★【3】影武者
沙稀は一階の渡り廊下を歩いていた。両サイドに柱はなく、風が心地いい。よく晴れた爽やかな朝だ。
この渡り廊下を道なりに行けば、地下へと続く階段がある。沙稀は滅多に立ち寄らないが、地下には宮城研究施設があり、恭良がよく出入りをする場所だ。となりに姫がいない今、姫のもとへ向かおうとするのは習性のようなもの。
早い足取りの沙稀だったが、地下へ延びる階段の手前で足を止めた。──いや、止まってしまったという方が正しい。強く鼓動が鳴り、冷や汗をかく。まるでこの先に踏み込むことを、体が拒否しているかのごとく。
冷や汗をやさしく拭くように、やわらかな風が吹く。その風は、沙稀の立ち止まった心をゆっくりと包む。
深く息を吸う。──あれは、過去のことだ。そう言い聞かす。
そう、あれは過去のことだ。決して口に出すことのない、過去。口外しないからと言って、忘れられるものではない。七歳のあの日、沙稀は──。
「くだらない」
思い出した過去に立ち向かうように、左手を強く握る。一度立ち向かうと決めたら、後戻りはしない。それが沙稀だ。重い足を無理に動かし、地下へと姿を沈めていく。
階段は足音が響く。誰かに追いかけられているような、そんな幻想を生み出すほどに。しかし、幻想は幻想のままで終わる。宮城研究施設が活動している時間は、地下とは思えないほど周囲は明るい。
ただ、沙稀の心に明かりは通らず、足取りは重いままだ。──あれは十年以上前の出来事だというのに、未だ断ち切れずにいる。その事実に、苛立ちを覚えている。強く握った左手は、ゆるまない。
鴻嫗城内を歩く沙稀の足取りは、常に正確だ。別のことに意識を取られていても、変わることはない。
トントントン
軽快なノックをし、沙稀は手を下げて返答を待つ。すると、
「はい」
と、ひとりの女性が顔をのぞかせた。
『女性』であるにも関わらず、その顔立ちはかわいらしく、幼い印象を残す。広い額を隠すような前髪と、ふっくらとした唇、それにちいさな鼻と顎のせいで──つまりは童顔だ。
それでも、彼女は『女性としての魅力』を際立たせようと努力している。例えば、足元。ひだの多いミニスカートから、長い脚が遠慮なく露出されている。
しかし、残念なことに、その努力はまったく報われていない。
膝まであるロングブーツから靴下が見えていても、わずか。絶対領域が存在している。女性の色気を演出したい彼女だが、それは萌え要素だ。
ゆるい上着にしても、膨らみが露骨にわかる胸元は追い打ちだ。この際、的確に周囲の認識を言い表すなら『ロリータ』だろう。
唯一、彼女の努力が報われているきちんとした前髪と、肘まであるクロッカスの横髪が上品に揺れる。
「珍しいのね。いらっしゃい」
彼女のクロッカスの瞳がつぶれる。
クロッカスは特別な色彩だ。瞳と毛髪にクロッカスの色彩を持つ者は、高貴な血筋を継ぐ者。つまりはそれを象徴する色彩だ。貴族や上級階級の者なら、誰もが知っている一般常識。当然のように、世に君臨する由緒正しき鴻嫗城の姫は、クロッカスの色彩を持っている。
だが、彼女は鴻嫗城の姫ではない。
「恭良様に用? 残念ながら、ここにはいらしてないわ。それとも、私に用だった?」
「いや、用事というか。朝食の最中で席を立ってしまったから……って、どうして俺が凪裟に?」
平然と言う沙稀に、凪裟はむくれる。
「沙稀って、たまに『真面目すぎ』て『つまらない』と思うわ」
「それはありがとう」
凪裟の嫌味に対し、沙稀は心底うれしそうに笑う。その反応に、凪裟は頬を赤らめた。
うつむいた凪裟を前に、沙稀は天井を見上げる。それは、嫌味を冗談で返したつもりが、判断を誤ったことの後悔か。
「そういえば」
数秒流れていた妙な空気を切るように沙稀は口を開いた。凪裟はゆっくりと視線を上げる。
「おめでとう。捷羅様とお付き合いしてみることにしたんだって?」
「そんなに……幸せそうに笑わなくったっていいじゃない」
「そんな顔をしている? でも、うれしいよ、十年来の友人が幸せになるのは」
剣士としての緊張感なく、おだやかに微笑む沙稀に凪裟は見とれる。こんな沙稀が見られるのは珍しく、つい伸ばしたくなった手を咄嗟に凪裟は抑えた。
「幸せになるかどうかは、まだわからないけどね」
「熱烈に恋文をくれていたかと思えば、凪裟が嫌だと言ったらぴったりと止まった物分りのいい方なんでしょう?」
返事を促すやさしい声も、凪裟には残酷だ。
「まぁ……」
「羅暁城の嫡男である捷羅様とお付き合いするってことは、どういうことか……当然、凪裟は理解した上で結論を出したと俺は思っているけど」
通常、後継者は縁談の話が出れば、それは婚約も秒読み。まして、恋愛となれば尚更。
再び凪裟の視線は下がる。
「ちょっとは妬いてくれるかと思った」
「誰が?」
「毛嫌いしてるでしょ、捷羅様のこと」
「職業柄、恭姫に近づこうとする男はすべて振り払おうとするだけ。前歴があれば余計に警戒するさ。……あれ。俺、何年か前に凪裟から言われたときに、ちゃんと断ったよね」
そっぽを向いた凪裟の肩を沙稀はつかむ。強引に合った視線は、互いに真剣そのものだ。
「あれ……本当だったの? 本当は、恭良様が好きなんじゃないの?」
「あのね、姫と護衛の恋愛はご法度。そんなことは周知だし、昔から肝に命じている。それに、誰かを好きになるなんて考えられないし、あり得ない。俺には鴻嫗城の姫の側近という立場がすべてだ。俺がこの立場を失ったら、鴻嫗城にはいられないだろうしね」
「沙稀は恭良様のためなら……命を失うことだって、ためらわなさそう」
凪裟の言葉に瞬時きょとんとした沙稀だが、次の瞬間には微笑していた。
「鴻嫗城が存続していくためなら、俺はいかなることでもするだろうね。ほら、『真面目すぎ』て『つまらない』男なんて、恋愛には最低だと思わない? その点で言えば捷羅様はとっても魅力的な男性だ」
ふと、肩から離れた手を凪裟の目は追う。幸せそうに笑う沙稀は、友人の幸せをただ祝福しているにすぎない。──他人の幸せを純粋に喜ぶのに、自らの幸せは求めようともしない。
「そういえば、誰から聞いたの?」
「羅凍様から」
変わらず拗ねたような態度に、沙稀の返事は早い。
凪裟は納得したように、
「ああ……羅凍は、捷羅様と双子だったわね。雰囲気も立ち振る舞いもまったく似ていないから、つい頭から抜けちゃうわ」
と、ため息交じりに言う。
「剣を嗜んでいる羅凍は、沙稀を尊敬してて……仲いいもんね」
沙稀は軽くうなずき、
「いらっしゃるとも聞いたけど」
と、凪裟に真意を問う。鴻嫗城は、誰彼構わず入れる城ではない。たとえそれが、梓維大陸を治める羅暁城城主の息子たちであるとしても。
「伝説をね、聞いてみたいって言ったら」
「伝説?」
「この大陸には絵本童話があるでしょ? でも、それとは別に女神様の伝説があるんだって。それを聞いてみたくて捷羅様にそう伝えたの」