【41】継ぐ者2(1)
『座れば?』──瑠既から声をかけられ、沙稀は力なくソファに座る。何かがうまくいかない。少しずつ噛み合わず、ずれていっているような感覚。それが今朝からなのか、昨夜からなのか、瑠既が帰城してからなのか、それよりさかのぼって瑠既と再会したときからだったのかもわからない。
昨夜の夕食は、凪裟を含め三人だった。それは沙稀が何とか理由を付けて凪裟に同席を頼んだからだ。
今朝も三人で朝食を、と約束した──はずだった。それが、どうしたことか。朝食に顔を出すと、恭良しかいない。
「凪裟は……」
遅れるなど考えにくく、言葉は途切れてしまう。
沙稀の様子をふしぎに思ったのか、恭良は首を傾げる。
「悪いけど、遠慮してもらったの。だって、凪裟は……羅暁城へと嫁ぐ身じゃない?」
確かに、言う通りだ。もしかしたら、恭良には場を繕おうとしたのが伝わっていたのかもしれない。
空気が硬くなる。普段なら言える『そうですね』も言えなくて。
ふたりは無言のまま何となく食べ始めたが、やわらかい空気になることはなかった。
「侍女を……俺が護衛に就任する前のように、付けましょう」
これまでの関係を維持していくのは、限界かもしれない。そう感じて、沙稀は提案をした。このままではいつか、自制できなくなるときがきてしまいそうで。
それを知ってか知らずか、恭良は『いらない』と言ってきた。まるで『つまらない』と言うように。
沙稀は引けず口論へと発展。しまいには、恭良は早々に食べ終え、出ていってしまった。沙稀は頭を抱え、こんな事態になったのはなぜかと考える。
これまで、恭良と口論になったことはない。恭良が了承するか、沙稀が引くか、そうしていつもは自然と収まってきた。姫と護衛の関係として、良好な関係だったはず。
それなのに、今回は。
いつになく沙稀が引けず──つまり、限界は過ぎていたということだ。
関係が崩れた以上、何とか立て直すように努めるべきだろう。けれど、修復は厳しい。
どうするべきか、答えは出ない。いや、いっそ離れてしまえば──。
もし、今後──沙稀が恭良と離れたとして。瑠既には恭良と仲良くしてもらわなければならない。恭良は瑠既を実兄だと信じている。もっと言うなら、これまで沙稀が恭良を支えてきたように、瑠既が支えてくれれば、どんなにいいか。
それは、沙稀が誄にしてきたように。
沙稀は誄から香水を受け取った日以降、考えを改めた。目覚めてから変わったのは誄ではなかったと気づいて。すぐに幼いころのように心を開くことはできなかったが、可能な限り誄を気にかけ連絡を取り続けた。それは、幼なじみとして、義理の兄弟になるという間柄だった者として、親身になっていった。
今朝もそうだ。朝食の時間よりも前に、誄が心配で電話をした。誄は瑠既の事情を知った上で、瑠既の気が向くまで待つと言う。沙稀には、聞いていて辛い一言だった。
瑠既と話さなければどうにも進めない。どう切り出すかと考え、部屋で待つ。そうして、ひとつでも安堵できる返答をもらえたかと思った矢先に、これだ。
沙稀自身、恭良のことを『好きだ』と明確な言葉にしたことがない。むしろ、避けてきた表現だ。
倭穏に言われたときは、立て続けに話が流れていったからよかった。しかし、今回は追及されているのと等しい。しかも、瑠既には帰城してまもないときに、恭良への想いを吐露している。否定してかわすことはできない。
観念するしかなく座ったが、気持ちのままに行動できるものなら、こんな状況にはなっていない。けれど、言い訳をしてもこの場はどうにもならない。観念した以上、早く終わらせなければと、何とか言葉を出す。
「付き合いたいとか、付き合うだけでもいいとか……そういうことでは……ないし」
詰まるように消えていく声。
顔が熱いというか、頭から湯気が出ているように感じる。何が怖いのかもわからないが、震えているとわかる。どうしてこんな状態になっているのか、よくわからない。そのせいなのか、子どものように泣いてしまいそうになる。
──冷静になれ。
