【44】交差する過去と現世(2)
竜称が忒畝をジッと見る。
忒畝もジッと竜称の瞳を見ていると、生まれたことに後悔などしたことのなかった忒畝に、その気持ちが湧いてくる。──これは、忒畝自身の記憶ではない、別の者の記憶の一部。激しい後悔の感情。
込み上げてくるその感情を否定するように、忒畝は口を開く。
「琉菜磬」
「やめろっ!」
ほぼ同時──いや、わずかに竜称が早かった。その名に、忒畝の中で『不要な存在』として意識し続けた日々と、自責の念がまざまざと蘇る。あふれかえる記憶の中で、痛みとは違うもので震え、涙を落とす。
「まだ、体液に治癒の持つ、あの女に抱かれたいと願うのか?」
「違う……」
「琉菜磬」
「違う! 僕は琉菜磬じゃない!」
己の記憶ではない後悔や孤独の念を振り切るように叫ぶ。うろたえ、涙を拭うこともままならない。
「僕は……忒畝だ」
噛み締めるように呟く。
自我を取り戻そうとしている忒畝に対し、竜称は達観したように言葉を吐く。
「父親が死んでも涙をこらえたお前が、遠い昔の記憶に負けたか」
涙は、時間の進行を食い止める効果を解いた。母、聖蓮がくれた薄荷色のコンタクトによるもの。血の色を忒畝が意識してから、鏡を見ても青系の色を怖がるようになった。母の瞳も、妹の瞳も怖がらないのに、自身の瞳の色には過剰になって──これからは泣いたら駄目だと母に言われながら、忒畝は薄荷色のコンタクトを付けてもらった。意味を聞いても理解はできなかったが、母の思いを踏みにじりたくないと、コンタクトを付けてから泣いたことはなかった。
しかし、効果がなくなった今なら、嫌というほど実感できる。
忒畝の体は、時の流れ元来のままに加速をし始めていた。体は通常の人の五倍速で朽ち果てていく。それは、進行を抑えていた忒畝の体からすれば、十倍以上にも感じられて──ただし、元々は二十歳まで保てなかった体。忒畝にその自覚はある。生まれ持った時間よりも、生きられているという時間の重さを。
「子どもには、きちんと会わせてやろう」
竜称は不敵に微笑む。
忒畝は暗闇に包まれそうになる。まるで──そう、己の成長が遅れていると気になり、膨大な資料を漁るように見ていたときに知ったときのような。恋愛や結婚をしても、その先に待つ苦痛を容易に想像できた。迫る己の死。『両親のような夫婦』や『あたたかい家庭』を築きたいとずっと憧れ、生きていた。それを、生きる希望を、失った感覚。だが、一度は乗り越えた。それにも関わらず、追い打ちをかけられて。ついには、長い間に募らせた想いを手放す決意をしようと決心した。恋愛感情は切り離すと考え方そのものを改めて生きてきた。
それなのに、まさに今。竜称の一言で。過去に抱いた感情と似た想いが再び込み上げてくる。──苦しむだけの命は、自分だけでいいと。
「お前は終わりだ」
竜称は嘲笑い、笑い声を響かせ女とともに消えた。
祈りを捧げていた。
ただ、祈ることだけが救いかのように。
毎日、毎日──成す術を求めるように。
何もできない己を戒めるように。
──神は、僕に何をお望みなのだろう。
同じ血を引く者たちは、悲劇へと導かれていく。
止まらない負の連鎖。
その懺悔をするように、物心のつく前から祈りを捧げ続けてきた。それなのに──。
十五を過ぎても生きながらえていた。このころには、年齢という概念など、無関係になるものだと思っていた。
実年齢の伴わない体。目にすれば、苛立たしいというよりは、ただ空しい。
悲しいというよりは、生きていることに対して罪悪感のような感情が渦巻く。
──僕は……何のために生きてきたのだろう。この烙印を押され、血の呪いを絶つこともできずに。生きながらえながらも、誰ひとり……救うことはできなかったのかもしれない。
ふと、呼ばれた気がして振り返る。
そこには、月の使者のように美しい蘇芳色の髪の毛がなびいていた。月明かりに照らされたその姿は、愛しい妻。──その妻の名を呼ぶ。
すると、妻の唇がフワリと動き、名を呼ばれた。だが、聞こえたはずの声は、耳に残らない。
瞳に熱いものが込み上げる。名を呼ばれただけで、愛しさがあふれて。
妻の唇は近寄り、合わさる。それだけで気持ちさえもひとつになれたような気がしていた。妻との抱擁は、癒しそのもの。心から重いものが引いていく。体の苦痛も薄れていき次第に快楽へ変わる。味わえるはずのない、快楽へと──。
口づけは、癒しから愛に飢え求めるものへと変わる。
手を合わせ、願う。
決して叶わぬ願いを。
いつの間に眠りに落ちたのか。ぐったりと体が重い。何とか起きようとするが起きられず、時間が過ぎていく。やっと立ち上がって、一直線にシャワーを浴びて、服を着る。何か夢を見たような気がするが、体調の悪さに思い出そうとする気力もない。フラフラと職場に向かい、仕事の続きを再開する。仕事のことで頭の中を埋めていたくて。
そうこうしているうちに朝食の時間が過ぎて、ノックが鳴る。返事をしなくてもドアノブがガチャリと回るところを見ると、扉の向こうにいるのは馨民だ。
「おはよう」
弱々しい声と気のない笑顔になったのは、忒畝自身も気づいている。ただ、どうにも力が入らない。
しかし、あいさつの返しが聞こえてこない。ふしぎに思って忒畝が瞳を開けると、馨民は呆然と立ち尽くしている。