箱庭の外に見える海
カンニングをやってはいけない、そんなことはもちろんわかっていたのだが、ケンはその罪を犯してしまっていた。
その日一日こっぴどく叱りつけられたケンは、重い足取りで学校の門を出た。それを待ち伏せていたかのように、アキラは軽い口調で彼を呼び止めた。
「アキラ、お前まだいたのか」
「そりゃ、お前がしでかした後どんな顔して出てくんのか、気になったのさ」
決まらない表情をし、アキラは頭を掻く。ケンはその姿を遠くに見つめながら、そっと彼方の風景に目をやった。
「なんで、カンニングなんてしたんだ。内申に響くのくらい、お前だってわかっているだろ」
「そんなの、わかっている。けど」
「けど?」
「どうしても、青町に行きたいんだ」
まあ、わかるよ。アキラは素直に呟く。彼らの見つめる遠くには、暗く閉ざされた壁がただ漠然と佇んでいた。
壁町。彼らの住む町は、そう呼ばれている。
ケンのクラスの授業は、近代史だった。壁町に住む生徒たちにとってはこの授業しか他の町を知る機会はなく、国語や数学のような授業よりもよっぽどの集中力をもって参加するものが多かった。そしてケンも、その例外ではない。
「前回の授業でも話した通り、この国は全部で四つの町に分かれている」
先生は、黒板に書いた地図を基にその実情を丁寧に説明していく。黒板に描かれた地図は、歪な三角形を台形のような三つが囲むようなものだった。
「君たちが住むこの壁町は、三つの町に囲まれるように存在している。内陸の町みたいなもんだな。そして外にある町が、白町、緑町、青町だ」
近代史の教科書を開くと、それぞれの町の風景が、描かれていた。ケンの住む壁町はどこかよどんでいるような気がし、そっと目を逸らし、ケンは他の町の写真を見る。高層ビルに囲まれた都会の雰囲気が漂う白町の写真、のどかな緑が広がる穏やかな緑町の写真、綺麗な海に囲まれた青町の写真。どれも馴染みのない風景に、ケンは密かに胸を高鳴らせる。
「いいか、お前たちがこの先移り住むかもしれない町のことだ。今からしっかり勉強していくようにな」
先生のその言葉を、生徒の何人かは重く受け止めているようだった。
「総合判定試験は近代史も含まれてるからな。これからの内容、しっかりノートとれよ」
先生はそういい、黒板をチョークで叩く。ケンはそこに映る全てを、必死になってノートに書きとった。彼の筆圧が、青町という文字の度、強くなっていった。
「ずいぶん熱心に授業聞いてたな、お前」
帰り道の最中、アキラはケンに投げかけた。中央の席に座るケンの様子は、最後尾の席のアキラにはひしひしと伝わっていたのだろう。見透かされたような状況に照れくささを感じながらも、ケンは表情を変えずに返す。
「ああ、自分の知らない世界がこんなものだとは」
「ケン、お前どの町に行きたい」
「俺か……青い海をこの目で見てみたい。広大に広がる青一面の景色を、この目に焼き付けたい」
ケンは遠くの黒壁を見つめながら、そう呟いた。ケンもアキラも、生まれてから今までこの壁町を出たことはない。生まれた町を、十八歳になるまでは出ることはできない。壁町で生まれた彼らは、判定試験を終えるまで他の町に足を踏み入れることは、できないのだ。もちろん判定試験の結果によっては、この町を出ることが出来ない可能性もある。しかしそれでも、彼らは未開の地へと足を踏み入れることへの願望が尽きない。
見えない景色ほど、憧れは強まっていく。ケンもアキラも、未だ見ぬ町々の風景に、恋焦がれていた。彼らの住む壁町には、海がない。内陸の町のここには、せいぜい川程度のものしかない。その広大な自然の光景に、ケンは特に強い憧れを持っていた。
「そうだな……俺も見たいさ。海というものを」
この時初めて、アキラも同じ想いだということを、知った。
そのことがなぜか、たまらなくケンにとって嬉しかった。
「不安だよ」
アキラのその一言に、ケンは動揺しながらそうだなと呟いた。
判定試験は、受験者の十八歳の誕生日の翌日に行われる。ケンより一ヶ月先に生まれたアキラには、その試験は目前へと迫っていた。同学年ということもあり、彼とは同じタイミングで模試を受けていたケンだが、毎回見せ合った判定結果は、彼も自分も緑町だった。
「直前模試はどうだったんだ」
「変わんないさ。緑町一直線の結果だったよ。緑町が格段にいやなわけじゃないが、あの景色を想像してしまっては、青町以外にありえない」
