私は海に抱かれていたい
私が大学生だった頃。所属していたサークルに、いつも青い服を着ている女の先輩がいた。その人と初めて二人きりで話したのは私が一年生の時の十一月、その年一番の秋らしい青空の日だった。
前日に季節外れの台風が過ぎたせいか、その日の空気は洗いたてで少しひんやりとしていた。辺りには雨の名残の水たまりが佇んでおり、頬をなでる風からは金木犀の香りがした。そんな天気だったからかもしれない。四限が終わった後も私はすぐに帰る気になれず、サークルの部室までふらふらと足を向けていた。部室には備え付けの紅茶があったから、それを飲もう思っていた。
歩く人の流れから外れると、私は部室棟に向かう。寂れた入り口を抜けて暗い廊下を渡り、その先の角部屋の扉に手をかけた。鍵はかかってなかった。不審に思って、細く開けた扉の隙間から中をうかがうと、そこには人がいた。それが先輩だった。
こんにちはと声をかけると、ソファに座っていた先輩もこんにちはと返した。平坦な声だったけど、決して嫌な感じではなかった。私が部屋に入ってくると、先輩は何事もなかったかのように視線を手元に落とした。どうやら文庫本を読んでいるみたいだった。
「紅茶を淹れるんで、先輩もいかがですか」
私が尋ねると、先輩は少し考えてから、じゃあお願いとうなずく。私は二人分のお湯を沸かすと、紙コップに注いでそこにアールグレイのティーバッグを浸す。ふわりとわき立つ蒸気に乗って、良い香りが部屋中に広がった。
できた紅茶を渡すと、先輩はありがとうと言って受け取った。ストレートで飲むらしかった。だからなんとなく、私も真似してストレートで飲んだ。そして、私は先輩の姿をちらりと見る。
今日の先輩は群青のブラウスを着ていた。レトロなシルエットだけど、上品な可愛さがあった。それに、先輩の白い肌と伏せた目が服の色味に合っていて良い。
私の知る限り、先輩はいつも青い服を着ていた。爽やかな水色をしたニット、ネイビーのフレア、グレイッシュブルーのコート。ありとあらゆる青を自然に、そして美しく先輩は着こなしていた。なんというか、青い服を纏って物思いに耽っている時の先輩は、とても綺麗だ。
私たちはそれからしばらく、黙って紅茶を飲んでいた。外の方からジャズサークルのセッションが時々聞こえるだけで、部室は忘れ去られたかのようにひっそりとしていた。まるで世界からこの部室だけが外れてしまったかのような、そんな気がした。
でもしばらくして、私は妙なことに気がついた。なぜか、部室の空気が青みがかっているのだ。夜に近づいたからではなく、水に青い絵の具を垂らしたように、本当に空気が青くなっている。慌てて辺りを見回すと、先輩の周りだけ青が少し濃いのに気がついた。どうやらこの青は、先輩のブラウスから溶け出しているようだった。
先輩はただ無心に本を読んでいて、ブラウスの青が溶けているのを全く気にしていないようだった。先輩、と呼ぶと、先輩は顔を上げて私を見た。先輩の瞳が、水底に沈んだガラス玉みたいに光った。
「……先輩は、何を読んでいるんですか」
なんで、なんで青が溶けていると言わなかったのだろう。でもそう言ってしまえば、この景色はたちまち消えてなくなってしまう気がした。だから代わりに、本のことを訊いた。
「これは、安吾の短編集ね」
「面白いですか」
「まあ、私はちょっと好き」
部室に置いとくから、良かったら読んで。そう言うと先輩は本を閉じて、しばらくそれを眺めていた。その引き締まった唇の感じが、凛としていて私は好きだった。
「――先輩のブラウス、素敵ですね」
なんとなしに私はつぶやく。これ? と先輩がブラウスをつまんでみせる。生地が揺れて、青がいっそう広がった。まるで水面のようだと思った。
「私も、このブラウスはお気に入りなの。海みたいな色だから」
海は好き? 先輩が急に訊いてくる。それに私はとっさにうなずいた。でも、海はしばらく行っていなかった。
「海って落ち着くから、私も好き。眺めているだけで、なんていうのかな、自然に戻れる気がして」
どこか知らない砂浜で先輩が海を眺めている姿を私は想像した。頭の中に浮かんだ先輩の姿は、なぜか寂しそうだった。
「海を見ていると自然に戻れるっていうのは、なんとなく分かる気がします。たしか、私たちの身体は海に近いんだそうです。血とか涙、羊水とかも海の成分に似ていて。やっぱり生き物は海から生まれたから、海を見ると落ち着けるんだと思います」
