【Program2】10(2)
首に向かっていた手が、ピタリと止まる。──言葉の通り、刻水は細く、長く変形した指の爪を立てて首を刺そうとしていた。
刻水は、咄嗟に克主から離れる。
「いや、殺しはしない。死を望む者に与えるような真似はしない」
キツイ物言いの声は低く、異様な声色だ。かつての透き通るような声ではないにも関わらず、ここでも克主は怯まない。
「僕は、まだ愛している」
真剣な想いが投げかけられ、刻水の表情がグニャリと変化する。──戯言を抜かすなと。
「まだ、そんなことをほざいていたか。克主、お前の愛した刻水は、もう死んだんだ。私の前から去れ」
この口調は竜称のものに近い。どの道を選ぶのか、もう明確に刻水は決めている。これは、一種の表れだ。
「姿が今のままでも、僕は構わないんだ。……刻水」
克主は再び刻水を強く抱き締め──求めるように無理にキスをした。克主の表情は、みるみる悲しみを濃くしていく。
言葉にならない悲しみは、ミイラのように張り付いた皮膚のせいだろう。以前はやわらかかったであろう唇は、今は膨らみがまったくない。
克主の行動に、刻水は驚いたのか。一瞬だけ固まり、慌てて克主を振り払う。
拒絶しなければと振り払ったせいか、刻水の瞳はうっすらと光る。けれど、それ以上に瞳をうるませていたのは、克主の方だ。
「僕は、こんなにも……姿を、声を、心までも蝕んで変えていった『女悪神』の『力』が憎い! 愛おしい人を、こんなにも変えてしまったものが……『力』に魅了された人のことも、『力』を恐れた人のことも……」
悔しさに震え、涙を落とし叫び、声ならぬ声が消えていく。──ああ、こんな思いを持っていた人に龍声が逸早く会っていれば。刻水のそんな願いが聞こえた気がした。
「刻水」
思考を切断するように、克主がまっすぐに刻水を見つめている。悲しみを何重にも重ねて。
克主の口調が以前とまったく同じ、やさしい囁きで。刻水の心はグラリと揺らいだのだろうか。緊張感が切れたように、刻水の厳しい表情が崩れていく。
「克主……」
微かな声。──それは、かつての『刻水』を鮮明に思い浮かべるには充分なもの。三度、克主の腕が刻水に伸びていく。
次第に重なっていく肢体。刻水は戸惑う。
「あの……克主? 私たち、こんなこと……一度も。それに、私、こんな姿に」
「僕は、刻水であれば何も問題はないんだけど?」
にこりと克主が微笑み、刻水は拒めなくなる。ただ、戸惑いが募っていくだけ。
ふと、龍声が浮かぶ。──他人を疑わずに前向きに生きてきた龍声。
どうして……龍声が受け入れられなかったのに、私は……今でもこうして幸せを手に入れようとしているのだろう。──幸せと戸惑いと、悲しみが混ざる思いは、しっかりと伝わってきて。気づくと、夜明けが近づいていた。
刻水は密着した克主と離れていく。
「ごめんなさい。私、戻らなくては。みんなを……今更、裏切れないわ」
克主は無言のまま刻水を引き寄せる。言葉よりも行動に移る人になったのは、歳月のせいか。はたまた想いの強さか。
刻水は、もう無理には克主を振り払えない。
「このままの姿でもいいって……言ってもらえてうれしかった。ありがとう。愛しているわ」
そっと克主の唇に唇を重ねる。刻水の頬からは、スッと一筋の雫が落ちた。途端、克主は、眠りに落ちていく。
ぼやけていく視界と朦朧とした意識の中で、克主には刻水の言葉が聞こえただろうか。
「もう、これで本当にさようなら。夢は、おしまい」
畝様……忒畝様……
──僕を呼ぶのは、誰だ?
忒畝はゆっくりと重いまぶたを開ける。そうして驚く。ボロボロと零れ落ちる感情の雫に。感情の整理がつかない。今まで見たことは過去であって、現在ではないというのに。
整理がつかないのは、感情だけではなく状況もで。
「忒畝様!」
必死に呼びかけてくれる人を見て、注ぐような蘇芳色の長い髪で視界を包まれて、大きく見開かれた李色の瞳を妻だと誤認して両腕を伸ばす。
「忒……」
口を覆い声を出せなくしても、その人は抵抗をせずに身を委ねてくる。だからこそ、余計に誤認しようとも、不自然ではない。
覆った唇を離し、頬を愛おしくなでれば、その人は安堵の笑みを浮かべる。
「忒畝様、よかった……本当によかったです! もう目覚めてはくれないものかと、私はどうしたらいいのかと……」
言葉を言うなり、その表情は安堵とは遠くなって。その矛盾が、混乱する頭を正常に戻す手助けをする。
──ああ、そうだ。僕は『忒畝』であり、この人は『妻ではない』、と。
当たり前のことを当たり前と思い出せば、頬に触れていた手はパッと離れて。気まずさが急激に込み上げる。突き動かされた感情のままに行動したと現状を理解して反省しようとすれば、追い打ちをかけるかのような事態。──ここはベッドの上。更には、見降ろされている状況。
状況を理解したなら、忒畝はスルリとベッドから抜け出して椅子代わりに腰かける。理性が働きだせば涙は止まり、あれは母が現実に戻る手助けをしてくれたのではないかとも思えてくる。
身なりを整えながら頭の整理をしていると、
「あの……危険を承知で過去を見てくださって、ありがとうございます」
背後から聞こえたのは、行動を咎めるのではなく、感謝の声。──これでは、言い訳のひとつもできない。
「悠穂が……僕の妹がいた。ああ、正確には妹ではないのだけれど」
一度、二度、座るマットが揺れたと思えば、ニュッと左側に現れたのは、黎馨の驚いたような顔。
声が詰まった忒畝だが、何とか話を繋げる。
「無意識で僕は母さんを追ってしまったようで……ああ、僕の母さんは四戦獣のうちのひとりなんだけれど。それで、そこに妹の……過去生と言ったらいいのかな?」
言葉を選びながら言う忒畝に、黎馨は聞き入るようにうなずく。
「ああ、うん。妹の過去生がいて。だけど、途中で意識が戻ってきた。だから、妹の過去生がどうなったのか途中までしか見られなかった。気になっているんだけど、また過去を見られるものなのかな?」
「はい、忒畝様がお望みになれば! ただ、今日は、もうきちんとお休みになってほしいというのが本音ですが……」
相当、心配したのだろう。どのくらい眠っていたのか──と視線を時計に移せば、日付は変わり昼前だ。
「休む、というより……ちょっと活動しておこうかな」
苦笑いする忒畝を、黎馨はきょとんと見つめた。




