【34】追憶の記憶2(2)
大臣から傭兵の一室を与えられ、鴻嫗城の傭兵になる案を提案された。しかし、これは提案という名の強制だった。
拒否権はない。選択肢もない。鴻嫗城に身を置きたいのなら。クロッカスの色彩を失ったと知ったのは、この直前だったのだから。
地上に出た沙稀は眩しい夕日を見て、立ち尽くす。夕日を見ると、心が無になる。
戦いが終わったときも、ひとりで鴻嫗城に血だらけで帰ったときも、無我夢中で剣を振り回したときも、岩を救えたと思ったときも、初めての相棒を失ったときも、いつも夕日が見ていたと。
救えなかった命。命だけを救ってしまったこと。そして、今も生きている。
ふと、浴びた血をこすって、しみこんだままだと気づき、沙稀は部屋へと急ぐ。──ある程度の自由を手にして、沙稀が執着するように好んだのは、香りだ。時間があるとシャワーを浴びて、シャンプーやボディーソープの香りに包まれると落ち着くようになった。
誄と十一歳のときに再会し、香水をもらった。あげたい相手は違かったと伝わったが、何も言わずに受け取った。それからは、更に拍車がかかったように。──それは、自然なことと言えば、ごく自然なことで。独房に放り込まれ、何とか手足が動くようになるまでの間も、誰も世話をする者がいなかったのだから。
その間の悪臭たるや。望んでしたことではなかったとはいえ、してしまった粗相の掃除も、自らが行った。だからこそ、ふと、その間の悪臭が鼻に付いて、いくら体を洗っても気になることが頻発していた。
ひどいときには、皮が剝けるまで擦ってしまう。──そうして気づく。右半身の痛みを感じないことに。動かせばかすかに残る、痺れるような感覚に。動けるようになるまでは必死すぎて、全身の痛みなどに鈍感だった。
無意識に左手で持つことが多かったと思い、意識して利き手を左手に変えたのは、それからだった。右半身の動きも、意識するようになった。不自然にならないように、見えないようにと。
けれど、昔は痛みを感じないのをいいことに、避けきれないものは右側であえて受けるようにしていた。それとは別に、意識をしていてもふと気がゆるんでしまうことがあったのだろう。一時、沙稀が不自然な動きをすると剣士たちの間で噂されたことがあった。
初めての相棒は、気にするなと言ってくれるやさしい剣士だった。それなのに、そのやさしさにも心を開けないまま──最後は庇われるようにして、命絶えてしまった。救いたくても、救えなかった。あのときのことは、沙稀の心深くに刻まれている。
初めての相棒を失って、その大きさに気づきまた独りになったと感じた。でも、それは間違いで──噂は、いつの間にか消えていた。
部屋につくと、即座に風呂場へと向かう。こんなときにシャワーを悠長に浴びている時間はないのは、わかっている。
だが、しみ込んだ血とともに、過去を一緒に流してしまいたかった。こうでもしないと、まだ過去へ引きずられてしまいそうな気がして。
普段よりも素早く、強く体を洗う。けれど、虚しくて、苛立たしい。忘れなくては。行かなくてはという思いが、余計に沙稀を急かす。
歯を食いしばる。
──あれはもう済んだことだ。
終わったことに溺れていても、今は進んでいく。それならば、溺れていても仕方がない──と、這い上がる。
風呂場から出て、急いで身支度をする。仕上げにと、手に持つのは香水。胸に吹きかけ、安堵を得る。
入り組んだ造りの鴻嫗城。その城内すべてを、沙稀はいつでも最短距離で歩く。
生家が鴻嫗城である彼にとっては、当たり前のこと。母から教えを受け自然と身に付いていたものだが、それに気づいたのは剣士として身を置くようになってからだった。
沙稀は剣士たちによく言われていた。物覚えが飛びぬけていいと。
余計なことは言わない方がいいとあまり話さないようにしていたら、言葉は最小限になっていった。誤解を受けていると感じても、解こうとする努力もしてこなかった。
それでいい、これからも同じ日々が過ぎていく──沙稀はそう思っていた。だからこそ、瑠既が帰ってきたのは、沙稀にとっては都合が悪い。それもあって、つい距離を置こうとしてしまう。
本来なら、自ら歩み寄らなくてはと思ってはいる。置いていったと瑠既は負い目を感じているだろうから。
けれど、その負い目をも突いてしまった。
瑠既は気にしないだろうが、口にした方は、そういうわけにもいかない。
倭穏のこともある。瑠既は帰ってきている。会いにくいが、顔を合わせないわけにもいかない。
足は急ぐ。
大臣のもとへ。職務へと戻るために。