へえ、そうなの。感慨深げに先輩はつぶやく。その吐息に乗って、青が私の方へ流れてきた。青は私の頬に触れると、心地よい冷たさを残して散っていった。懐かしい匂いがした。
「……じゃあ私は、海を身近に感じたいから、この服を着ているんだと思う。たぶん、そんな気がする」
先輩は穏やかな目でブラウスを見つめた。その時、先輩は今、海に包まれているんだと思った。静かなこの部屋で、青い服を着て、海の中をたゆたう先輩。それはとても綺麗な眺めだった。
「……でも、先輩は他の服もきっと似合いますよ。青ばっかりじゃなくて、暖色とかも着てみようって思わないんですか」
意地悪のつもりで私はそんなことを言ってみる。実際、先輩なら他の色を使っても素敵に着こなせる気がした。でも、先輩は悲しそうに首を横に振った。
「違う色を着ても、たぶん似合わないと思う。仮に似合っていても、そんな私を、私は愛せないから」
柔らかくも揺るがない口調だった。海みたいだと思った。簡単に形を変えるようで、でも最後は何もかもを飲みこんでしまう。
「私は、青い服を着ている私が一番好き。暗い性格って思うかもしれないけど、青が持っている孤独さとか憂鬱さも含めて好きなの」
「……寂しくないんですか」
寂しいかも。先輩は笑った。本当に寂しそうな笑い方だった。でも、その表情が私は好きだった。
「でももう、仕方ないの。これが私だから」
そう言うと、先輩は紅茶の紙コップを取って飲み干した。私も紅茶に口をつけると、少し海の味がした。
気がつくと部室の中は、すっかり青に満たされていた。違う、ここは海の底だった。部屋は海の青に満たされ、私たちは静かにたゆたっていた。
何か話そうと口を開くと、私の口の端から細かな泡がこぼれた。私が驚いていると、先輩は笑った。笑う先輩の口からも泡がこぼれて、ゆらゆらと天井へ上って行った。
海の底にいるのは私たち二人だけだった。キャンパスを行き交う人たちも、ジャズのセッションの音さえ入ってこない。そんな寂しさに身体を浸して、私たちは笑い合った。
大学を卒業して七年目の冬。先輩の結婚披露宴の報せが届いたのは、木枯らしの吹く日曜の午後だった。買い物から帰ってきて郵便受けを覗くと、水道工事のチラシと一緒に葉書が入っていた。
部屋に戻って冷蔵庫に食料品をしまって、やっとソファに座ったところで私は葉書をながめる。同棲して一年の彼が、お疲れと言ってコーヒーのマグを渡してくれた。彼のこだわりのコーヒーはシナモンの香りがした。
先輩とは大学を卒業した後もそれなりの交流を持っていた。年賀状のやりとりや、一昨年もサークルのOGで集まって、先輩と会って大学の思い出を語り合った。その時も青い服を着ていて、なぜか安心した覚えがある。
ふと、私たちもそろそろ結婚する時期に来ているのだなと思った。大学を卒業して数年間、好きになれない仕事や優しい彼に囲まれて、気がつくと私も三十に差し掛かろうとしている。そういえば最近、駅までの十分で息が切れるようになった。
葉書にはウェディングドレスを着た花嫁と、タキシードの花婿のイラストが添えられていた。先輩も、ウェディングドレスを着るのだろうか。想像してみるけど、ちっとも綺麗じゃない気がした。先輩には白い服なんて似合わない。先輩がウェディングドレスを着たって、海が全部干上がったらやっと見えるような、そんな白を纏ったところで、それはもう私の知らない誰かだ。
先輩は、どんな気分でウェディングドレスを着るのだろうか。やっぱり似合わないと思うのだろうか。でも、そんな先輩を新郎は綺麗と言って。先輩も白いドレスに似合いそうな笑顔を浮かべて、嬉しいとつぶやくのだろうか。そんな情景が浮かんだ時、言いようのない悲しさに襲われて私は顔を覆った。
どうして私たちは、変わってしまうのだろう。どうして自分をそのまま、ずっと愛し続けてはいられないのだろう。それがどうしようもなく悲しくて、私は自分のために泣こうと思った。だけどいっこうに涙は出なくて、熱い瞼を抱えたまま私は途方に暮れた。ひょっとしたら私の中の海も、いつの間にか枯れ果ててしまったのかもしれない。だから私は、先輩と一緒にいた海の感覚を思い出そうとした。
どうしたのと言って、隣の彼が私の肩に手をかける。私はその温かい手からそっと逃れて、なんでもないと笑った。あなたは優しい人だ。私にはもったいないぐらいだ。でも、あなたじゃない。今はあなたに触れられたくない。
ただ、私は海に抱かれていたい。