【Program1】3
夜中の教会で、一組の男女に琉菜磬は目を留めた。
白緑色の髪──を持つ女に目が釘付けになって。他人が持つ白緑色の髪を初めて見た。
うっすらとした灯りしかないのに不気味なほど輝き、透き通るように見える髪は、とても人間のそれとは思えない。
礼拝堂の十字架の前に並ぶ椅子に、男女は人目を憚るように座っている。十字架の上にあるバラ窓と、その下部の両サイドに位置する縦長のステンドグラスからわずかな月灯りが広がり、周囲をほんのりと照らす。
男女の位置まで月明かりは、若干届くのみ。
「これでもう、貴男と会うのは最後になるわ」
女の声が静かに響く。
「別れましょう」
顔を上げた女は、アクアの瞳。
白緑色の髪とアクアの瞳は、血を受け継ぐ者の象徴。間違いなく、同じ血を継ぐ者だ。──忌々しいという思いを積み重ねてきた、呪われた血。
「刻水、僕は君といつまでも一緒にいたい。君を、守ってあげたい」
男も顔を上げ──恐らく女の手をそっと包んだのだろう。
「刻水……」
ジッと見つめる男の視線から逃げるように、女はうつむいていく。
「いつか、貴男と別れる日がくるとわかっていたの。貴男もそうでしょ、克主」
「僕は、今の地位を投げ出しても構わない。ともに、静かに暮らせるのなら……」
「無理よ!」
途中で言葉を遮った叫びは、覚悟を決めている強いものだ。抗うことを許さないものから、逃れる術はないと一種の意思のような叫び。
女は勢いよく立ち上がる。
「わかっているでしょう? 貴男とは……。私は……。ここにはいられないの」
言い終わるや否や、女は十字架へと伸びる絨毯の上へ歩いていくと、今度は十字架に背を向けて一直線に歩いていく。灯りから遠ざかるように暗い方へ、暗い方へと。
女悪神の血を継ぐ者は、ひっそりと身を潜めて暮らすと、このころ琉菜磬は聞いていた。
人目に付かぬよう暮らしていた先に待ち構えていた未来。──それは、地獄への門だったのか。重く、ただ静かに時を待ち、自ら向かわざるを得なくなると嘲笑って、ジッと待ち構えていたのか。
「刻水! 君が帰ってくるのを僕は待っている。いつまでも……刻水を愛しているから!」
声に反応したように、女は外へと繋がる扉の前で立ち止まった。
「戦いから帰ってきた私は……もう、私ではないわ」
ちいさな声が響く。
女の前には、しっかりと閉まった扉。その扉をグッと押し、女は外の空気に包まれる。
外はほのかな月明かりのみ。けれど、女は煌めいて見えた。
風が髪をなびかせる。
扉がゆっくりと閉まっていく。──同時に、スッと見えなくなっていく白緑色の髪。
男は虚ろなまま、何かに導かれるようにヨロヨロと歩いていき、ステンドグラスが輝く十字架の前でひざまずく。這いつくばった両手をおぼつかない様子で胸の前に組み、十字架を見上げ神に祈りを捧げ始める。
頬には、涙がただただ流れ──。
「かつて貴方様を守っていた者の血を継ぐ、女悪神の血を継ぐ彼女らをお救いください。刻水を、お守りください」
涙声は礼拝堂で幾度となく繰り返される。
壊れた玩具のように、響き渡っていく。
祈りを捧げる男は、今にも砕けてしまいそうだ。けれど、白いリヤサをまとった琉菜磬はただ、遠くから見守っている。
いや、見守るしかできないだけ。声をかけられる言葉を、見つけられなくて。
「琉菜磬様」
背後から静かに聞こえた声に、琉菜磬は振り向く。
「黎馨」
そこにいたのは黒の修道着を身に着けた妻。黎馨の持っていたランプで、徐々に照らされていく。
琉菜磬は涙をあふれさせていた。恐らくは、十字架の前で祈りを捧げ続ける男に、過去の己の姿が重なったのだろう。
これは、神父が去ってから数年経ったころだ。多少なりとも凛とした雰囲気をまとうようになった琉菜磬が一番苦悩したころ。
