【Program2】10(1)
邑樹はふと顔を上げる。すると、時林は照れ笑いをしていた。
「こんな風な出会いでも、『友達』と言ってくれたら……私はうれしい」
涙は止まり、代わりに照れ笑いが移る。
「きちんと謝らせてくれて、ありがとう」
やさしく微笑む邑樹に、時林は今にも抱きつきそうな笑顔を返した。──ザッ、ザッと、砂を荒く歩く音がする。
ザッ、ザッ
土を踏み締め歩くひとつの影。竜称だ。
暗がりに月明りを浴びて歩く彼女の心残り──それは、かつての婚約者か。
闇夜が隠すようにしている今の竜称は、よく見れば体中に飛び散ったものがある。──すでに、竜称は『用』を済ませたのか。
裕福な家庭であたたかく上品に育った彼女にしてみれば、その後に用意されていたはずの未来を追いたくなるのは自然だ。『今の自分は』という思いが強ければ、強いほど。
「バケモノ!」
突如、響いてきたのは、女の声。
彼女は、元婚約者の姿を一目だけと見に行ったのかもしれない。
たとえ、それが『元婚約者の家庭』を見ることになっても。
一目見れば、辿っていたはずの道が見える。──そう思って、本当に一目だけ見たかったのかもしれない。
けれど、たった一言。
たった一言だけでその思いは、いとも容易く崩されたのだろう。
枯れたはずの涙が頬を伝っている。月を見て、呪えというように微笑んでいる。それでも、歩く足を止めず、何度も何度も頬を拭う。
皆に会うまでにはまた、気丈な自分でなければと思っているのか。龍声がいない今、彼女は弱音を吐かないだろう。
すすり泣く竜称の姿は、幼い少女がトボトボと歩いているようにも見える。心残りをなくした彼女は、ただただ皆との合流地へと歩いていく。
懐かしい──そう刻水の声が聞こえた気がした。だが、刻水が声を出したとは考えにくい。緋倉に刻水は戻ってきている。
街の一角の廃墟をこっそりと見て回っている。その様子からしても、刻水は声を発しないだろう。
何もない。──また刻水の声だ。
刻水は忒畝の母、聖蓮と同一人物。過去を漂うように見ている息子の忒畝が、刻水に同調し感情が声のように聞こえるのだろうか。
まるで今の自分のようだと、ゆっくりさまようように歩く刻水。空を見上げれば月が高く、周辺を月明りがほんのりと照らしている。
ああ。この地は……この癒してくれるような感覚は、何一つ変わっていない──刻水は瞳を閉じている。懐かしい思い出の頁をていねいにめくっているかのように。
私に、あの人を忘れられるだろうか──思い浮かべたのは、克主か。一度は突き放したのに、歳月を経て恋人になった人だ。理解はできても、忒畝の心はチクリと痛む。
戦いの間も心のどこかで、いつも支えにしていたことだろう。そういえば、龍声もやっとこれで会えると刻水を元気づけようとしていた。
ふと、刻水は周囲を見渡す。忒畝はドキリとするが、刻水に姿は見えないはず。忒畝自身も、自らの手すら見ることはできないのだから。
けれど、刻水の警戒は増すばかり。瞳に鋭さを帯びていく。
廃墟に盗み目的で誰かが入った? ──殺気とは違う。むしろ逆というべき感情。見つかりたくない一心は、騒ぎにしたくないのだろう。見つかれば、騒がれることが必至。刻水はただ思い出に浸っていたいだけだ。
刻水が固まって動かなくなる。視線を追うと、そこにはひとつの人影。
その人影は、刻水に向かってくる。
月のやわらかい光は、残酷にふたりを照らす。影の持ち主は、幾分か身なりをきれいに整えるようになった克主だ。
「刻水、刻水だろう?」
少年時代と青年になった克主を見てきたからこその直感。刻水が別れたころよりも顔つきはもっとしっかりしたものになっているが、面影がはっきりとある。しっかりしたのは、声も同じで。
克主は『四戦獣』の中に刻水がいると信じ、探しにきていたのか。この場所なら、刻水と会えると、危険も顧みずに。
刻水は微かに震えている。歓喜、絶望、拒絶──入り混じる感情は渦になり、どれも定着しない。
呼びかけに返答がないのに、克主は駆け出してきた。覚醒し、手足や顔も変貌しているにも関わらず。ギラギラと大きい瞳にも、裂けた口にも、伸ばし切ったボザボザな髪も、魔物を切り裂いてきた鋭利な爪にも臆さずに。
どれを持って刻水だと確信したのか、迷わずに手を伸ばし抱き寄せる。
「刻水」
強い強い抱擁。それは、もう何があっても離さないと伝えてくるような。
克主の想いに、刻水はゆっくりと首に手を回そうと腕を動かす。すると、克主は瞳を閉じたまま意外なことを言う。
「いいよ。殺すのなら、殺せばいい」