【37】崩壊と無(1)
七歳のあのとき、胸騒ぎと沙稀に呼ばれた気がして目を覚ました彼は、沙稀と同じように鴻嫗城の混沌に巻き込まれた。
「瑠既様は、このまま鐙鷃城に身を隠してください」
大臣の言葉を信じ、両手を強く握る。そして、体に鞭を打ち鐙鷃城へと走り出した。
彼は恐怖心を振り払うように無我夢中で鐙鷃城を目指した。だが──。
「あれ?」
いつの間にか大きな影が地面を覆い、異変に気づく。顔を上げると、周囲は木々に囲まれていた。見上げてみても、木々以外に見えるのは青い空だけ。
風がサワサワと木々を揺らす。
自然の発する音に不安が募り、体ごと回転してあちこちを見渡す。
「もう、着くと思ったのに……ここはどこだろう」
体の方向まで回転させたせいで、来た方向さえわからなくなっている。
鴻嫗城の周囲は、林に囲まれている。かんたんに抜けられるところもあれば、森のように深く迷うところもある。だからこそ、知っている道しか歩いたことがない。
「どうしよう……」
この状況で夜を迎えたらと想像する。ふと感じるのは、背筋の寒気。
「このままじゃ駄目だ。とにかく、明るいうちにここから出ないと」
足を動かす。それは徐々に早くなり、ただ、発作を起こさない程度のもので。ときに多少休みながら、無理のないように歩き。
そうして、やっとある街に辿り着く。
街は絢朱だった。もちろん、初めてきた街。来た道もわからなければ、帰る道もわからない。ただ、連絡用の電話番号はきちんと覚えているし、何より鴻嫗城の近くの街ならば、どこか店の人に聞けばすぐに道を教えてもらえるだろうと安心した。
「あ、でも……今すぐは連絡できないか」
鴻嫗城が危険な状態だからこそ、鐙鷃城へ身を寄せるはずだったと思い出す。鐙鷃城へは鴻嫗城の裏門からの道でなければ、ずい分と遠回りになる。けれど、鴻嫗城の裏門を知っている人は、この街にいないだろう。
瑠既はそう考えて、鴻嫗城に行くのは断念するしかないと結論づけた。そして、二、三日──大臣であれば、そのくらいで瑠既が連絡をしたり、帰ったりしても大丈夫な状態にしてくれるだろうと次の案を導く。
そうとなれば、それだけの間の我慢をすればいいだけ。数日だけなら、どこかに隠れていればいい。
周囲を見渡し、しばらく身を隠せる場所を探し始める。なるべく、人目につかないような場所を歩き、落ち着けるような場所を。
この行動こそが、間違いだったとも疑わずに。
──ここがいい!
目を付けたのは、一隻の船。
実はこの船、十八時発の楓珠大陸行きの船なのだが、この街に来たこともない彼は知る由もない。偶然この日は乗客が少なく、不運にも彼には『ただ停まっているだけの船』に見えた。
こっそりと船の低いところから乗り込む。
そこは、船で使用する荷物の置き場だった。荷物を覆う布を見て、
「隙間もあるし、何より布を被れば夜になっても寒くない。しばらくいるには、ちょうどいい場所かな」
と、まるで自分だけの特別な場所を見つけられた気になり、頬がゆるむ。
「勝手に借りてごめんなさい。だけど、ちょっとの間だけ貸してください」
行儀よく頭をペコリと下げると、やわらかそうなものを探し、それを敷布団代わりにして横になる。頭まですっぽりと荷物を覆う布をかぶった。
すると、疲労からすぐに眠りに落ちる。──それは、船の汽笛が鳴り出航しても、気づかぬほどの深い眠り。
夜もふけたころ、数人の男たちがこの荷物置き場で起き出す。
「うまくいったな」
「ああ、主が厄介な物を欲しがったからな。まぁ、そのお蔭で梛懦乙大陸に数日だけでも忍び込むことができたんだがな」
「さぞかし、高級なワインなんだろうな。自分の誕生日だけは豪勢にするからな、主は」
わっはっはと豪快に笑う。
不法入国者たちだ。恐らく、話しているワインの入手方法も合法ではない。
「さて、ワインをどこに置いたかな」
「おいおい、割れていたらシャレにならねぇぞ」
「大丈夫だって。そ~れ!」
ブワッと布が舞う。そのとき、あろうことかクロッカスの長い髪の毛が見えた。
「ん?」
ひとりの男がそれを発見する。
「どうした?」
「俺たち以外に誰かいるぞ」
更に布がめくられる。すると、今度は、
「おおー!」
と、歓声のような男たちの声が沸いた。
「ん~……」
瑠既の寝返りに、男たちはどよめく。
「やべぇ、起きちまう」
「何とかしろ!」
「何とかったって……」
「アレがあるだろ!」
あわてふためく。
「アレって何だよ!」
「ワインだよ、ワイン! 主が言っていたよりも多くパクれたんだ、一本くらい開けてもいいだろ。早くしろ」
ひとりの男はあたふたとワインを手に取り開ける。
「開けてどうするんだよ?」
もうひとりの男が問う。すると、指示した男は下品な笑みをこぼした。
「見てみろよ。べっぴんだと思わねぇか? こんな上玉、いただいてみたいと思わねぇかよ」
「さぞかし主も喜ぶだろうな」
ワインを開けた男は、指示した男にワインを渡す。
「さて、ごちそうは熟成させねぇとな」
ワインを手にした男は口に含むと、上級な手土産に口移しをした。
「ん……んんん……」
「ん~、いい反応だ。さて、お楽しみは船を降りてからだな」
それは、上品なワインとは不釣り合いの笑みだった。
ぼんやりした意識で瑠既が目を開けたのは、船に乗り込んでから丸一日以上が過ぎてからのこと。見知らぬ男に抱えられており、景色はまったく知らないものだった。見たことのない町。──そう、彼は楓珠大陸にいた。
どこに連れていかれるかわからない不安。尚且つ、見上げる男は卑しい顔をしている。
逃げる勇気は湧いてこない。抱えられ、普段の視線よりも高い位置。飛び降りる度胸はない。だからと言って、助けを求める声も出せない。怖くて。
クロッカスの髪は飛びぬけて目立つ。貴族だと、それも位の高い者だと証明しているのに他ならない。──これは主に貴族の住む大陸での話で、城を持たない楓珠大陸ではそこまでではないのだが、金に汚い者たちに目を付けられることはある。年端のいかない者の誘拐、つまりは身代金目的。当時、内乱の多かった梛懦乙大陸でも起こることがあった。
──そうか。
恐怖に支配されそうになった瑠既は、その可能性を浮かべる。容姿から『高貴な者』とわかる己を盾に、身代金を取ろうと連れていかれるのだと。
そう思うと少し楽観的になった。なんと言っても、生家は天下の鴻嫗城。身内は弟しかいないが、誘拐されたと大臣が知れば、すぐに身代金は払われるに決まっている。
船に乗り込む前は自ら連絡をしたり、帰り道を聞いたりしなくてはいけないと思っていたが、その必要もない。誘拐犯は生家を聞いて、大喜びで連絡を入れてくれるのだろうから。
──よかった。無事に帰れる。
そう思ったのは、束の間。