【38】ともにいたからこそ(1)
主が行き先と戻る時間を告げて出ていってから、数十分。未だ全裸の彼は、その場にある布を手に取り体に巻付け、死に物狂いで館を飛び出す。
どれだけ走ったことか。どんなに息苦しくても、発作が起きそうになっても、構わずに走り続けた。しかし、無理はきかない。力尽き倒れる。
そこを通りかかったのが、倭穏の父、叔だ。
瑠既が目を覚ますと、彼は落胆した。目の前には、また男が立っていたのだから。
助けた礼をしろと言われるだろうと考える。だが、何かを持っているわけではない。金目の物を持ってくるという発想なく、体だけを隠して出てきてしまった。
こうなれば、方法はひとつしか彼は知らない。これまでと変わらないことしか。
──また、同じことをするだけだ。
逃げ出してきたにも関わらず、ためらいはない。諦めるのに慣れきってしまっていて。
しかし、意外にも。
そのそぶりを見せたら、頬を叩かれた。そして、ひどく怒られた。
何を言われたのかは、はっきり覚えていない。──いや、会話をしてこなかった彼は、言葉として認識できず、理解ができなかったという方が正確かもしれない。
頬を伝う涙よりも、頭をポンポンとされた感覚に気づく。やさしい慰めは、ひどく涙腺をゆるませた。
叔は服と、食事をくれた。住む場所と安心も、叔は与えてくれたのだ。
叔に怒られたのは、最初の一度だけだ。
うまく話せなくても叔はやさしく接してくれた。文字も教えてくれた。叔の娘の倭穏と一緒になって、勉強もできた。
数ヶ月後に店を手伝うようになってからは、できることが増えて、それは楽しい日々だった。
だが、それが彼を苦しめた。月日を重ねる毎に、今までの歳月が非日常になっていって。
苦しみは、夢となって現れた。夜中に呼吸を荒げて、何度も起きる。そして、生家を思い出す。──沙稀の無事を願う。帰りたいという気持ちが沸く。しかし、帰れないと悔やむ。
誄との日々が蘇ると、心がバラバラになった感覚も蘇った。生きるために、誄を裏切り続けてきたも同然。汚れきってしまった。初めて肌を重ねたのは男性で。それも、最初が誰と特定できない状況下で。そのあとも、男性も女性も、人数もわからないほど。誰を何度相手にしたのかもわからない。そんな身で、誄を想っていいはずがないと瑠既は己を責める。想っていてはいけないと、想いを否定する。もう、誄を想っていいような人間ではないと、己までも否定する。
鴻嫗城に帰りたい思い。
──沙稀に会いたい。
帰れない思い。
──生家も誄も裏切り続けた。
渦巻く思いの中で、彼は揺れる。
綺にはおだやかな空気が流れていた。大勢の客がいて賑やかで雑多でも叔はほがらかで、倭穏は明るく笑っていた。瑠既も家族のひとりのかのように、一緒になって笑い合える。
けれど、夜。
ひとりになると、綺に来る前の数年間とのギャップに苦しむ。それは、あまりに辛く、耐えがたいもので。
ずっと生家にしがみ付くように切れなかった長い髪。それなのに、長い髪が忌々しい記憶を染み込ませているかのように、瑠既に思い出させる。視界に映るクロッカスに、顔や肩を包むような感覚に──耐えられなくなる。
だが、短く切ってしまえば──その行動は、生家との決別を意味する。鴻嫗城だけの仕来りではない。貴族全体の掟だ。
長い髪を握り締めて、もう片方の手にはハサミを握り締める。涙はあふれ、こぼれていく。いくつも、いくつも。──それは、決別ゆえの悲しみなのか。それとも、綺に来る前の苦痛な体験からなのか。
恐らく、どの感情も正解で。
絡み合う感情に溺れそうになり、必死にもがく。
結び目の上に刃を押し込む。
好んで生家と決別するわけではない。ただ、彼にとっては必要な儀式だった。これからを、生き直すために。
感情の波が押し寄せる。
押し寄せる波の中、何とか息をしようとし、呼吸が乱れる。
過呼吸で視界がくらみそうな状態で、開いたハサミを──藁をもつかむ思いで力を入れる。
ハラリと結び目がほどけていく。
髪を握っていた手からは、何本も、何本もすり抜けて落ちていく。
やっと地上に着いたかのように、徐々に呼吸は整う。
落ちていた大粒の涙は、瞳でたまる。
──ごめん、沙稀。ごめんなさい。……誄姫。
生家に別れを告げたと痛感する。そして、誰よりも大切だと思っていた人たちよりも、自分自身を選んだということも。
平和な年月は流れ、瑠既は話すことも昔ながらの人懐っこさも、豊かな表情も取り戻すことができた。
学力は取り戻せないままでも、日常生活に支障のない程度に文字を書き、計算もできる。世間に出たらどうかわからないが、一先ず、綺では充分働いていける戦力だ。──充実する毎日は足早で、瑠既は二十一歳になっていた。
幼かった倭穏は十五歳。年を追うごとに活発さも明るさも増し、彼女はより繁盛させようと、宿屋の踊り子になっていた。かわいかった踊り子は、この二年の間で急激に大人のような体つきに変化している。輪をかけるように、衣装は大人顔負けの妖艶さが漂う。華麗に踊る姿は客を魅了し、倭穏は看板娘と言われ人気者になっていた。倭穏目当ての客も来るようになり、店は大繁盛だ。
そんな折、悲劇は起きた。
その日、叔は急用で夜に宿屋を抜けた。幸い宿泊客は多くなく、瑠既と倭穏でも何とかなりそうだった。
宿泊客が多くないと言っても、ふたりだけでは慣れない作業も多く、目がまわる忙しさだ。そこへ、二階の客から声がかかった。この日の二階の客は、一組。
「私が行ってくる」
「おう、頼む」
このあと、瑠既は悔いる。倭穏に行かせてしまったことを。
忙しさが引いて、気づく。倭穏の姿をあれから見ていないと。
──あれ?
瑠既が違和感を覚えていると、声がかかる。
「悪い。会計してくれ」
二階の客、男性数人が降りてきていた。
「あれ? 泊まりだったんじゃ……」
「あ~、これから呑みに行くことになってさ」
カウンターの前に立つ男は財布に目を落とす。連れの男が更に言う。
「新しくできた店に変わった酒があるっていう話を思い出してね」
客都合の変更はたまにあることだ。こんなときの対応は瑠既も知っている。
「そっか。まぁ、でも当日キャンセルになるから、お代は変わらないよ」
「ああ、構わんよ。こっちの都合だからな」
男は財布から瑠既の提示した金額を素直に支払う。後ろにいた男たちはゾロゾロと出ていった。
「まいど、どうも」
瑠既が金額を確認して領収書を渡したときだ。男は下品な笑みを浮かべる。
「い~や。礼を言うのはこっちだ。ありがとよ」
手から雑に領収書が離れていった。遠ざかる男の後ろ姿に、瑠既の胸がざわつく。