自身に言い聞かすように思ってみても、恭良のことになると途端に思考はまわらなくなる。
「血の繋がりがないのに迷うんだ」
瑠既が無遠慮に言ってくる。人の気も知らないで。
聞きたくない言葉だ。否応もなく、妹だと思ってかわいがっていた日々を思い出すから。
「そりゃ……」
『そうでしょう』と言いたいのに、言葉にならず消える。その態度を見てか、瑠既は追い打ちをかけてくる。
「恭良が、お前しか『男』と見てないのに?」
「いや……」
理解の範囲を超え、思考が停止する。これ以上の言葉は聞きたくない。
すると、瑠既の声は聞こえなくなった。何かを言っているのか、それとも言わなくなったのかもわからない。
これまでの恭良とのことを思い出す。──深く深く眠って、目を覚ましたときからのことを。
憎んだ。かわいがっていた分、余計に憎かった。
ずっとそう思っていたのに──救われたと感じて、それから。気持ちが募り始めたのがいつからなのか、正直わからない。恋愛対象と思っていた自覚はなかった。ただ、憎しみが消えたと思っていただけだった。
よかったと笑えて、毎日が楽しくなって、輝き始めて。光に手を伸ばそうとして、そこで気づいた。心の奥底が、求めるものに。
慌てて立ち止まって、振り返って。
ああ、そうだと我に返る。
光は遠くから見ていればいいと、手を伸ばしては駄目だと、腕を縮めた。──それから、眩しい笑顔が近づいてきた気がして。それは、無下にしたくはなくて。
ああ、兄だと思われていると思えば、兄としてなら手を伸ばしてもいいような気がした。内心そう思いながら、何度も自問自答して言い聞かせながら歩んできたはずだったのに。──そう思っていたから、触れることも、抱き上げることも、自制ができて、守れてきたと思っていたのに。
「じゃあ、他の男と結婚しろって思うんだ?」
誰かに首を動かされるかのように、無意識で瑠既を見た。言葉は出ない。それはそうだ。昔、恭良のことを意識していると気づいたとき、自問自答した最後の問いなのだから。
まったく返答がないことを、瑠既はまるで気にしていないかのように、更に続く。
「それとも、母上と同じ?」
「母上と?」
話しの対象が変わり、沙稀はようやく言葉が出る。
「知ってるよな? 母上と父上も結婚はしてない。母上は、生涯未婚だった」
「それは、知っている」
だが、何が言いたいのかは理解できない。
「おばあ様の『留妃姫』も。どのくらい前までさかのぼればいいのかな」
祖母の正式な名は『留』だ。だが、その名は異例だった。
鴻嫗城では子に『き』を名の最後に付けるならわしがある。周囲は彼女を鴻嫗城の嫡子と認めるかのように敬意を込め『留妃姫』、のちに『留妃姫』と呼んだ。
ふたりが幼いころ、孫の性別に関係なく、とてもかわいがってくれたやさしい祖母。瑠既の名の由来になった人。本当は、祖母も母のように孫娘を望んでいただろうに、そんな感情は微塵も見せなかった。──懐かしい記憶を辿り、瑠既も同じく思い出していたのだろうか。瑠既はどこか物悲しげに言う。
「いい加減さ……海胡を輝かせてほしいんだよ。もう俺は、清い身体じゃないからさ」
自分に込められた願いを託すように言う言葉は、鴻嫗城の第二子に戻れと言われているようで。──それは、沙稀がずい分前に見切りをつけたこと。且つ、その気はないと瑠既に告げてあることでもあって。
沙稀は無言で立ち上がり、扉に向かって歩き始める。
「おい」
瑠既の声は聞こえたが、聞く気はないと態度で示し、沙稀は部屋を出る。
散々、瑠既に気持ちを掻き回され、沸々と苛立ちが沸き上がる。ツカツカと冷たい音を響かせながら、ひとつの部屋に向かう。
荒々しいノックをすると、
「はい」
と返答が確認でき、すぐさま扉を開く。
「大臣! なぜ言わないんだ?」
「何をですか?」
「恭姫に、早く継ぐように」
沙稀は言いながら部屋に入り、扉を見ずに押し返す。
大臣が沙稀を見れば、追い詰められた感情が顔に張り付いている。大臣は視線を逸らし、ため息を吐く。
「決まったんだろ? 恭姫の婚約者。日程は整ったか?」