82/409

【Ｐｒｏｇｒａｍ１】１（２）

　来葵《ライギ》の走った場所は、数々の死骸が悪臭を放ち、腐敗した姿を露わにしている通路だ。一番人気の少ない道を選んでいるのだろう。

　悪臭は来葵《ライギ》の鼻を通り、視界はむごたらしさを伝えているはずだ。吐き気を覚えるのか、顔色は青い。だが、一気に走り抜ける。大きな荷物を抱えて走る、来葵《ライギ》の呼吸は荒い。そこへ──。

「大胆……というべき、かな？」

　淡々とした声が背後から聞こえ、来葵《ライギ》は血の気が引いた。足が止まる。

　おそるおそる振り返る来葵《ライギ》。いたのは──壬《ジン》だ。

「あの焼印係は、処罰されるだろうな」

「見逃してほしい」

　記録にしても、焼印にしても欠番は許されないと壬《ジン》は示唆している。来葵《ライギ》も理解していると言ったも同然。理解した上で、行ったということだ。

　他人にまで罪を共有させる行為をしておいて、都合のいい言葉を言っている。愚かしいと来葵《ライギ》自身も思っているかのような。

「戻ったら、私も処罰を受ける。そのつもりでいるし、覚悟もある。ただ、この方を送り届けなくてはいけない」

　壬《ジン》は来葵《ライギ》に冷たい視線を送る。それが来葵《ライギ》を熱くさせたのか、懇願は続く。

「頼む！　さっき、助けてもらった礼すらできていないのに、虫のいいことを言っている自覚は……ある」

　来葵《ライギ》は荷物を一度置き、両手をついて頭を下げた。頭を踏まれても構わないと思っているのか。一心不乱に、額を冷たい床につける。──すると、ふしぎなことが起こった。

　異臭がフッと消え、温度管理のされている建物内に、冷たい風が吹き荒れる。

　ふと、来葵《ライギ》は頭を上げる。

　壬《ジン》はいない。

　後ろを向く。

　すると、裏口の扉が開いている。見える外の景色は真っ暗で、白い雪の粉と思わしき物が斜めに落ちている。

　その開く扉の前に、壬《ジン》はいた。

「今日は、生憎の大雪だ」

　壬《ジン》は来葵《ライギ》に笑いかけるように言う。冷たい瞳が、嘘のように解けている。そして、奇跡は続いた。

「私も行こう。……君と同罪で構わない」

「壬《ジン》……」

「ゆっくり話している時間はないな。ここで命尽きるわけにはいかない……そうでしょう？」

　壬《ジン》の言葉に、来葵《ライギ》は涙があふれる。涙を拭い、無言でうなずき立ち上がる。大事に布で包んだかごを抱えて。

　ふたりは雪の降りしきる中、どのくらい歩いたのか。

　おぼろげに何かの建物が見えた。──教会だ。ふたりは自分たちの姿を見られないようにするためか、裏手へ向かう。

　裏手には、目立たないが扉がある。その手前、屋根がある下にふたりはかごをやさしく置く。

　来葵《ライギ》は大切なものを確認するように、ゆっくりと布をめくる。──大人しく赤ん坊は眠っていた。

　来葵《ライギ》は胸をなで下ろす。そして、ひざまずき祈る。

「生きて、生きてください」

　名残惜しそうに来葵《ライギ》は見つめる。

　壬《ジン》は無表情でその光景を見ていたが、おもむろに口を開く。

「私たちができるのは、ここまでだ」

「わかっている」

「大丈夫だ。ご加護は、あるはずだから」

　来葵《ライギ》の瞳には、かすかに涙が浮かんでいる。

「ああ」

　涙を拭い、来葵《ライギ》は立ち上がる。

　すると、壬《ジン》は来た道に歩き始め、来葵《ライギ》もそれに付いていく。

　月明かりは赤ん坊を包むかのような、微かな光を見せ始める。

　雪は次第に弱くなっていく。──そのとき、教会の裏手、扉が開く。

「まだ、雪はゆっくり降っている」

　静かに扉を開けたのは、教会の神父。

　神父は視線を落とす。赤ん坊の姿に気がついたようで、ゆっくりと膝を折っていく。座り込み、赤ん坊にやさしく触れる。

　すると、眠っていた赤ん坊は、神父のあたたかい指に反応したかのように笑った。

「こんな雪の日に……そうか。ここへ私を呼んだのは、お前か」

　神父は赤ん坊に話しかけると、抱き上げて空を見上げる。

「お前は、月に見守られたのか」

　夜空はいつの間にか、月の光が神々しく輝いている。

「そうか、そうか。では、お前の名前は、月からいただこうか」

　神父は立ち上がると、冷えた赤ん坊をあやす。泣かない、静かな赤ん坊。

「琉菜磬《ルナセ》……どうだ？　気に入ったか？　ああ、そうだ。ここがお前の我が家になるのだから、早く入ってあたたまろうか」

　神父は赤ん坊にやさしく微笑み、教会の中に入るとゆっくり扉を閉めた。

　月明かりは扉が閉まるのと同時に、雲に隠れる。

　雪は、再び降り始めた。

　それは、忌まわしき足跡を消していくように。