ケンはアキラの呟きに頷くばかりだった。緑町の景色も確かに申し分はない。のどかな風景に、新鮮な空気が流れ込んでいるのが想像できた。またいくつもの大河があり、彼らの目撃したい景色に当たらずとも遠からずのものがそこにはある。しかし、その情景に満足するほど、彼らの青町への期待感は小さくなかった。
「どうしてこうも、うまくいかない。俺たちの意思は強い。海への想いは、人一倍のはずだ。なのになぜその結果が、模試にも反映されない」
苛立ちを見せるアキラを、ケンはなだめる。判定試験及びその模試には、学力テストとともに心理テストも組み込まれている。彼はその心理テストの結果のことを言っていた。
確かにケンも、そのことについては十分に不信感を抱いていた。自分たちの想いが無下にされているような事態が起こっている気がしてならないのだ。
「実際の話、心理テストはお飾りだと言われているらしい」
「なんだと」
「希望を留意する意思を見せるためのフェイクで、実際は学力テストの判断基準がほとんどを占める。と、聞いたことがある」
アキラは苛立ちを通り越し、呆れたのか笑い出していた。以前職員室を通りかかった時、少し開いたドアの隙間から、先生達がそんな話をしていたことを、ケンは聞いたことがあった。聞き間違いだと彼自身は信じていたが、この惨状から、その期待は既に裏切られていた。
「俺たちは、このまま緑町に収まるべくして収まるのか」
「多分、そうだろうな」
空を見つめ、アキラはため息を漏らす。見上げてみると、壁町の空模様は、くすんだ雲に覆われて濁っていた。
「なあ」
「なんだ」
「噂話なんだが、抜け道の話を聞いたことがあるか?」
改まって言う彼に、ケンは首を横に振って答えた。
「この壁町に、一ヶ所だけ町を出る抜け道があるという話だ」
「そんな馬鹿な。そんな道、今まで見つけたことなんてないだろ」
ケンは顔を曇らせながら問いただした。この町に住む子供達は、皆幼い頃壁中を探し回り穴という穴を探すのが恒例だった。例に漏れずケンとアキラもそうして育ったが、一度として見つけたことはなかった。
「あくまで噂だ。でも、この学校の先輩の何人か、雲隠れのように消えていったって話をよく聞くんだ。判定試験の直前にだ」
アキラの目は決して冗談を言っているようではなく、真剣味を帯びていた。ケンはその事実を受け入れようとしたが、しかし決して納得している訳ではなかった。
「だか、そんなことをしてみろ。交通切符を得られなくなるぞ」
「それは……」
判定試験を正常に受けたものは、皆自分の住む町と故郷の壁町の交通切符を受け取る。この切符が無ければ、壁を超えた交通はほぼ不可能だ。それほど、この国は町同士はっきりと隔離されている。交通切符が得られないことは、つまりは故郷を捨てることになる。ケンはそれを諭していた。
「この町を捨てる、その覚悟はあるのか」
「……そうだな、すまなかった。聞かなかったことにしてくれ」
アキラはそう言い、ケンに笑いかける。だが明らかに、その表情は曇っていた。
アキラの誕生日であるその日、ケンは彼の誕生日を祝いに彼の家へと向かっていた。アキラの家は、学校へ向かう道の途中数分の場所だった。
ケンは、彼の誕生日を祝うことに、少しの不安を感じていた。数日前、アキラの模試の結果は緑町の判定だった。そのことに、やはり彼自身も晴れない気持ちを持っていたことは、ケン自身も感じ取っていた。そんな状況下での判定試験前日である誕生日を祝うことが、果たして正解なのか、ケンはわからずにいた。
アキラの自宅に着くと、ケンは玄関のチャイムを鳴らした。甲高い音声が響くと、女性の声が段々と近づいてくる。ドアが開くと、アキラの母親が笑顔で出迎えに来た。
「おばさん、アキラに会いに来ました」
「ケン君、ごめんね。実はアキラが朝すぐに出かけたみたいで、家にいないの」
アキラが家にいないことに、ケンは一抹の不安を抱いた。彼は決してアウトドアな人間ではない。ましてや、不安の募る判定試験目前のこの日に、家で勉強もせずにふらふらと外を出るなど、考え難かった。
ケンは玄関入り口を蹴り上げるように、走りだした。何か嫌な予感がする。ケンは、ただひたすらに走った。息が切れるとともに、その速度は衰える。その限界を行くようにして走り尽くし、彼は自宅に着いた。
彼がもし、彼の思う通りの行動をしたのなら、何か自分の元へ残していると、ケンは確信していた。
そして、その確信は見事的中した。
「手紙……」
ケンへ
俺は青町への、海への憧れを捨てきることはできなかった。
君の忠告を無視し、今からこの壁町を抜け出すことを許してほしい。
しかし、君も、俺の想いは共感できるはずだ。
