【Program1】1(1)
雪を踏締める音が響く。
足音はふたつ。
雪は止まずに降りしきっているというのに、ふたりは雪を避けようとしていない。呼吸が白く、煙のように雲のように何度も上がる。
隠すように、ていねいに包んだ物を、木で作られた網かごに入れている。そのかごの持ち手を、白衣を着たふたりが一緒に持ち、歩いている。年齢は二十歳前後──ふたりとも同じような年齢か。
「どうして、私に協力してくれた?」
右手でかごを持つ青年が口を開く。青年の視線は、前を見るでも相手を見るでもない。悲しそうな、いや、それは心配そうな瞳。青年は包んだ物を見つめている。
「来葵、君がこの方を生きながらえさせるのが使命なら、私は君を見守るのが使命だから」
左手でかごを持つ青年は、まっすぐに行先を捉えたまま言葉を返す。端正な顔立ちと、その雰囲気からか。来葵よりもいくつか年上にも見える。
来葵はふしぎな言葉に、その端正な横顔を無言で見つめた。すると、視線を感じたのか、彼は来葵の方を向き、やさしく微笑む。
「私は傍観者だ。ただし、手助けをするくらいなら許していただけることだろう」
やさしいはずの表情は、なぜだか悲しげにも見える。
「壬、ありがとう」
あれは、こうして歩く前のこと。そう、あれは絶体絶命の瞬間を迎えたとき。
「来葵、何をしている」
来葵は記録を記す紙を手にしていた。男に声をかけられて体が固まっている。
生きた心地がしていないのだろう。妙な汗がじんわりと、来葵の体から噴き出している。
紙をよく見てみれば、記録には欠番がある。来葵は記録を偽り、欠番を出したところだったのか。記録を取る者としては、絶対にしてはいけないこと。
その絶対にしてはいけないことをしたその瞬間、この男に声をかけられたようだ。男に記録を見られたら、言い訳はできない状況。
来葵から視線を外して見渡せば、多くの女たちが裸で台に横たわっている。その女たちは皆、白緑色の髪の毛でアクアの瞳だ。──ここは、女悪神の血を引く女たちを集めた場所なのだろう。来葵から近い位置の区画は、お腹の大きい女たちばかり。お産をしているようだ。
離れた区画では、目を覆いたくなるような実験をされている女たちや、数人の男たちと戯れている女たちもいる。
女たちの他にいるのは、来葵のように白衣を着て作業している者や、来葵に声をかけた男のようにパリっとしたジャケットと帽子をかぶった者たちなど、男ばかりだ。
四戦獣の伝説は、こうだった。──今からおよそ六百年前、最大の神を守る女神『女悪神』が天界に存在していた。この女神は力が強く、悪魔のようだと天界で恐れられ、この名が付いたと言われている。
世界の調和が乱れ崩れたとき『女悪神』が地上に降り、魔物に力を振るった。助かった人々は『女悪神』を祭り、称えた。
だが、それだけでは終わらなかった。
再び魔物が地上を侵そうとしたときのこと。魔物を蹴散らし人類を守った『女悪神』は、『力』を抑えられずに人々まで襲うようになっていった。
美しかった姿は、まるで獣のように醜く変貌し、人々から恐れられた。
最後に残った『女悪神』の血を継ぐ四人の者たちは、いつしかその姿から『四戦獣』と呼ばれるようになった。
人々を襲い、地上を惨劇の場に変えた『四戦獣』。研究所の君主、克主は『四戦獣』を封印し、人々を救う。一方で、女神『女悪神』の血を継ぐ者は根絶した。
後に克主の功績は称えられ、研究所は克主を初代君主とし『克主研究所』と名を変え、その名を遺したと言われている──。
伝説は、真実を歪んで伝えられたものだったのだろうか。人体実験と思わしき目を背けたくなる行為や、数人がかりで女性を襲っている状況は伝説には記されていない。それとも──仮に魔物が地上にいる状態だとして。人々は古の女悪神の『力』にすがろうとしたのだろうか。女悪神の『力』を覚醒させれば人々は救われると、女悪神の血を継ぐ娘たちは、ここへと集められていると仮説を立てれば、この異常な環境に説明がつく。
仮に、ここが女悪神の血を利用しようとしている施設だとするならば、来葵はここに属するひとりだ。ただし、業務を見る限り、末席に近しいだろう。──そのような者が記録を偽り、ましては欠番を出すなど上役に知られたら、どうなることか。
来葵の鼓動は、今にも聞こえてきそうだ。
ごまかす術を探しているように固まっている──そのときだ。
壬の声が聞こえたのは。
「監守、新しく来た女が暴れて手出しができません。お願いします」
来葵を問い詰めようとした男──監守を呼び求めた。まるで、救いの言葉かのように。来葵は目を大きく開けて壬を呆然と見つめている。
監守は来葵に舌打ちし、壬へと向き直すと歩き始める。
「どの女だぁ、そんな手間かけさせるのは。まったく、面倒かけさせるなよって。なぁ?」
「そうですね」
監守は中年特有の丸いお腹をなでながら、壬と仲がいいと強調するように話しかける。肩に手を回しながら。
一方の壬は、監守の手を嫌がらずに受け入れ相槌を打つ。監守の暑苦しさを受け流すかのような、冷たい笑みで。
その刹那。
壬は、来葵を見てにっこりと微笑む。来葵がまばたきをした次の瞬間には、壬は監守とともに背を向けて歩いていた。
監守の言動からして、壬は来葵と真逆の上位なのだろう。そして、恐らく来葵と壬の接点はこのときまでなかった。その証拠に、壬の言動にも来葵は微動だにできなかった。
ふたりが遠ざかると、来葵は助かったと安堵のため息をもらす。そして、視線はひとつのモノを見て、その顔は思い詰めた表情に変わる。
来葵の鼓動が高鳴ったまま。祈るような声をちいさく出す。
「申し訳ない」
Er.の付いた焼き印が押された赤ん坊の山で、静かに絶命を待つように眠る赤ん坊に向かって。
「ここまできてミスはできないんだ。すべては、このときのための行動だったのだから」
来葵はひとりのEr.の付いた焼き印を押された赤ん坊を記録票で隠し、睡眠薬を嗅がせる。
──いち、に、さん……。
一秒でも惜しい状況での、長い三秒。
肉塊でできた山。すでに多くは息がなく、死骸の山と化している。そんな中で睡眠薬を嗅がせた赤ん坊を素早く包み、木で作られたかごに入れる。かごを持って出ていくのは、かなり目立つと思ったのか、来葵は更にかごの周囲を布で包む。
赤ん坊を隠していた記録票は、死骸の一番上に置かれた。そこには、コ-ドNO.30497が欠番表記になっている。Er.の表記は、ない。
来葵は走る。赤ん坊と、かごを包んだ物を抱えて。