だからなんとなく、先輩はずっと独りで生きていきそうな気がしていた。それなのに今、先輩は結婚をして子どもを育てている。
「そういえば先輩、お子さんは今日どうしてるんですか? 旦那さんが見てるんですか」
「ううん、実家に預けてる。たまには孫の世話をしたいってお父さんが言うから。これも親孝行かな」
朗らかに笑ってみせる先輩は、まさに母親の顔だ。指の仕草の一つにさえ、そこには母性が宿る。
「……そういえば昔も、サークルの部室で、今日みたいに紅茶飲んだりしたよね」
先輩に言われて私も思い出す。そうだ、懐かしい。キャンパスの奥まったところにある部室には、いつも紅茶やコーヒーが常備してあった。人が集まった時には、ささやかなお茶会もやっていた。先輩は確か、あの頃からストレートで紅茶を飲んでいたはずだ。
「……確か一度、先輩と二人だけで紅茶を飲んでいた時、海の話をしませんでしたっけ」
そんなこともあったね。先輩も懐かしそうに目を細める。
「その時、なんかすごく落ち着いた気分になれて。錯覚かもしれないけど、まるで本当に海の中にいるような、そんな気までして」
「……錯覚じゃないよ」
ぽろり、と先輩がつぶやく。そして、カップの紅茶を飲み干した。
「だって、私もそう思ったから」
そこで先輩と目があって、お互い少しだけ笑った。そうだ、確かにあの時、私たちは海の底にいた。
「……やっぱり、あの頃と比べて私たちは変わりましたけど。でも最近、それも良いと思える気がします」
なんですかね。結婚したからですかね。そう言うと、先輩はそうかもと言って笑った。それを見て、私は少し笑った。良かった。私はちゃんと、先輩のことが大好きだ。
それから私たちは、大学の思い出や先輩の赤ちゃんのことでひとしきり盛り上がった。祐介は話題に入りづらいのか、ずっとちびちびとコーヒーを舐めている。
「ねえ。そういえば、家の写真とか撮った?」
ふと、思い出したように先輩が顔を上げる。
「家のって、建物のってことですか?」
「そうそう。家と一緒に家族で並んだ写真ってよくあるでしょ」
「新築建てた訳じゃないのに撮りませんよ。うちなんてよくあるマンションですし」
「でも記念になるよ。見返した時に、こういう家に住んでたってなるし、ちゃんと家族になったんだなって思えるし」
「でもちょっと……。祐介も、どうよ?」
目配せで私は祐介に合図を送る。だけど何を思ったのか、良いじゃんと祐介は答えた。
「撮ろうよ、写真。ベタだけど、そういうのやっとくのも悪くないし」
えー、そう? 悪あがきでそう言ったけど、祐介はすっかり乗り気らしい。立ち上がって隣の部屋へ行ったかと思うと、手にミラーレス一眼を持って戻ってきた。
「ちょっとバッテリーが残っているみたいだ。撮るなら早くやっちゃおう」
じゃあ、私が撮ってあげる。先輩も立ち上がると、行こうと私を急かす。こうなったら仕方がない。私は部屋の鍵だけ握って、一緒に外へ出た。外は秋の陽気で過ごしやすかったが、ラフなシャツ一枚では少し落ち着かない。
前庭まで来ると、祐介は先輩にカメラの操作を教え始める。しばらく先輩はシャッターやピントの調整をしていたようだが、やがてカメラを構えて私に向き直った。
「はい。じゃあ二人とも、もっと近づいて。そうそう。顔上げて、カメラ見て」
ファインダーを覗き込みながら先輩は指示を出していたが、やがてカメラを下ろすと苦笑いでこう言った。
「奥さん、表情硬いよ。もっと幸せそうな顔で」
「ごめんなさい。私、写真苦手で……」
そうなの? 少し驚く先輩に私はうなずく。なんとなく撮られていることを自覚すると、どういう表情をしたらいいか分からなくなるのだ。無理やり口角を上げてみても、不自然な笑いしか作れない。
「なんか、カメラを意識しちゃうと絶対ブサイクになっちゃうんですよね……」
そんなことないだろと祐介が慰めてくる。祐介はいつもそうだ。どんなに私の写真映りが悪くても、気にしすぎだ、可愛いよと言う。そういうことを臆面もなく言う祐介に、私は毎回ちょっと照れてしまう。
「ごめんね、私が言い出したから……。どうする? 止める?」
「いや、いいですよ先輩。ここまで来たんですから、変顔でも撮りましょ」
空笑いでごまかすと、私はカメラに向き直る。どうせそんなに頻繁に見返すものでもない。私のつまらないこだわりで記念をふいにするのも良くない。
先輩は少し困った顔をしたが、黙ってカメラを構え直す。レンズと目が合い、私は密かに肩をこわばらせた。顔、変じゃないだろうか。ちゃんと笑えているだろうか。
その時だった。隣の祐介が私の左手にそっと指を絡めてくる。びっくりして横を見たけど、祐介は澄まし顔だ。
「……今度撮る時は、もっと大きい家の前で、子どもも一緒に撮ろうな」
だから、一緒に幸せな家庭にしよう。私だけに聞こえる声で祐介がささやく。その言葉に私は不意に、胸の奥が熱くなった。
そうだね。子どもと一緒に、笑って写りたいよね。その時はシャッター係をお願いして、タイマーをセットしてこっちに駆けてくるあなたを迎えるよ。そしてまた、手を繋いでほしい。そう願って私は祐介の手を小さく握り返す。
前を向くと再びレンズと目が合う。笑うんだ。念じながら私はレンズの奥を見つめる。
写真は嫌いだ。私は映りが悪いし、それにあとで見返して過去を懐かしむのもちょっと苦手だ。大学生から社会人になって、結婚もして子どもを産んで。これからも私はどんどん変わってしまう。だからきっと、写真に写る過去を見て胸が苦しくなるだろう。どうせならシャッターを切ると同時に、幸せなまま時が止まってしまえばいいのに。
撮るよと先輩が言う。隣の祐介はニカッと笑って歯を見せる。先輩の指がシャッターに触れた。
ねえ、祐介。私、いつかヨボヨボのおばあちゃんになっちゃうよ。それでもちゃんと隣にいて、手を握ってね。絶対だからね。一緒に幸せになろうね。だから今は、ちゃんと笑うよ。頑張って口角を上げるよ。ブサイクでも良いよ。これが記念になるんだから。
だから、お願い。
笑って、私。