★【4】姫
「その伝説はね、楓珠大陸の伝説なんだって。忒畝君主のいらっしゃる、克主研究所の付近に残る伝説みたい。絵本童話は、あくまで童話でしょ? それに、すべての研究者に於いて克主研究所は憧れの場所だし……聞いてみたくて」
腑に落ちない表情が沙稀に浮かび、慌てて凪裟は言う。
「恭良様に話したわよ。いいって言ってくれたわ」
それはそうだろう。姉妹のように育った凪裟の頼みを、恭良が断るとは思えない。
「わかった。ありがとう」
軽く手を上げ、凪裟に背を向ける。恭良が了承している以上、沙稀はその意向に従うしかない。
「もう行っちゃうの?」
「長居して悪かったね」
素っ気なく沙稀は退室していく。パタリと閉まった扉に、
「長居だなんて……思ってないわ」
と、凪裟は呟いた。
宮城研究施設を後にした沙稀は、地上に出ていた。だが、その足取りは城内に戻ろうとはしていない。
L字の渡り廊下を曲がらずに、まっすぐ進む。この先にあるのは、緊急時用の塔だ。正門に近い宮城研究施設に対し、緊急時用の塔は鴻嫗城を右手側にしながら歩き続けなくてはならない。右手側に城がなくなってから左に進むと、高々にそびえる塔が見える。高さからして、最上階へ上がるのは気が遠くなりそうだ。
塔の入り口をくぐると、壁に添って螺旋階段が見上げる限り続いている。それを視界に映しても沙稀は止まることなく進み、螺旋階段を一歩、また一歩と登っていく。
均等に設置された蝋燭は炎を灯し、揺らめくそれは塔の内部、氷のような水色の煉瓦を照らし続ける。影となっても炎は揺らめき、黒くモヤモヤした沙稀の気持ちと重なっていく。
恭良のことだ。捷羅たちが来ることを、きちんと大臣に話したはず。だが、沙稀にその話しは大臣からされていない。凪裟に会う前、大臣に会っているにも関わらず。
羅凍から兄と鴻嫗城に来ると聞いたのは、数日前だった。その後、予定変更の連絡はない。
つまり、大臣もふたりの訪問を了承しているということだ。
大臣は恭良に甘いところがある。だからこそ、沙稀は羅凍はともかく、捷羅が来る真意を知りたかった。捷羅は羅暁城を滅多なことでは不在にしない。その人物がわざわざ来るというのだから、何かがあると思っていた。
──実に身勝手な話だ。
恭良の婚約を大臣に催促しながら、相手が捷羅だったらと思うと気が気ではなかった。社交場で捷羅の言動は、目に余るものがある。他にも、いくつものまことしやかな噂話は、耳に入ってくる。
凪裟の相手として不安はまったくないと言えば嘘になるが、様々なことを考えれば、悪くないと思えた。何より、凪裟はクロッカスの色彩を持っているのだから。捷羅との話がまとまれば、その色彩に恥じない立場に戻れる。
最悪な想定をしていた。捷羅は凪裟を唆し、恭良に近づこうとしているのではないかと。しかし、そうではなさそうだと胸をなで下ろす。捷羅は、ただ凪裟を想って、会いに来る口実を手に入れただけだ。
大臣が沙稀に言わなかったのは、凪裟からにせよ、恭良からにせよ、訪問の理由を聞くと思ってのことだったのだろう。その方が捷羅への疑いを晴らすことができると判断して。
うつむいていた沙稀は炎を見上げる。疑った想いを、その炎で焼き尽くす。
淡々と一定の速度で登り続けても、沙稀の息は上がらない。かえって最上部が見えると速度を上げ、駆け上がり待ち望むように扉を開ける。
差し込む陽ざし。輝く光に包まれる、ひとりの人物がいた。目が慣れてくると、光は徐々に視界を妨げなくなる。
最上部にいたのは、肩ほどの長さのクロッカスの髪を持ち、華奢な体を白いドレスで包む少女。
「恭姫、やはりここにいらしたのですか」
ドレスと言っても、他の姫が着るような肩の見えるドレスではない。肩や胸元の露出はなく、足は膝さえ見えない。
幼い印象がありながらも、上品で且つ、華やかな印象を残す姫──それが恭良だ。
恭良の視線は声の方向へと動き、嬉々とした声が飛ぶ。
「沙稀!」
体の正面には、大きなキャンバスがある。
