【37】崩壊と無(2)
誘拐だったなら、彼にはどのくらいよかっただろう。
彼は、最悪な事態に身を置くことになる。
母に似ていた彼は、その抱えられていた卑しい顔の男を筆頭に、何人もの男に囲まれ凌辱された。
手も、足も、顔も押さえつけられたら、どこに力を入れたら抵抗できるのかもわからなくなる。
発作をすぐに起こした。
だが、それで非情な行為は終わらずに、ただこらえながら耐えるしかなく。
汚らしく、卑しい男たちに、彼の性別も男だと気づかれても玩ばれる。屈辱でしかない。
祖母の声が聞こえた気がした。
「体も心も清く、誠実に生きるのよ」
口癖のように、祖母に教え込まれてきたこと。
「『懐迂』を、『海胡』を光らせてほしいの。私も、娘の紗如も……結婚できない人に恋をしてしまったから」
切実な祖母の願い。
「瑠既の名前にはね、私の名前が入っているの。ほら、『留』と入っているでしょう?」
祖母の深い想いを受け、叶えようと幼いながらに思っていた。約束をしたから。それなのに──。
すべてがバラバラに砕けていく感覚。
何もかもが、奪われていく感覚。
止まらず、続いていく衝撃。
──いつまで、続くのだろう。いっそ、殴られていた方が、切られた方が。違う。いっそ、このまま……殺して。
衝動も発作も止まらず、意識を失う。叫びにも似た望みは叶わずに。
本当の地獄の日々が、幕を開ける。
残酷な現実を見たのは、うつ伏せで目を覚ましたとき。理解不能な体の痛みを感じて起き上がると、そこは畳の上だった。広い空間なのに、それを感じることはできない。見渡せば、男女合わせて百人はいそうだ。多くは絡み合い、恥じる様子はない。
異常な光景だ。布団はあれど、皆、衣服は着ていない。
ふと、己の身に意識を向ける。──何も身に着けていない。
──身ぐるみを剥がされ……た?
愕然とした彼の前に、更なる追い打ちがかかる。──目の前に、あの卑しい顔の男が現れていた。
「おお、べっぴんさん。やっと目ぇ覚ましたのか。ここでのルールをキッチリ教えてやろう」
瑠既は視界に入った裸体から目を背ける。そこへパンが置かれる。ちいさなロールパンだ。
そういえば、あれから食事をしていないと気づく。急激に感じる空腹。手を伸ばすと、その手は目の前の男につかまれる。男はしゃがみ、目線を合わせてきた。
「この館で飲み食いしたきゃ、体を使って俺たち食事係にご奉仕しろ。しっかりと、ていねいになぁ」
にったりと笑う汚い顔。──思い出す惨劇。
血の気が引く。何があったか、何をされたかを思い出して。
「いらない」
振り絞った声は男を怒らせた。手を持ち上げられて、力の限り投げ飛ばされる。
幸いというか、不幸というか、複数の男女のいるところに投げられたため、怪我はしなかった。
「勝手にしろ! まぁ、強がりを言ってられるのは、何日もないと思うけどな!」
そう言って食事係の男は姿を消していく。
「大丈夫?」
押し寄せる複数の男女。二十歳くらいから年齢は様々だ。ただし、瑠既のように幼い者はいない。
首を縦にすると、今度は声をかけてくる者が増えた。
「かわいそうに」
「何も食べてないんでしょ?」
同情の声の中に、見た目をほめる声も混じる。かわいいだの、きれいだの、肌が白いだの、人形みたいだの。
身を縮め、目を伏せたときだ。
「お腹すいてない?」
目の前に現れたのは、先ほど見たのと同じ、ちいさなロールパン。
差し出された物に目を大きく開けて見る。聞こえたやさしい声に顔を上げる。すると、にっこりと笑ったのは可憐な若い女性。
「いいのよ、食べて」
疑うように瑠既が女性を見ると、肯定するようにうなずいた。
こんなところでも親切な人がいたと、瑠既はおそるおそる手を伸ばす。ロールパンを瑠既が手にしても女性の表情は変わらない。それは、食べ始めてもだった。──いや、食べ始めたら。女性は周囲の男女とうれしそうに笑い合った。
そうして食べ終わるころには、その笑みは闇をまとうものへと変わっていた。
「あなた、ルールはきちんと聞いたものね? ああ、私たちは食事係ではないけれど。でもね、私たちも、ここにいる人たちはみ~んな、同じルールで食事をもらっているの。……わかるわね?」
食べてしまったものは返せない。
返す方法は、ひとつ。
この館には、便乗する人は数多くいても、親切な人などいないと痛感した。
瑠既は心を閉ざし、話さなくなる。感情を手放したように笑わなくなり、何事にも無関心になったかのように、無表情になっていった。
食事を得るために、身を差し出す。
食事以外でも誰かに求められれば、拒否をしなくなる。
しばらく経って、この館は性を売り物にしている者の館だと知った。教えてくれたのは、あの若い女性だ。
「この大部屋はね、顧客を一定数とれない者のスキルを磨くための場所。つまり、ここにいる女は修業を積んでいるのよ」
大部屋にいる男は、訓練役。食事係はその訓練の評価役だとも言う。瑠既は返事をしないが、更に女性は続ける。
「食事係に合格を押されれば、客相手をする『商品』にまた戻れるの。でも、あなたの場合は事情が少し違うかもしれないわね」
瑠既は視線を向ける。すると、女性はその態度にふふふと笑った。
「『商品』は十四歳以上の女子が一般的なのよ。だから、ちいさな女の子がたま~に入ってくることがあっても、男の子は……私の知っている限りいないの」
そんなことを言われても、瑠既がここに連れてこられた訳を知る由はない。
朝も夜もわからぬまま、どれほどの月日が流れたか。
主に会う機会が設けられた。その主は『高貴な物は何でも好きだ』と言い、瑠既を見て『この美しさに性別は関係ない』とまで言った。
それからの瑠既は、まさに籠の中の鳥。主は瑠既を独占するために、自室に閉じ込める。寵愛を受け続けたが、その言動は瑠既の心を凍らすばかり。
年月が経ち、男性的な変化を迎えても主の態度は変わらなかった。ただ、何年も尽くしたこと、逆らわなかったことがよかったのだろう。すっかり安心していた主は、瑠既に対し、隙を見せるようになる。
行き先を告げ、戻る時間まで告げて部屋を出ていく。
主としては長年連れ添う夫婦のような感覚だったのかもしれないが、瑠既はそうではない。主の発言を一度目は疑い、二度目で信じ、三度目で決意した。