【Program2】4
それを見ても、刻水は無表情だ。そして、死を覚悟したのか。刻水は静かに瞳を閉じる。
ブシュ……
生あたたかい血が飛び散る。
血は、刻水の頬にも飛び散って。──いや、刻水はそれを全体で受け止めていた。
そう、この血は刻水のものではない。
痛まないのをふしぎに思ったのか。刻水はゆっくりと瞳を開ける。だが、あまりの光景に、再び瞳を閉じて顔を背けた。
そこに忍び寄る影。次の瞬間、刻水はその影につかまれる。
「あんたは、ここへ死にに来たのか!」
罵声。
刻水が目を開ければ、目の前には別の異形の者。けれど、その者はどこかにきちんと人としての意識を持っていて。
「死にに、ここへ来たのか? と聞いているんだ、答えろ!」
変形している長い爪が刻水の首に当っている。
見開かれるアクアの瞳。髪だけではなく、腕や首に生える白緑色の毛。──同じ血筋の者だと、刻水は確信したのかもしれない。
姿を変えてしまうほどに永く、戦いに身を投じて目の前の彼女は生きてきたのだろう。人の姿を失っても尚、彼女の瞳の奥にはやさしさが残っていると、刻水は感じていたのかもしれない。強く、人を想うやさしさを。
「違ったわ。でも……それでもいいと思ってしまったの」
刻水が言うと、手は雑に離される。
「来い、会わせてやりたい娘がいる」
強い口調で言うや否や、今度は刻水の腕を無造作につかむ。そのまま歩き出し、刻水は引っ張られながら何とか付いていく。
黙々と刻水の手を引いて歩く前方の姿を時折見たが、相手は振り返らない。
一方で、刻水を引っ張る者は、警戒するように周囲に意識を振りまいている。ふたりは時に素早く、時にゆっくりと足を進めた。
見えてきたのは岩場。周囲に鉄臭さが強まる。
唐突に止まった手を引く者に、刻水はぶつからないよう慌てて足を止めた。
「龍声!」
女性にしては低く強い声が荒野に響く。
彼女の視線を追うと、そこでは幼い少女と魔物が戦っていた。少女もまた人の形からは離れた異形の姿をしているが、幼い少女が相手にするとは思えないような、恰幅のいい緑色の魔物を前にしている。戦い始めたばかりなのか、まだどちらにも傷はないようだ。
けれど、よく見れば──少女のまわりには幾重にも重なった色とりどりの魔物が。恐らくは、息絶えて。
「竜称!」
『龍声』と呼ばれた幼い少女は、戦いの最中だというのに刻水たちの方を向いた。うれしそうに笑って。──次の瞬間、龍声は戸惑いなく魔物を一撃で仕留める。
龍声は──人の姿のままなら、まだ十歳くらいだろうか。
刻水の表情は複雑なものに変わった。龍声の姿に、妹の悠水を重ねたのか。
竜称は横目でそれを見る。だが、ほどなくして龍声が駆け寄ってくると、視線を龍声へと向けた。
龍声はうれしさからか弾んでいる。そのせいで、ボブの短い髪が揺れ──見えた。焼き印が。それは、龍声の右耳に。ちいさいが、しっかりと。
『91802』
開発所で生まれた者はコードNo.が体のどこかに焼き付けられると、刻水もどこかで耳にしたことがあったのだろう。動かせない驚きの瞳が、それを物語っている。
一方の龍声は、竜称に頭をなでられて満足そうに笑っている。異形であることを忘れているかのような笑み。
姿さえ人からかけ離れているものの、ふたりの姿は刻水に悠水と過ごしていたときを思い出させたのかもしれない。夢でも見ているかのように、立ち尽くす。
「なあに?」
戦地にいるということを忘れさせるような無邪気な少女は、明るく笑っている。
竜称は首を軽く振る。それで龍声は、刻水の存在に気づいたようだった。
「あ、新しく来た人? 私、龍声というの」
龍声は刻水を見上げて手を差し伸べる。
刻水は呆然としたまま手を出す。──ふたりは握手をした。
「私は、刻水」
刻水の表情は沈んでいる。涙があふれてきそうなほどに。
「竜称が放っておけなかったんだね」
龍声の言葉は意外だったのだろう。刻水の目は見開かれたが、声は出ない。至って明るい声に、何も言えないのか。
「違う。目の前で無抵抗に死なれるのが迷惑だっただけだ」
「無抵抗に?」
龍声の視線は一度、竜称に移ったが、再び刻水に戻る。
「無抵抗に殺されて、よかったの?」
「それでも構わない……そう思ったのは事実よ」
刻水はおもむろに声を出す。
「何で? 魔物でさえも抵抗はするよ。貴女は、大切な人を守りたかったんでしょ? だから、ここへ来たんじゃないの?」
純粋な心が痛い。
あまりにも龍声は澄んでいて。
「大切な人と、もう一度、一緒に生きたいと思わないの?」
「思った。殺されそうになって……貴女に助けられたあのとき」
刻水は竜称に視線を送る。
竜称はあえて視線を合わせようとはしない。
「大切に思っていた人がいたんだよね! それなら、そんなにかんたんに死のうと思っちゃ駄目だよ! 絶対に。自分を大切にしなくちゃ」
刻水の言葉がうれしかったのだろう。龍声は声を弾ませていた。
一方、竜称はどこか苛々としている。
「これからは、どうしたいんだ。生きていくのか? それとも、また、あんな真似をするのか?」
二者択一を迫る。
刻水は意を決すると、
「生きたいわ、私」
と、強く言った。その言葉に竜称は微笑む。
竜称は『ちょっと待っていろ』と言うと、一度姿を消した。
五分も経たずに戻ってきた竜称の手には何かが握られていた。
「以前、私が使っていた槍だ」
スッと、刻水の前に槍を差し出す。それには、何かの乾いている血が付いている。
刻水は、槍に手を伸ばす。
「私は……この槍のようになっていっても構わない」
深く息を吐くと、刻水は槍をしっかりと握り締め、受け取る。
「ありがとう」
ふたりに礼を言うと、刻水はあてもなく歩いていく。
ほどなくして刻水は、同じくこの地に来てまもない年の近そうな少女に出会う。
「私は、奏」
「刻水よ。よろしく」
誰かを自然と必要としてしまう地で、ふたりは何となく一緒にいることが多くなっていった。──刻水は竜称から譲り受けた槍を、奏は無意識の内に手にしていたという斧を武器に、励まし合う。
人の姿のままで戦い抜き、何とか心を保ち──生きていた。
今までひっそりと身を潜めて暮らしていた彼女らにとって、初めての『友』。『親友』と互いに認めるのも、時間はさほどいらない。
幾日が経ったころか。竜称は寄り添うようにいる、刻水たちを目にした。
「覚醒は、まだか」
呟き、悲しそうにふたりを見つめて、彼女らに声はかけない。
「生き残るのはどちらになるのか。はたまた……共倒れか?」
歩き始め、横目でふたりを捉える。
ふたりのいた場所を忘れるかのように、竜称はその空間から姿を消した。