この塔は緊急用途のため、人の出入りがない。人がいない分集中できると、恭良は絵画を描く場として好んでいる──のだが、それは恭良と沙稀のふたりだけの秘密。大臣にばれようものなら、何を言われるか。
沙稀は一礼すると歩き始め、恭良の視線はキャンバスへと戻る。
「もうそろそろ完成しそうなの」
クロッカスの瞳を大きく開け、ジッと見上げる。
キャンバスには未完成と聞いても、とても一般人には理解できないようなものが描かれている。全体に白く、一部はぼやけていて、とても抽象的なものだ。
誇らしそうにキャンバスを見上げる恭良を前に、沙稀は息を呑む。そして、出た言葉は──。
「今回もまた……素晴らしい絵画ができそうですね」
まさかの絶賛だった。
「どこまでも儚げで、残虐で、切ない部分もある。……この表現は恭姫にしかできません」
どうやら、この美的感覚を沙稀は理解できるようだ。──いや、城内では沙稀にしか理解できないと言ってもいい。沙稀は美的感覚が優れていると絶大な評価を受けているが、以前に『物質の内面を捉え、別のものに変化させて表現をできる方』と恭良を言い表し、『真似はできない』とまで言って退けた。
恭良は満足げに微笑む。
「また沙稀にわかってもらえて、うれしい」
恭良にとって、沙稀は美的感覚も含めたよき理解者といったところだろうか。
満面の笑みの恭良に、沙稀の頬は自然とやわらかくなる。微笑むふたりは、とても姫と護衛には見えない。心の距離も、物理的距離も、関係以上に近くて。
微笑み合って意思疎通のできるそれは、まるで──笑い声なくあたたまった空間は、春のようにおだやかな雰囲気を醸す。
「そういえば、今度。捷羅様が凪裟に会いにくるんだって」
「吉報は耳にしております。ちょうど先ほど凪裟に会い、詳細は聞きました。楓珠大陸の伝説を聞くのだとか。……恭姫もご一緒に聞かれるのですか? 捷羅様と同じ空間にいらっしゃると思うと、俺は心配です」
発言と同調した沙稀の表情に、恭良は声を出して笑った。
「何がおかしいのですか?」
不満そうな沙稀に対し、恭良はにっこりと笑う。
「だって。私は心配なことなんて、何もないもの。沙稀はいつだって私をきちんと守ってくれるでしょ」
「それは当然のことです」
「ほら。心配なんて、ないじゃない」
ゆらりと揺れるクロッカスの頼りない長さの髪。その色彩と長さに負けず、しっかりとした笑顔がそこにはある。
沙稀は発言の矛盾を恥じるように笑う。
「そうですね」
恭良は脆そうに見えて、そうではない。何度もこの笑顔で沙稀を救ってきた。
逆に、恭良の脆さをそうさせないのは、沙稀だ。恭良の自信のなさは、髪の毛の長さを見れば一目瞭然。わずかに肩にかかっているが、肩より下の長さになったことはない。常に容認される範囲のギリギリを保っている。これでは本来、世界に君臨する城の姫として、示しがつかない。
「それに、捷羅様は凪裟を完全に射止めるためにいらっしゃると思うの。だからね、そんな心配はしなくていいんじゃないかなって思うんだけど」
「俺もそうであればいいと願っております」
「沙稀の警戒心は強いのね」
「お褒めいただき、恐縮です」
沙稀が微笑めば、恭良はクスクスと笑う。照れ隠しのように、恭良は沙稀の左腕を軽く叩く。じゃれた手は、そのまま腕を伝っていき、手へと辿り着く。絡んだ手と、そっと腕に添えられるもう片方の手。
「ねぇ、沙稀は絵本童話のお話もできるでしょ? 私、お母様から聞いたのかもしれないけど、あまりよく知らないの。捷羅様たちがいらっしゃる前に、聞かせてくれない?」
ふたりはどちらから言うでもなく、扉へと歩き始める。
「恭姫がまだ一歳になられる前ですから、おぼろげなことでしょう。かしこまりました。では、夕食の前にいかがですか」
「うん! 楽しみにしてるね」
朝食も夕食もともにする。昼食はケースバイケースだ。やはり、姫と護衛にしては距離が近すぎる。
沙稀にその自覚はある。だが、恭良にはないのかもしれない。