【38】ともにいたからこそ(2)
あの笑みは、どこかで見たような独特な──過る不安は、瑠既を二階へと動かしていた。
手遅れだった。
開けた扉の先には、散乱した衣服と肌を露わにした倭穏の姿。
過去の瑠既と似た目に倭穏が遭ってしまっていた。取り返しはつかない。
瑠既が動けずにいると、倭穏は大きな瞳からいくつもの雫をこぼして見つめてきた。そして、
「私、ずっと……好きだった」
と呟いた。
「忘れさせて……お願い……」
それは、とてもちいさな声で。震えて消えていく。
無意識で瑠既は駆け寄っていた。倭穏の想いが、痛いほど伝わって。
手を伸ばす。
想いを寄せる人と結ばれる幸せな時間に憧れた積み重なる願いを、その憧れが崩れていく瞬間を、知っているから。
今ならまだ、その欠片を集められる気がして。ツギハギでも、合わせていける気がして。
初めて自らの意思で肌を合わせる。好きかどうかではない。倭穏が好きだと言った以上、積み重ねていた願いを叶えられるのは、瑠既しかいない。だからこそ、叶えたかった。瑠既は叶わなかったから。
「ありがとう……でも、ごめんなさい。私……汚いでしょう? 嫌でしょう?」
「汚くなんてない。俺がしたんだ、全部。……俺がするから。俺だけにされたことにしろ」
倭穏の言葉を否定して、倭穏が声を上げて泣いて、蘇る。
苦しみ続けてきたことだと。汚れた存在になったと責め続けてきたと。腕の中で泣く倭穏が同じ思いを抱えると。瑠既は、倭穏からその思いを取り除きたいと切に願う。
「どうしたの?」
ふとかけられた倭穏の言葉で、震えていると気づく。
髪を切ってから思い出さなくなっていたことが、どんなに辛いことだったのかを思い出していた。いつの間にか頭の中の時間はさかのぼっていて、綺に来る前の悪夢のような時間に溺れていた。
「俺は……少女の人形のように扱われていた」
こぼれる涙を倭穏がそっと包む。それは、あたたかい人肌で。でも、知っているものとは、まったく違っていて──。
触れ合う肌と肌は癒しを求め合い、唇と唇はひとつのものになるかのようにとろけあう。
愛しさではなかったのかもしれない。ただ、確かに愛はあった。つぼみが膨らんで花開くように、瑠既にとっては苦しい過去からの解放だった。
事情はどうあれ、瑠既は責任を取るつもりでいた。けれど、倭穏は驚くほど何も変わらなかった。
──ああ。立ち直ったから、終わりってことか。
愛を感じたのは一方だけで、単に慰めととられた。そう思えば寂しさが込み上げてくる。ただ、倭穏にとっては思い出したくもない夜であるのは確か。卑下せずに、今まで通りの倭穏でいてくれることは、瑠既にとっては喜ばしいことでもある。
あのとき、忌々しいと感じていた行為で初めて愛を感じた瑠既は、倭穏の気持ちもそのまま受け止めようと思っていた。だが、相手にそのつもりがないのであれば、それはできない。
二度目の失恋だと思えば、固執せずに済む。寂しいが、感謝しかない。これまで恋愛という思考が途切れていたのを、倭穏が修復してくれていた。
だから、瑠既は倭穏が望むままでいようと、なるべく変わらないように接した。
だが、事態は一変。その後、倭穏の妊娠が判明する。
「誰の子かもわからないのに、産みたくないわ」
「お前が産んだんなら、俺が父親だ!」
瑠既は出産を望んだ。一緒に育てるつもりで。
涙目で倭穏は瑠既を振り払うと、何日もそのあと話さなくなった。そして、叔には何も言わずに堕胎した。
それを瑠既が知ったのは、後日だ。倭穏は事実をサラッとだけ言うと、これまで通り話しかけてくるようになった。
ただ、変わったことがひとつ。派手に男遊びをするようになった。
自暴自棄のように身を傷付ける倭穏の姿は痛々しく、
「やめろ」
と瑠既は責めるように言った。すると、
「あなたのことを忘れたいの! ずっと好きだったことも、あの夜のことも!」
と、感情のままに叫び、怒っているように泣いた。壊れそうな倭穏を抱き締める。
「重い女だったら嫌われると思ってんのか? それとも、俺が逃げるようなヤツだと思ったのか? 生憎、男ってのは逃げられると追いたくなるし、俺には逃げられるような場所はない」
苦笑いで後半を言うと倭穏は大人しくなり、今度はしがみ付いてくる。
「それと……もし、俺の気を引くために他の男に抱かれるんなら。そんな風に自分を傷付ける真似は、二度とするな」
「うん」
ちいさな声だったが返事が聞こえ、瑠既は倭穏のやわらかい髪をやさしくなでる。
確かに、同情から始まったのかもしれない。あの悲劇がなければ、倭穏を『女』として見ることはなかったかもしれない。
互いに好きで、愛おしくて求めたものでもなかった。
ただ、このあとからは違う。どちらも異性だと意識していたし、互いに気持ちを伝えていた。
そうして関係を持ち、続いた。いつの間にか叔も公認してくれて、ふたりは同じ部屋で寝起きするようになっていた。
『好き』も『愛している』も何度も言ってきたが、倭穏にはベッドの中の言葉と思われていたのかもしれない。倭穏の男遊びはマシになった程度で、まったくなくなったわけでもない。つまみ食いをしては瑠既に嫉妬させて、幸せを感じていた節もある。ヤキモチやきで、寂しがりやで自分に自信の持てない倭穏を受け止めて。暇さえあれば肌をただ重ねる日々が続いていた。
正式に改まってきちんと想いを告げるなんて、柄ではないと気恥ずかしさもあって──できなかった。
だが、重いまぶたを開けて見える光景は。
激しく後悔だけが込み上げてくる。
何も感じないようにしていた瑠既に、痛みや苦しみ、楽しさ、喜び、笑顔……そして生きていく道を選ぶ『心』が持てるようになったのは、誰のお蔭だったのかを痛感する。
──倭穏がいたから。
「逝くなよ……逝くな! 俺を置いて逝くな!」
倭穏は最後まで瑠既の気持ちを疑っていたのかもしれない。疑いを晴らすように、手を強く握る。
握り返されない手、開くことのないまぶた。呼吸の上下のない胸元。動かない姿を見つめ、こちらが現実だと理解するが、受け止めたくないと心は拒む。
「畜生……」
現実を包んだ声は、涙で消えていった。