【42】背負う者
左手側は一面、大きなガラス。差し込む日の光を体中で浴びる。人工的な明るさとは違い、輝かしさを帯びた光。
視線をガラスの外に投げれば、中庭が見える。大臣の部屋に向かうとき、必ず通る廊下だ。この場所を通るときガラスは若干、鏡のようになり、うっすらと通る者の姿を映す。──それを見たくないと思うときが、沙稀には何度もあった。
けれど、ふしぎだ。
今となっては、なぜそんなに嫌だったのかがわからない。
護衛を辞任しようと決めたとき、沙稀は新たな目標を立てていた。それは平和になってから漠然と湧いてきたことで、具体性のないものだ。これから先、実現させていくもの──夢として置き、邁進していこうというもの。その夢を叶えたとき、何歳になっているかはわからないが、結婚してもいいと思える日がくるかもしれない──と、何となく考えていた。
考えたことのなかった別の道。選ぼうとしていたとき、想像もしていなかった『未来』が沙稀には見えた気がしていた。
しかし、現状の方が想像もしていなかったことになっている。新たに立てた目標は、また漠然としたものに戻って、いずれ着手できるときがくればいいと考えるほど、遠い思いに戻っていった。
前方は、煌びやかな光が輝いている。光の中には、光に包まれ弾むように歩く恭良がいる。
ふと視界が左にずれれば、少し離れて歩く恭良の姿をガラスは幻のかのように映す。──この光景は初めてではない。むしろ、これまで何回も、何年間も見てきた光景だ。
ガラスに映る恭良の姿が幻ではないと確認するように、意識的に廊下へと視線を戻す。前方には、しっかりと実物の恭良がいて。いつもの光景と同じはずなのに、まったく違うように見えて。
たった数分で、世界が変わったようだ。
恭良はふと何かを思い出したか、立ち止まる。クルリと沙稀の方へ体を向けると、うれしそうに、尚且つ照れて沙稀を見る。
「『恭姫』じゃなくて、『恭良』って呼んでね」
想像すらしていなかった言葉に、思わず沙稀は反射的な声を出す。
「え?」
唯でさえ、頭の整理ができていない。
そんな沙稀の様子に、恭良は満足そうに微笑む。小走りで沙稀にかけよると、
「あと……敬語もいや」
とまで言う。目まぐるしく変わっていく状況に、沙稀は付いていけない。つい、笑ってしまう。
「どうしたんです? 急に」
恭良はようやく素の沙稀が見られた気になったのか、顔つきが自然とやわらかいものになる。
「だって、もう婚約者だもの。それとも……沙稀は妃になる人に対しても、敬語を使う気なの?」
恭良がいたずらに笑う。その笑顔はかわいすぎて、とても直視できない。
「わかった。気を付ける」
まぶたを閉じて言うと、ゆっくり瞳を開ける。
「これでいいの?」
ぎこちない。
しかし、恭良には相当うれしかったようで、眉が下がる。
「うん!」
沙稀に軽い衝撃が伝わる。──恭良が左腕に抱き付いてきていた。その表情は、子どものように、はしゃぐもので。沙稀が見てきた中で、一番輝いて見えた。
大臣の部屋の前まで着くと、恭良が勢いよく扉を開けて宣言する。
「大臣! 私、沙稀と結婚する!」
驚きを隠さずに大臣は立ち上がり、振り向く。
「何を……おっしゃっているんですか」
直後、言葉を失う光景を大臣は見る。
恭良と沙稀が、指を絡み合わせ手を繋いでいる。姫と護衛の関係では、決してしない手の繋ぎ方だ。
「だって」
恭良は拗ねたように声を発すると、大臣の様子に構うことなく、うれしいような恥ずかしいような口調で言う。
「もう……しちゃったもん」
「は?」
大臣の頭は思考が飛ぶ。そして、焦る。何を『した』のか、と。
そんな大臣を横目に、
「ね~?」
と、恭良は頬を赤らめて沙稀に同意を求める。
「そう……ですね」
緊迫感のまったく感じられない物言いをした沙稀を見て、大臣が問う。
「沙稀様、どういうことです?」
感情を長い間押し殺してきた沙稀には、己の気持ちがまだ受け止められていない。余裕のない中で言葉を探し、少しの間が開く。そして、やっと出た言葉は──。
「なりゆきで」
という、誤解を招くものだった。
恭良の頬が膨らむ。
「嫌だったの?」
「そういうことではなくて……嫌じゃなかった」
忠実だ。頭の中がどんなにグチャグチャな状態であっても、恭良に言われたことを守ろうと言葉を厳選している。
大臣は大きくため息をつく。かつて、沙稀がこんなに隙だらけになったことがあるだろうかと。
「あ、沙稀の護衛は、婚約する前にきちんと解任宣言を本人に伝えてあるわ」
恭良の発言に、大臣は観念する。ぐうの音も出ない。
「もう、わかりました。先方にはお断りしておきます」
大臣の眉間にはしわが寄っている。ふたりの仲を了承しても、素直に祝福はしにくい。
そんな大臣の様子は気づかれることなく、恭良は再び喜び、沙稀に飛びつく。沙稀は動揺しながらも、恭良を支えるのに必死だ。
大臣はふたりを視界に入れまいとしながら、淡々と話す。
「婚約発表は、一ヶ月後。国葬後に行います。ご婚礼はその半年後にしましょう。それまでは純潔を……厳守してくださいね。懐迂の準備もいたしますので」
業務的でいようと努める大臣だったが、沙稀から離れようとしない恭良が視界に入り、独り言を呟く。
「懐迂でおふたりを失うなんて、私には耐えられませんから。厳守を、お願いしますよ。本当に」
なぜか大臣は寂しげだ。
「はい」
ふたり同時の返事。恭良は満足げに、沙稀は重んじたものだった。
その夜、大臣はある部屋の前へ来ていた。戸惑ったが、ドアの鍵を開ける。おもむろに一歩入るとそこは、まるで物置のように人がひとり通れる程度の通路があるだけ。
明かりをつけ、オレンジ色のあたたかい光の中進むと、客間のような視界の開けた空間へと出る。
だが、大臣は足を止めずに、更に奥へと歩いていった。
隠された扉を開けると、三つのライトに照らされた一枚の大きな絵画が飾られている。その絵画には今は亡き王妃──紗如と、リラの長い髪の唏劉が描かれている。
扉を閉め、大臣はその絵画を見上げて近づく。
「紗如……これで願いは叶ったか?」
意味深な、それでいて寂しそうな。今はもう、すでにいないふたりの肖像画を前に、大臣は言葉を発した。
すべての罪を被り、戒めにあっているようにうな垂れ、その場に立ち尽くす。
「私の判断は……正しかったのだろうか」
彼には、すべてを抱え込んで生きてくるしかなかった。──そう、唏劉が極刑に追い込まれたと聞いたときから。紗如と出会ってから。周囲には身分を隠し、名を捨て、紗如とともに生きた軌跡さえ消して生きてきた。
それは、紗如を守るため、唏劉の守ってきた鴻嫗城を守るため。
大臣は、何を背負って生きてきたのか。──王亡き今、彼の過去を一部として知る者は、存在しない。