アキラ
彼のその手紙と共に、古びた地図が入っていた。どこから見つけたのか、その地図は確かに抜け道らしき場所をしめす者であった。
ケンは裏切られたという感情と共に、その場に膝を落とした。
「なぜだ。なぜそんなことをしたんだ。アキラ」
激しい憤りと共に、ケンは溜息をつく。確かに彼の想いは十分理解できる。しかし、数日前に故郷を捨てることの悲しさを共有したばかりだった。さらに言えばケン自身は、自分の今までの努力を裏切ることは、自分のそれまで募らせた壁の外への想いや憧れを裏切ることにもなると考えてもいた。だからこそ、アキラの行動が許せずにいた。
「俺は、こんなものに頼ることなどない」
判定試験の四日前、ケンは言い表せない焦燥感に駆られていた。
アキラが壁町を抜け出したその日から、ケンは人が変わったかのように勉強に励んだ。自分は違う。あんな卑怯者のアキラとは違う。正しい道筋で、青町へと行くのだ。その想いを糧にして、彼は毎日明け暮れるまで学びへと時間を費やしていた。しかし、一向に模試での判定は緑町から変わる気配はなかった。
「このままで、俺は大丈夫なのだろうか」
ここまで熱意を燃やしていたケンも、ガス欠寸前だった。
そして、最悪なことが、その日起こった。
ケンは最後の模試の結果を受け取りに学校へと来ていた。曲がりなりにも勉強に勤しんでいた彼は、その結果に全ての期待を込めていた。そして模試の結果を受け取りに職員室に入ろうとした時、小さく教師たちの声が耳に入った。
「ケンの結果はどうでしたか」
「ああ、やはり緑町でしょうな」
「おお、それは良かった。彼も良い町へと飛び出していくんですね」
穏やかな表情で、彼ら教師は話していた。
ケンは現実を目の当たりにした。自分は、もう緑町に行くほか道はないのだと。
冗談じゃない。
ケンはその会話を聞くや否や、学校を飛び出した。
なにが良い町だ。ふざけるな。俺が行きたいのは青町だ。それを彼ら教師は理解してくれないのか。憤りと共に足の速度を速め、ケンはその道を走っていた。アキラの残した、地図の道を。
ケンは、地図を捨てきれなかった。むしろその地図を糧にして、判定試験を乗り越えようとさえ思っていた。彼にとって地図は試験のお守りのようなものだった。
しかし、絶望に近い事実を受け止めたケンにとって、その信念はつまらないプライドとさえ感じられた。
人間、直前まで追いつめられると何を起こすかわからない。今まさにケンは、追いつめられた犯罪者の気分だった。
何としてでも、青町に行くんだと、ケンはすがりつくように地図を睨んだ。
「何としてでも。俺は」
バツ印の場所はすぐそばだった。全速力で森道を駆け抜ける。まさしく抜け道がある様なその道に、ケンは心が躍った。夢が目前までに迫っている、絶望が歓喜へと変わることが、嬉しくてたまらなかった。
バツ印の場所にたどり着くと、黒壁が目の前に立ちはだかった。どの壁とも変わらない変哲のないもののように見えた。しかし触れてみると、壁を押し出せるような感覚があった。
「ついに、ついに青町に……」
ケンはやつれた笑顔を浮かべながら、壁を押し、潜り抜けた。
潜り抜けたその先には、青い海が広がっていた。はずだった。
透き通った海風は、淀んだ空気に塗り替えられ、濁った景色が目前には広がっていた。心なしか、空気も悪い。むせかえる様な雰囲気に顔をしかめると、遠くの方で人々が揺れ歩く姿が見えた。
「あれは……」
海、ではない。泥にまみれた地面を練り歩き、人々はそこに埋もれた金属を拾い集めていた。
「あれは、アキラか」
その群衆の中には、判定試験直前に逃亡した、アキラの姿があった。やつれた姿、歪んだ表情、かつていきいきとした表情で学校での生活を共にした彼とは、あまりにも違いすぎた。
「また来たのか」
驚きを隠せないケンのもとに、汚れた格好をした老人が近づいてきた。
「お前みたいなやつ、よく来るわ」
「あなたは……」
「この町の住人だよ」
この町……。見渡しながら呟くケンに、老人は表情を変えずに呟いた。青町と。
「ここが、青町……」
「海がない。お前みたいな奴らはよく抜かすがな」
「俺みたいな奴って」
「町を抜け出してくる奴らや、落ちこぼれどもさ。何を勘違いしてるか知らんが、そんなものはないぞ」
「これが、青町だと……」
夢、憧れ、期待。全ての裏切りの果てには、耐えがたい後悔が広がっていた。後退るケンの背中に、老人は投げかける。
「この町を出ることは出来ねえよ。切符がなけりゃな。まあ、そんなもの持ってる奴、この町にゃいないけどな」