【34】追憶の記憶2(1)
沙稀の足取りは重かったが、恭良を長い時間ひとりでいさせたくはないという想いが徐々に勝る。
宮城研究施設へと急ぐ。地下への入り口を駆け降りるほど、沙稀は目的に一直線だ。恭良は普段、この時間は宮城研究施設にいる。凪裟が帰城していたなら、宮城研究施設に行くはずだ。たとえ、そこに恭良の姿がなくても凪裟は仕事に取りかかるだろう。鴻嫗城を出ていくのは決定事項になりつつある。まとめたい仕事は、山ほどあるのだから。
沙稀が宮城研究施設をノックすると、やはり凪裟はいた。羅暁城から帰った名残というべきか。幸せそうな雰囲気が漂っている。沙稀の顔を見ても、恭良のことを聞きもしない。
浮かれている凪裟は珍しい。沙稀が用件を言えば、雰囲気は真逆になるだろう。けれど、ゆっくりしている時間はない。
「幸せな話を聞いてあげられなくて、すまないが……」
沙稀は友としてそう切り出すと、すぐさま恭良のそばに行ってほしいと告げる。王の訃報を合わせて。
凪裟の顔がみるみる青くなっていく。わかったと返事をした凪裟は、部屋を出ようとして、振り返る。
「そういえば、クロッカスの髪の毛と瞳なのに、短髪の人と裏門で会ったわ。何か、今回のことと関係のあるのかしら?」
凪裟も貴族が短髪にする意味を知っている。中には復讐を企む輩もいるわけで。凪裟が警戒してもおかしくはない。
だが、凪裟の言わんとする人物は、瑠既だ。そう直感した沙稀は、
「いいや。無関係だ」
とだけ返答した。
「そっか。じゃ、行ってくるわ」
凪裟は胸のつかえが取れたかのように走っていく。
沙稀は胸をなで下ろす。瑠既は鴻嫗城との繋がりも、沙稀との関係も、何も凪裟に言っていないだろうと推測して。
沙稀は職務に戻ろうとした。──けれど、意識を取られてしまった。地下の奥にある場所に。
地下の奥には、鴻嫗城の聖地と呼ばれる場所のひとつ、聖なる泉の『懐迂』がある。婚式の前夜に清い体のままのふたりが誓いを証明する泉。この泉は輝かしさと暗黒さの二面性を持っている。清くない者や、誓いを証明できなかった者たちは、入ったら最後。呑み込まれて、二度と出てはこられない。
ゆえに、恐れて誓いの証明を立てようとしない者もいた。清い体でない者は、尚更恐れた泉。
懐迂と正反対の位置にあるのは、独房だ。噂では、父の命が絶たれた場所だと聞いている。──その独房に、沙稀もいたことがある。
動けない沙稀を連れて大臣が向かった先、それこそが独房だった。
到着するなり、すぐさま布団の上に無造作に投げ付けられた。身を庇うことも叶わない。そこへ言われた言葉は、今でも覚えている。
「自ら、動きなさい。歩きなさい。できなければ、貴男に待つのは死のみです」
大臣はそれだけ告げると、出ていった。
頭を抱える。過去に引きずられそうになって。
動かない体。それでも、どうにか動かさなければ生きていけないと突き付けられた。何とか腕を、手を、指を動かそうと必死になった。──かすかに動いた左の小指。それだけで、息が上がった。体は鉛のようで、到底、自由になど動かせない。だが、諦めてしまえば、息絶えるしかない。
──諦めるものか。
抗うように、手を握ろうと力を入れた。
深いため息をついて、手を見つめて握る。
虚しく時間だけが過ぎていったこと。手を握ることさえ、かんたんには叶わなかったこと。以前のように動けるようになるとは、とても想像がつかなかったこと──を思い出す。
いや、あのときは以前のようにとは言わずとも、手足が動くようになることさえも──想像できず、絶望が押し寄せてきて涙が滲んだ。
食事は三食、大臣が毎日運んできた。ただ、それだけだ。
大臣は沙稀が『生きている』のを確認するだけで、触れもせず、声もかけずに出ていった。
食事は顔の近くに置かれた。何とか食べようとすることで、より必死に動こうとするが、すぐに手足が上がるようになるわけではない。人間らしく食べられなくとも、食べなければ餓死してしまう。
そんな毎日が続き、疲労と情けなさで食べないこともあった。
大臣に甘えたいわけでも、やさしくされたいわけでもない。けれども、多少なりとも補助をしてくれてもいいだろうという気持ちが沸いた。
それを、大臣は見抜いていたのだろう。大臣から初めて声がかかった。──罵声だ。食べることを強要するもの。手が出てくるのではないかと恐怖を感じるほどの。
これまでの大臣とは、まったく違うと植え付けられた瞬間。
このとき大臣は、沙稀が手足を使えないまま食べ始める姿を見るまでは、去らなかった。
大臣の足音が遠ざかると、涙はあふれた。
悔しくて。情けなくて。
歯を食いしばり、拳を握り、這いつくばり、自ら立ち上がり、最後には歩けるようになった。──いや、そうなるしかなく。決して諦めなかっただけ。
沙稀は宮城研究施設を出て、歩き始める。しっかりと、今は動き、歩けることを噛み締めて。
体を何とか動かせるようになったあとも、しばらくは独房生活のままだった。変わったのは、大臣と剣の訓練が始まったこと。そこで築き上げられたのは、絶対的な師弟関係。以前のような基礎の基礎だけではなく、徹底的な訓練だった。
半年ほど経ったころ、数年ぶりに日を見た。少しずつ鴻嫗城の剣士たちと剣を交えるようになり、気づけば剣士のトーナメントで優勝していた。
それからだ。生活がまたもや一変したのは。