【Program2】1
「これでもう、貴男と会うのは最後になるわ」
女の声が静かに響く。
礼拝堂の十字架の前に並ぶ椅子に、男女は人目を憚るように座っている。十字架の上にあるバラ窓と、その下部の両サイドに位置する縦長のステンドグラスからわずかな月灯りが広がり、周囲をほんのりと照らす。
男女の位置まで月明かりは、若干届くのみ。
「別れましょう」
顔を上げた女は、アクアの瞳。
白緑色の髪とアクアの瞳は、『女悪神』の血を受け継ぐ者の象徴。
この場面を、忒畝は知っている。けれど、なぜまたこの場面に戻ってきたのかはわからない。
「戦いから帰ってきた私は……もう、私ではないわ」
ちいさな声が響く。
扉の取っ手を左手でしっかりと握る。想いを断ち切るように強く力を込め、扉を開けた。
ほのかな月明かりが差し込み、彼女を照らし包む。
風が髪をなびかせた。
扉がゆっくりと閉まっていく。──同時に、スッと見えなくなっていく白緑色の髪。
やがて男は虚ろなまま、何かに導かれるようにヨロヨロと歩いていき、ステンドグラスが輝く十字架の前でひざまずく。這いつくばった両手をおぼつかない様子で胸の前に組み、十字架を見上げ神に祈りを捧げ始める。
頬には、涙がただただ流れ──涙を気にもかけずに、その姿は神に何を捧げてもいいと言っているかのような祈り姿。
『かつて貴方様を守っていた者の血を継ぐ、女悪神の血を継ぐ彼女らをお救いください。刻水を、お守りください』
木霊は、忒畝の鼓膜を通過する。言葉よりも、その容姿をまじまじと見てしまって。
男は大きな丸眼鏡をかけ、耳までかかる琥珀色の髪。──刻水が『克主』と呼んでいた。克主研究所の初代君主、その人だろう。
克主はうつむき、そっと握った刻水の手の感触を思い出しているのか。それとも、言葉を思い出しているのか。
「ともに生きていこうと決めて……刻水にもそう告げていた。偽りは、何ひとつ……なかった……」
克主の肩は上下に動く。
忒畝には、見ているのが辛い。刻水は、母の聖蓮で。その母が愛していたのは、父ではなく。
まして、この男──克主は君主とは言い難い、きれいと表現しにくいような容姿をしている。そんな男が、憧れた研究所の初代君主であったとは信じたくない気も湧く。
いや、そもそも時代が違う。
決してきれいと言えない姿であっても、時代が貧しければ仕方ない。好んでしているわけではないのだから。それとも、他に集中するとそれ以外に気が回らなくなるのか。もし、そうだとすれば、忒畝も人のことは言えない。
それに、刻水は──厳密に言えば母ではないと言える。
聖蓮は父と同じようにおだやかな人だった。厳しい口調は聞いたことがない。呆然としていることがあっても、にこやかでやさしい人だった。けれど、刻水は突き放す言い方をできる、強い人。容姿は同じとはいえ、別人と言っていい。
「刻水……どうしたら君の強い意志は変えられた? 僕は世間から身を隠す生活になろうと、刻水がいてくれさえすれば、望むことは何もなかったのに……」
克主は今にも砕けてしまいそうだ。
見ていることしかできない忒畝には、どうすることもできない。──そもそもが、過去のこと。過去を変えるのは不可能だと割り切るしかない。
刻水は克主への想いを捨て、自らの運命を受け入れるように立ち上がっていた。何が彼女にそうさせたのだろうか。まるで何かを守らなくてはならないと、自らの望みをつかむことは身勝手だと思っているようだった。最後まで気丈に、強い女性を演じていたようにも感じられる。
『わかっているでしょう? 貴男とは……。私は……。ここにはいられないの』──ああ言った刻水は、微かに瞳がうるんでいた。
本当は、刻水も克主と一緒にいたかったに違いない。
一度も振り返ることなく、教会を去っていった刻水の、悲しいほど美しく儚い幻影を、克主は何分も何分も見ているのだろう。
呼吸を殺すように、ひたすら祈る姿が痛ましい。
やがて克主は何かを決意したように瞳をまっすぐと開け、十字架を仰ぐ。ゆっくりと立ち上がり、深く礼をして帰路を辿っていった。