神父の残してくれた言葉を糧に、悲しみが深い分、多くのことを敏感に感じるようになれると、前を向こうと必死だった。
初めは、何もないということを、ありがたく感じ。次に、一方で以前と何も変わらないとも感じ。変わらずに毎日毎日、祈りを捧げていた。
そうして、ふと思う──祈ることしかできないなら、変わりないと。
そうして、同じ血を継ぐ者を初めて見たこの日。琉菜磬は同じ血を引く者たちを、その周りの者たちを『神父』という地位がありながらも救えないと嘆いた。
まだまだ見た目は少年の琉菜磬。すでに成熟している黎馨には、辛い姿に映ったのだろうか。彼女は、なぐめるように彼を抱き寄せる。
「貴男はそんなに自分を責めないでください。何ひとつ、貴男に罪はありません」
黎馨の悲痛な想いに対して、琉菜磬からは言葉が出ない。涙を流したまま、黎馨にしがみ付くこともなく。
ふたりが惹かれ合ったのは、いつだったか。
神父が教会を去り、琉菜磬が継いだと黎馨がシスターや孤児たちに告げ、皆は快く受け入れてくれた。
不慣れなことは当たり前と、黎馨は率先して何でも琉菜磬のサポートをした。
皆にも黎馨にも感謝し、琉菜磬は過ごす。その感謝の分も、祈りを捧げて。
琉菜磬の祈る姿を、黎馨はずっと見ていた。まっすぐに、ただ静かに神に祈る琉菜磬の姿に、いつからか心を囚われ惹かれているように。
度々、琉菜磬は血筋ゆえの体の痛みに耐えていた。その横で、そっと寄り添ってくれたのが黎馨だ。『大丈夫』とやさしく繰り返し、背中をさすってくれる。あたたかさがうれしく、心を惹かれていった。
ふたりは、恋に落ちていて。
ところが、琉菜磬の成長が遅いのと体が弱いのは、月日を重ねる毎に顕著になっていく。
『女悪神』の血は「女」のみが継ぐことができる。本来は、女悪神の血を継ぐ男は、胎児のころから『女悪神』の力の負荷を受け、多くの場合は生まれない。生まれても短命を辿る。『女悪神』の『力』ゆえだ。──だからこそ、開発所では『失敗作』として『Er.(Error)』を管理No.のあとに押されて処分されていた。
黎馨に抱き締められて、琉菜磬は長く生きたと思っていた。
──だから、死は怖くはない。
徐々に朽ちていく体を静かに受け止められるほど、その思いは冷静で。
ただ、それは何も手の内になかったからこそで。手放す恐怖を知らなかっただけで。──怖くないと思いながらも、手放さなければならない恐怖を、知ってしまっていた。
琉菜磬は黎馨と恋をして、初めて恐れを抱いた。いつかは、黎馨を手放すのだと。
──自分勝手なことだ。
──こんなに身勝手な想いを、神はお許しにならない。
けれど、願ってしまう。
──もし、ご慈悲があるならば。
と。
都合のいい解釈だ。
嘲笑ってしまうほどに。
神父でありながら、失敗作でありながら、何て泥臭いほど人間らしいのだろう──琉菜磬は自身を笑ってしまう思いを抱えながらも、望みを手繰り寄せたいと願った。
腕をゆっくりと上げる。
すがるように、黎馨を抱き締める。
「この私に……琉菜磬様のおそばに、琉菜磬様に寄り添うことを、許してくださるのですね」
黎馨に想いを告げたのは、神父がいなくなってから数ヶ月後だった。美しい黎馨は一瞬息を呑んで。まぶしいくらいの笑顔を浮かべ、涙を落とし喜んでくれた。
事実婚しかできない琉菜磬に、年齢は関係ない。
黎馨の手にしていたランプは琉菜磬の姿を揺らしながら照らす。
百五十センチほどの背丈。
筋肉のさほどない、細い腕。
その襟足に届く長い髪の色は、色味の一切混ざっていない白髪。
顔を上げれば、大きなアクアの瞳が尚に目立って見える。
カラン
ランプは床に転がり、揺らめいていた灯は消えた。
静まり返る協会に、ふたりの熱い鼓動がじんわりと高鳴り響いていく。